第33話 海外派遣本番です
会議室の窓から午後の日差しが差し込み、白いブラインドが柔らかい影を壁に落としていた。
救護課の面々が集まる中、莉理香は一歩前に出て、深く息を整える。隣には榊が立ち、手元のノートを軽く閉じた。
「――以上が、先日の制御訓練の結果です」
声に迷いはなかったが、心臓はまだ速く打っていた。
榊が莉理香を媒介として力を扱うとき、その流れは「精霊術」と呼ぶにはどこか異質だった。高村課長が思わず「精霊術?」と眉をひそめたのも無理はない。
榊は資料を指で叩きながら説明する。
「従来の精霊術と違い、私が扱うのは純粋に理屈と計算です。火球を生むにしても、風を操るにしても“感覚”の要素はなく、全てが数式と法則で再現されます。そのため、総じて扱いやすく、安定性も高いと判断しています」
課長が静かに頷く。
「理屈先行の精霊術……いや、術式か。珍しい報告だな」
莉理香は思わず口を挟む。
「ただ……私が意識的に力を貸さずに榊さんが術を行使したときは、私の中で小銭を抜かれるような――微妙な力の流れを感じます。でも、意識的に力を貸したときのような知覚できる消耗はありません」
三浦が「財布から小銭って」と笑いかけたが、莉理香の真剣な表情に口をつぐむ。
高村は顎に手を当て、思案を深めた。
「報告の要点は理解した。つまり、榊が契約者として力を行使する分には君の負担はほとんどなく、安定した術式行使が可能になる。――それだけでも今は十分だ。どう役立つかは、今後時間をかけて確かめていけばいい」
莉理香は小さく頷き、一つの事実は心に留める。
――力が流れた後、魂の力が経験値のように戻ってきて自分の中に蓄積される。
課長や仲間に伝えるべきことではない。この現象について相談できるのは、ラギルだけだ。
高村が資料を閉じ、話題を切り替える。
「次は海外派遣の日程だ。もう聞いていると思うがインドネシアからは3日後に現地で調整会議を開きたいと打診が来ている。こちらからは救護課の数名を同行させる。……三浦、山崎、あと当然お前もだ」
莉理香は高村の目をしっかりと見て頷いた。
――出発前日
探索者協会・救護課の会議室には、普段とは少し違う緊張感が漂っていた。机の上には分厚い書類とノートパソコンが並び、壁際には大型のスーツケースがいくつも積み上げられている。
莉理香は真新しい紙袋を抱えながら、いささか浮き足立った様子で席に着いた。袋の中に収められているのは、彼女が今朝ようやく受け取ったばかりのパスポートだった。
「……やっぱり、本当に緑色なんですね」
目を輝かせながら表紙を撫でると、隣の三浦が身を乗り出してきた。
「そうそう、公用旅券。ふつうの赤とか紺じゃなくて緑色。日本の外務省が“公務で海外に行きます”って証明してくれるやつね」
「へぇ……学生のときは赤いパスポートでしたけど、ずいぶん雰囲気が違いますね」
目を輝かせる莉理香に、山崎が腕を組んでにやりと笑う。
「そうだろう? まあ、色が違うだけで特権があるわけじゃねぇんだ」
「えっ、VIP待遇とかじゃないんですか?」
「残念。入国審査で列を飛ばせるとか、そういうのはない」
三浦が肩を竦めた。
「ただ、外務省が結んでる協定で、公用旅券だとビザいらずで入れる国がけっこうあるの。だから手続きは楽になるわ」
「なるほど……。色が珍しいから、もっと特別なのかと思ってました」
莉理香が苦笑すると、課長の高村が書類を閉じて口を開いた。
「特権があると誤解するやつも多いが、そうじゃない。むしろ“国の公務で来ています”と名指しされる分、監視は厳しくなる。勝手な行動は絶対にするな」
静かな声に、室内の空気が改まる。
莉理香は思わず背筋を伸ばした。自分の任務が、単なる医療支援を超えて国の外交的な意味を持つ――その事実に、胸の奥がざわめく。
