第32話 ブレスの種
榊はノートに雷の実験結果を細かく書きつけていた。
眼鏡の奥の瞳は真剣そのもの。だがその関心はあくまで「人体への応用」や「安定性の確保」に向けられており、破壊の方向へ逸れることはなかった。
しかし――莉理香の心は、別の次元へと滑り込みつつあった。
(……熱球を、一つじゃなく、複数同時に作ったら……?)
掌に浮かぶイメージを広げ、周囲に小さな熱の核を点々と思い描く。
赤くは見えない。だが空気が揺らぎ、透明な瘤のような球体が、ふわり、ふわりと浮かび上がった。
胸奥の竜核が、ぞくりと脈打つ。
それは期待か、それとも警鐘か。
『……莉理香? おい……何を考えている』
ラギルの声は、いつになく鋭かった。
(だって……雷の“逃がす道”を熱球に応用できるなら。
複数の熱球を一斉に一方向に解放すれば――)
喉がひどく乾く。
その光景は頭の中で鮮烈に形を取り、体がぞわりと震えた。
(――“収束ブレス”になる)
次の瞬間。
ラギルの思考が止まったのが、はっきりと伝わってきた。
『……お前……』
彼の声は、いつもの飄々とした響きを欠いていた。
驚愕と、呆然が入り混じる。
『竜すら無意識に単発でしか放たぬものを……人間の発想で収束するだと……?』
莉理香ははっと我に返り、慌てて熱球を解いた。
冷気が訓練室をさらりと撫で、球は音もなく消えていく。
ただ残ったのは、掌の奥に染みついた異様な高揚感だった。
「桐嶋さん? どうかしました?」
榊が首を傾げる。
「い、いえ……ちょっと試しに考え事を……」
誤魔化す声が裏返り、榊は小さく眉を寄せたが、それ以上追及はしなかった。
彼女は再びノートに視線を落とし、真剣に数値を書き込んでいく。
一方で胸奥のラギルは、まだ呆けたように呟いていた。
『……まさか、人間がこんな発想をするとはな……』
莉理香は拳を握りしめ、心臓の鼓動を抑えようとした。
知らなければよかった。
だが気づいてしまった。
――自分の中の力は、竜の象徴すら凌駕する可能性を秘めている。
***
榊はノートに雷の実験結果を細かく書きつけていた。
真剣な横顔に浮かぶのは、研究者としての純粋な熱。彼女の関心はあくまで「人体への応用」や「安定性の確保」に向けられており、破壊的な想像へ傾く気配はない。
だが――莉理香の思考は別の方向へ滑り込みつつあった。
(もし……熱球を複数浮かせて、それぞれを別の標的に“ロック”して同時に放ったら……)
脳裏に広がるのは、夜空を裂いて降り注ぐ流星群の光景。
いくつもの閃光が一斉に散り、標的を同時に撃ち抜いていく未来図だった。
(これって……――“マルチロック”……)
ぞくり、と背筋が震える。
一点に全力を叩き込むよりも、複数の弾を同時に撃ち込めば、面制圧としての威力は飛躍的に増す。
竜が本能で選ぶ「一撃必殺」とは異なる、合理的な破壊の図式が、彼女の中で輪郭を持ちはじめていた。
『……莉理香。』
ラギルの声が、妙に乾いて響く。
『竜は溜めて吐く。それが“ブレス”だ。だが……お前はただ拡散するのではなく分割して無駄をなくすとは……人間は怖いな』
その声に、莉理香はぎくりとした。
「こ、怖いって……!」
思わず小声で反論する。だが返ってきた声音は、普段の飄々さを欠いていた。
『いや、使うつもりでなくとも――思いついた時点で、その道は開かれてしまうのだぞ』
ラギルの言葉に、胸が重くなる。
榊はまだ何も気づかず、純粋に研究ノートを走らせている。
だが莉理香は知ってしまった。
竜が“本能”で為すことを、人間は“理屈”で分割し、拡張し、より恐ろしく組み立てられる。
(……やっぱり、私……人間のほうが竜より危ないのかもしれない)
莉理香は唇を噛みしめ、内心で問いを投げかけた。
(ねえ、ラギル。正直に教えて。もし私が“収束ブレス”とか“マルチロック”をやったら……どれくらいの力になるの?)
