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第36話 灼熱の奥へ

 裂け目へ一歩踏み込んだ瞬間、視界は鮮烈な赤に染まった。

 壁面は生き物のように脈打ち、溶岩の血管が地の底を流れているかのように光を放つ。

 床の亀裂からは絶え間なく炎が噴き出し、熱と瘴気がうねりを上げて空間を満たしていた。


 本来ならば、息を吸うだけで肺を焼かれ、ひとたまりもなく崩れ落ちるはず。

 だが――莉理香の歩みは淀みなかった。


 それどころか彼女は意図的に冷気制御を緩めていた。

 肌にまとわりつく高温の気流を、竜核が吸収し、静かに散らしていく。

 その負荷は彼女にとって大したものではなく、額には汗ひとつ浮かばず、呼吸も乱れなかった。


(……これくらいなら、制御を強める必要はないかな。私にとってはただの“温い空気”だ)


 余裕すら感じさせる内心。

 平然と進む姿を、肩越しに追うドローンのレンズが余すことなく捉える。


 その映像は即座に中継され、ネットの画面を白文字で埋め尽くす。


《ちょ、待て。環境温度ヤバくね?》

《解説頼む。これ何度レベルだよ……》

《……汗すらかいてないように見えるんだが?》

《映像に違和感ありすぎる》


 白文字の奔流を見た現地の兵士たちも、思わず顔を青ざめさせた。

 彼らは知っている。この灼熱に防護服が意味をなさないことを。

 それなのに一人、涼しい顔で歩いている――その事実が、恐怖と畏怖を同時に叩きつけてきた。


 莉理香は掌を前にかざし、小さく呟く。


「……冷気は装備を守るための最小限。これ以上は要らない」


 彼女の口から漏れた息は、ほんのわずかに白く立ちのぼり、周囲の熱気を押し返す。

 だが、その範囲は狭く、あくまで彼女自身の装具を守るに足るだけ。

 後ろをついてきたドローンは、その温度差にセンサーを震わせた。


 赤外線表示は真っ赤に塗りつぶされ、表示温度は一瞬で限界値に達する。

 だが、中心に立つ彼女だけが――青。

 炎の海の中で、ひとりだけ異質な存在が浮かび上がっていた。


 コメント欄はさらに荒れ狂う。


《バグってんだろこの映像》

《いやドローンのサーモは正確。周囲は800度以上、なのに彼女は常温?》

《これ、CG合成って言われても信じるわ……》

《人間の枠組みじゃ説明できない》


 畏怖と称賛、恐怖と希望――あらゆる感情が入り混じり、ネットは熱狂と動揺で揺れていた。


 だが、莉理香本人はそんな視線を知る由もなく、淡々と歩を進める。

 竜核の脈動は穏やかで、心に宿るのは揺るぎない確信。


(ここで止まるわけにはいかない。この先に、崩壊の源がある)


 紅蓮の地獄を、彼女はただ一人で進んでいった。

 竜影を背にまとい、足音が深淵に吸い込まれていく。


***


 灼熱の回廊を抜けたその先――

 広がっていた光景は、もはや常識を踏み躙る異界だった。


 天井は火山岩の洞窟のはずなのに、そこを流れるのは逆さまに垂れる溶岩の川。

 重力の法則を裏切る赤い奔流は、空中で渦を巻き、光の帯となって空間をねじ曲げている。


 その中心で、紫黒の霧が泉のように滾り、絶え間なく噴き上がっていた。

 濃密な瘴気はただのガスではない。魔素そのものが飽和して固まり、炎と冷気の境目をも侵食し、空間の位相すら歪めていた。


「……これが、瘴気の源……」


 莉理香は立ち止まり、息をのむ。

 目の前で噴き出す黒霧の底から――異形の魔物たちが次々と産み落とされていた。


 人の背丈を超える蛇。

 四肢のねじれた狼。

 煤けた羽音を撒き散らす昆虫の群れ。


 どれもが半ば液状のまま、形を保ちきれずに呻き声を上げ、瘴気の海に足を踏み出す。


『……ダンジョンの核が剥き出しになっているな』


 胸奥でラギルの声が低く響いた。


(核……これが……)


『本来なら結界の奥に封じられ、世界から隔絶されるはずのもの。それが火山の力に引きずられ、地表に露出しておる。だから魔素が溢れ、魔物が勝手に生まれるのだ』


 冷徹な言葉に、莉理香の背筋がぞくりと震えた。

 目の前に広がるのは、世界の理を揺るがす“崩壊の源”。


 ――それを今、たった一人で見つめているのだ。


 ドローンはその全てを映し続けていた。

 紫の霧、ぐずぐずと形を失った魔物の群れ、そして相対する黒髪の女性。


 映像は瞬く間に配信され、ネットの画面を白文字で埋め尽くす。


《なにこれ……地獄じゃん》

《産卵シーン? 魔物が勝手に生まれてるだろこれ》

《……RPGのラスボス前イベントで見るやつだろ》

《やばい、桐嶋先生ひとりでこんなとこ突っ込んでるのかよ……》

《これ人間が立ち入っていい場所じゃない》


 震える文字の列が、映像の異様さをさらに際立たせた。


 莉理香は一歩踏み出す。

 瘴気が皮膚を焼くようにまとわりつくが、竜核がすべてを吸収し、無効化する。


 彼女は冷気を最小限に広げ、ただ前へと進んでいった。


(……ここを抑えなければ、この国全体が飲み込まれかねない)


 その瞳には迷いがなかった。

 だが奥底には確かな恐怖も存在していた。

 ――人間である自分が、これほどの災厄に真正面から立ち向かっている。

 その事実が胸を締めつける。


 だが、彼女の心を支える声がある。


『恐れるな。お前の力は、すでに人の域を超えている。――さあ、示せ、莉理香。お前が“竜”であることを』


 ラギルの囁きとともに、掌から淡い冷気が流れ出す。

 瘴気が押し返され、異形の魔物たちが一斉に唸りを上げ、這い寄ってきた。


 ――戦いは、ここからが本番だった。


***


 瘴気の泉から、またひとつ、またひとつと魔物が産み落とされていく。

 まだ形を成しきらぬ泥の塊がぐじゅりと音を立て、数秒のうちに脚と牙を伸ばす。

 未熟な産声が、やがて獰猛な咆哮へと変わり、揺れる足場を踏み鳴らして前へ進み出た。


 莉理香は一歩、前へ躍り出る。

 胸奥の竜核が脈動し、背骨を走る熱が全身を満たす。

 その流れに身を委ね、彼女は迷いなく拳を固めた。


 ――轟。


 振り下ろした一撃が狼型の頭蓋を砕き、赤黒い破片は一瞬で霧のように散った。

 反転させた膝が蛇の胴をへし折り、爪先が昆虫の甲殻を粉砕する。

 血飛沫ではなく、濃縮された魔素の霧が舞い、虚空に溶けて消えた。


「拳ひとつで魔物を砕いてる……!」


 現地監視室のモニターを前に、兵士も職員も息を呑んだ。

 冷房の効いた室内でさえ、背筋に冷たいものが走る。


 配信のコメント欄は爆発的に流れ続ける。


〈また始まったw〉

〈いや素手で魔物倒せるのおかしいだろ〉

〈武器持つと逆に弱くなるタイプw〉

〈笑えん、人外の所業すぎる〉


 ドローンが映す映像は鮮烈だった。

 黒髪の女が紅蓮の中を駆け、拳ひとつで怪物を屠る。

 その動きは軽やかで、破壊力は竜の咆哮にも劣らない。

 見る者の心は震え、畏怖と興奮が入り混じっていた。


 だが――産声のような咆哮は止むことがなかった。

 一つ倒せば、二つ、三つと増える。

 瘴気の泉は無限の口のように、次から次へと魔物を吐き出す。


 莉理香は額にかかる髪を払いつつ、背後を振り返る。

 避難民も兵士も、ここにはいない。

 あるのは彼女と、後ろに浮遊するドローンの冷たいレンズだけ。


「……っ、数が多すぎる!」


 拳が骨を砕く鈍音に重なるように、焦燥の叫びが迸る。

 竜核は絶え間なく力を巡らせるが、湧き出す敵の速度に追いつかない。


 ネットのコメント欄は、賞賛から悲鳴へと変わっていった。


〈速い……速すぎる! 魔物の湧きが!〉

〈数秒ごとに新しいの出てるじゃん!〉

〈無限湧きだろこれ! ゲームなら詰みw〉

〈やばい、桐嶋先生でも抑えきれない!?〉


 現地の監視員も、同じように顔色を失っていた。


「……人ひとりで処理できる数じゃない……!」


 その場に立ち続けるのはただ一人。

 黒髪の女はなお拳を握り、瘴気と炎の中で魔物を屠り続けていた。


 ――限界が来る前に。

 ――この流れを変えなければ。


 緊迫の中、竜核の脈動はなお強まり、莉理香の耳に低い声が忍び込む。


『……選べ、小娘。このまま殴り続けても尽きぬぞ。核そのものに手を伸ばさねば、終わりは来ぬ』


 ラギルの言葉は冷徹だった。

 それでも――心臓の奥で何かが燃え上がろうとしていた。

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