「……そう考えると、すごく責任重大なんですね」
呟いた声に、三浦が苦笑を浮かべた。
「まあ、そう身構えなくていいわよ。結局やることは現場での救護。変わらないって」
山崎も力強く頷く。
「そうだ。俺たちの仕事は怪我人を生かして帰すこと。それ以上でも以下でもねぇ」
そう言い切られると、不思議と肩の力が抜ける。莉理香も小さく微笑んだ。
課長が机に積まれたスーツケースを指し示す。
「医療器材と薬剤はすでに梱包済みだ。現地での輸送は大使館と連携している。お前たちは自分の装備と最低限の衣類を手荷物に入れておけ」
「了解しました」
小さくも力強い返事をすると、課長はわずかに目を細めた。
「それでいい。現場に出た時は、いつも通りの桐嶋でいろ。救護課は一人じゃない。全員で支える」
その言葉に、莉理香はようやく深く息をつけた。
胸に抱いた緑色の旅券が、ただの冊子ではなく、新しい舞台への切符に思えてくる。
――成田空港
国際線ロビーは、平日にもかかわらず人の波でごった返していた。
旅行客が色とりどりのスーツケースを引きずり、搭乗口へと急ぐ中、探索者協会・救護課の一行は異質な存在感を放っていた。
全員が公務用のネームタグを胸に下げ、背筋を伸ばして歩く姿は、まるで小規模な部隊の行軍のようだった。
莉理香はと言えば――緊張する仲間たちの列の中で、ひとりだけ浮き立つような足取りだった。
視線は常にきょろきょろと周囲をさまよい、免税店の看板や土産物の山に「わぁ……!」と小さく感嘆の声を漏らす。
同行の三浦が横目で見やり、呆れたように笑った。
「……ねぇ、あんた。海外派遣なんだよ? 修学旅行気分なのはどうかと思うわよ」
「す、すみません! でも、空港ってワクワクしませんか?」
悪びれない返答に、三浦は肩を竦めた。
その能天気さに救われる気がする一方で、彼女が「とんでもない力」を抱えた存在だという事実を思い出すと、不思議な心地がした。
搭乗口へ向かう一行を、遠巻きに数人の男たちが見つめていた。
外務省の担当官、そして大使館職員の連絡要員。耳にした情報はひとつ――「怪物が渡航する」。
だが、目の前の本人は緑のパスポートを抱えてきょろきょろと辺りを見回す、ごく普通の若い女性にしか見えなかった。
「……あれが、噂の“化け物”か?」
「信じられん……。どう見ても、観光客じゃないか」
小声で交わされた囁きに、緊張と困惑が混じる。
万一、彼女が暴走すれば――国際問題どころか、大都市ひとつを失うことになりかねない。
だが、協会の課長が連れてきたその女性は、どう見ても無邪気な新人にしか見えなかった。
出国審査の列に並ぶと、莉理香は急に表情を引き締めた。
列の前で旅券を提示する人々を眺め、ひそかに胸の奥で意気込む。
(……いよいよ、私の番……!)
順番が回ってくる。
莉理香は緑のパスポートを両手で持ち、窓口の審査官に差し出した。
その瞬間、口角がきゅっと上がる。ほんのわずかな――だが確かに誇らしげな、ドヤ顔だった。
審査官は無言でページを確認し、スタンプを押す。
ぱん、と乾いた音が響いた瞬間、莉理香の胸に高揚感が広がった。
「……ありがとうございます!」
小さな声でお礼を言い、弾む足取りで通路を抜ける。
後ろで見ていた仲間たちは、思わず顔を見合わせた。
「……いま、妙にドヤってなかった?」
「うん、してた。絶対してた」
三浦と山崎が顔を見合わせて苦笑する。
しかし、そのやり取りを遠くから見守っていた外務省職員の心中は笑えなかった。
「……本当に、あれが“怪物”なのか?」
「信じがたいが、協会の評価は絶対だ。――我々は、慎重に扱うしかない」
囁き合う声は重く、冷たい。
一方で莉理香は、緑色の冊子を胸に抱え、振り返って仲間に笑顔を向けていた。
――その笑顔が、国境を越えた緊張の火種であるとは、本人だけがまだ知らない。