一拍置いて、ラギルの重低音が響く。
『……率直に言おう。お前が思い描いたとおりに放てば――小規模のダンジョン層なら、破壊できると思う』
「っ……!」
心臓が大きく跳ね、背中を冷たい汗が伝う。
『単発のブレスは一つの矢。一つ一つの熱球は劣れども収束すれば一点集中より総合破壊力は遥かに上回る。竜では考えぬやり方だ。……だからこそ恐ろしい』
(そんな……! そこまで……)
震える内心を抑えきれない。
けれどラギルの声は、少しだけ柔らかみを帯びた。
『だがな、莉理香。お前がそれを思いついたのは破壊のためではなく、“制御”を学んだからだ。知識を積んだからこそ見えた道だ。……それ自体は恥じることではない』
(……ラギル……)
『師として言おう。威力を問うのもよい。だが力を振るうのは、選ぶことだ。己が人であると望むなら、破壊の道は歩むな。知ることと、使うことは違うのだ』
厳しくも温かな声音。
その響きに、莉理香の胸はぎゅっと締めつけられる。
「……うん。知識は知識として持っておく。でも――絶対に軽々しくは使わない」
師の教えに、弟子の心が静かに整っていく。
訓練室に、静かな余韻が残っていた。
先ほどの実験で生じた冷気の名残がまだ漂い、空気はどこか清涼さを帯びている。
榊は机に置かれたノートを閉じ、深く息を吐いた。
額には疲労の色があるのに、その瞳だけはぎらぎらと光を宿していた。
「……桐嶋さん。ここまでの成果だけでも十分に画期的です。ですが――今ならもう一歩、踏み込めます」
静かに告げられた言葉に、莉理香はわずかに肩を揺らす。
榊の声に込められた熱量は、単なる学者の探究心を超えていた。そこにあったのは「この力を、必ず人を救う方向へ活かす」という、強い使命感だった。
「次は……複数現象の同時制御です」
「……同時制御……?」
「はい。これまで“風”なら風、“冷気”なら冷気と一つずつ試しました。けれど現場ではそう単純にはいきません。災害現場やダンジョンの崩落では、冷気で延焼を止めつつ、風で煙を排気する……そういう同時操作が必須になるでしょう」
榊は眼鏡を押し上げ、迷いなく告げた。
その姿は確かに研究者であり、同時に救護員の未来を思う者の顔でもあった。
莉理香は思わず唇を噛む。
胸奥でラギルの忠告が蘇る。
『――威力を問うのもよい。だが、力を振るうのは、選ぶ時だ。知ることと、使うことは違うのだ』
師の声はまだ温かく、重く残っている。
先ほどの「収束ブレス」「マルチロック」の危険な妄想を思い出し、背筋がひやりとした。
「……怖くないんですか、榊さん」
小さな声で問いかけると、榊は少し驚いたように目を瞬いた。
だが次の瞬間、彼女は穏やかに笑みを浮かべる。
「未知の力なんだからそりゃ怖いですよ。でも、それ以上に“必要”だと思うんです。あなたの力が安定すれば、私たちはもっと多くの命を救える。恐怖は消えませんが……制御できるなら、それは希望になる」
その言葉に、莉理香の胸の奥が揺れる。
自分は破壊の未来を思い描いて怯えていた。
けれど榊は、救いの未来を信じて語っている。
――同じ「制御」を語りながら、方向性がまるで違う。
「……わかりました」
莉理香は小さく頷き、掌を前に差し出した。
その仕草にはまだ迷いが残っていたが、同時に確かな決意も宿っていた。
「風と……冷気。同時に、やってみます」
竜核が脈を打ち、胸に重い熱を灯す。
片手に風球、もう片手に冷気核――二つの異なる現象を同時に編み上げようと、意識を研ぎ澄ませる。
『……慎重にな。決して焦るな、莉理香』
ラギルの声は低くも静かで、まるで父が娘を見守るような響きを帯びていた。
次の瞬間――掌に生まれたのは、静かな風の渦と、氷の吐息。
二つの力がかすかに干渉し合い、訓練室の空気が震えた。
「……っ!」
莉理香の額に汗が浮かぶ。
風は冷気を揺らし、冷気は風を鈍らせる。
片方に意識を寄せれば、もう片方が暴れ出す――その均衡に全神経を使わなければならなかった。
榊は食い入るように見つめ、ノートに震える手で走り書きを続けた。
「すごい……! 両立している……! これなら、冷やしながら煙を排出できる……!」
歓喜の声が訓練室に響く。
一方で莉理香は必死に声を押し殺し、唇を噛み締めていた。
――この力は救いにもなる。だが、一歩間違えれば破壊の奔流になる。
胸奥でラギルが囁く。
『よくやった。だが忘れるな。この均衡を保てるのは“人としての意志”があるからだ。もしその軸を失えば……お前は竜以上に恐ろしい存在になる』
その言葉に、莉理香は小さく頷いた。
震える両手の中で、風と冷気がかろうじて共存している。
――それは彼女にとって、制御の新たな一歩であると同時に、己の危うさを思い知らされる試練でもあった。




