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第31話 マクスウェルの悪魔

 次のテーマは――冷気。

 榊は手帳に新しいページを開き、顔を上げた。


「では、冷気をお願いします」


「……わかりました」


 莉理香は静かに手をかざす。

 胸奥で竜核が低く唸り、空気の分子が次々と動きを奪われていく。

 霜が掌から広がり、空気はきりりと澄み渡る。窓ガラスには瞬く間に氷の花が咲き、室温が一気に下がった。


「……見事です」


 榊は目を輝かせ、ためらいなく莉理香の力を仮契約の糸で受け取った。

 彼女の理性は恐怖を押しのけ、観察者としての欲求に従っていた。


「私も同じように……分子の動きを奪う……」


 その瞬間――


「――っ!?」


 榊の顔が苦痛に歪む。胸を押さえ、肩が大きく震えた。

 外気に触れているわけでもないのに、体内から灼けるような熱が噴き出している。


「な、なにこれ……っ、熱い……!」


「榊さん!?」


 莉理香は慌てて駆け寄り、両手を彼女の胸に当てた。

 〈癒手〉の光が流れ込み、榊の体を蝕んでいた異常な熱を静かに沈めていく。


 榊は荒い息を吐きながらも、必死に立ち続けた。

 額に汗がにじみ、声が震えていた。


「……っ、すみません。私……冷気を作ろうとしたのに、身体の内部が灼けるようで……」


「……!」


 莉理香ははっと息をのむ。

 頭の中で、これまで無意識にやってきたことが急速に繋がっていく。


「私、いつも……熱を奪った後、その熱を外に逃がさずに“中に抱え込む”やり方をしてました。私の体なら平気だったんです。でも……榊さんが同じことをすると、逃げ場のない熱が身体に残っちゃったんだ……!」


 榊は苦笑を浮かべながら、額の汗を拭った。

 その笑みには痛みよりも、理解を得られた研究者の歓喜が滲んでいる。


「……なるほど。“放出場所”を設計しなければならないのですね。精霊の場合は冷気を作れば自動的に熱が散逸する。ですが、あなたの力ではそれが働かない」


「……私のやり方、危なすぎる……」


 莉理香は肩を落とした。

 だが同時に、胸の奥に確かな理解が芽生えていた。


「……冷気を制御するには、ただ“奪う”だけじゃダメ。どこに熱を逃がすかまで考えないと……」


 胸奥で、ラギルの声が響いた。


『フフ……直感に頼るだけでは見えぬ理。だが、今こうして人間の理屈と重ね合わせれば、より確かな制御ができる。――学べ、莉理香』


 莉理香は深く息をつき、榊の手を強く握った。


「……榊さん、ごめんなさい。次はちゃんと一緒に“逃がす場所”を考えましょう」


「ええ。大丈夫です。むしろ、この失敗こそ大きな成果ですから」


 二人は互いに頷き合った。

 冷気の実験は危険だった。けれど、その危うさを乗り越えてこそ、新しい制御の道は開ける。


 ――それは、恐怖と探究、そして人間と竜の共鳴が生んだ、新たな一歩だった。


「……結局、私たちがやってるのって“マクスウェルの悪魔”っぽい発想なんですよね」


 榊がペンを指先で回しながら口を開いた。


「分子運動を仕分けして、熱い所と冷たい所を作る。ただし――悪魔はタダ働きしない。エネルギーを仕分ける“仕事”は、あなたが払っている。だから第二法則は破らない」


『ふむ、“悪魔”か。人間はすぐに異形に名前をつけるな。だが的を射ている。力の帳尻を合わせるには、どこかで代償を払わねばならぬ』


「なるほど……“私の手間賃(=消費する力)”込みの悪魔、ってことですね」


 莉理香は苦笑し、さきほど榊が胸を押さえて苦しんだ場面を思い出して肩をすくめた。無邪気に力を扱ってきた自分にとって、その「代償」の現実は重い。


「で、その“仕分けた熱”の逃がし場所を先に作る、と」


「ええ。運動量の逃がし道をデザインしましょう。いちばん安全なのは――奪った運動を風に変換して、別経路へ“排気”することです」


『理にかなう。冷を作るなら熱の出口、熱を作るなら冷の出口、だ。道を整えよ』


 ラギルの声音は低く、しかしどこか満足げだった。


「段取りを決めます」


 榊が素早く書き出す。


 ・冷気核(低温域)を作る

 ・同時に“風導管”を形成(低→高へ一方向流)

 ・奪った運動エネルギーを導管内で整流し、天井側へ排気

 ・排気端は“暖かい柱”として可視化・計測


「風導管は、私の“結界の殻”で管を作って内側を滑らかに流すイメージで……いけると思います」


 莉理香が両掌を前に差し出す。呼吸に合わせて、透明な管が空中に“生え”、床から天井へとまっすぐ伸びた。


「いきます」


 ――ひやり。


 掌前の空気がすっと淡く曇り、冷気核ができる。同時に、管の上端で陽炎のような揺らぎが立ちのぼった。

 目には見えない“暖流”が、天井へ向かって一本の筋となる。


「……成功、ですね」


 榊が赤外線温度計をかざし、目を見開く。


「低温域は−6℃近くまで降下、導管上端は+15℃上昇。熱は管で“風”に変えられて排気されている。さっきのように身体に溜まっていない」


「やった……!」


 莉理香はほっと息をついた。


「これなら、冷気の安全運用ができる。現場でも、狙った場所を冷やして熱は離れた場所へ逃がせる……!」


『上出来だ。冷と熱、両極に“道”を設けた。これで悪魔は賢く働く』


 ラギルの声音には、珍しく満足が滲む。


「……小市民コメントしていいですか」


 莉理香が恐る恐る口を開いた。さっきまで科学的な説明を受けていたはずなのに、つい日常的な発想が浮かんでしまう。


「どうぞ」


「夏場、これで部屋のエアコン代節約できませんか」


 思わず口にしてから、莉理香は自分でもおかしくなって笑った。竜の力を冷房代に換算するなんて、どう考えても場違いだ。


「理屈としてはできますが、あなたの“手間賃”がかかります」


「ですよね〜」


 肩をすくめる莉理香。くだけたやり取りに、先ほどまで張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。

 榊はすぐに次のカードを切る。


「――雷も、同じ“逃がし道”設計です。電荷の流路コンダクタを先に作る。導くのが先、出すのは後」


 莉理香は、つい昨夜の“家電全滅”を思い出して小さく身震いした。


「……お願いします。今度は、最初から“逃がす”を作ってからやります」


『よい。雷は走りたがる。ならば走る道を描いてやればよい』


 ――“悪魔”はもう、無邪気に暴れない。

 道筋を与えられ、賢く働く。

 制御という名の人知が、竜の力に初めて本当の手綱をかけ始めていた。


 莉理香は掌を構え、胸奥の竜核に意識を沈めた。


「……雷球を作るのは危険。なら――先に“逃がす道”を描く」


 彼女は結界で掌の前の空間から壁へと一本の細い導管を形成した。

 まるで透明な配線のように、空気が整流される。


「いきます!」


 次の瞬間、掌から閃光が奔った。

 ばちり、と白い火花が導管を走り抜け、壁の金属板に突き刺さる。


「……っ!」


 榊が思わず息をのむ。


 雷球のような轟音も爆発もない。

 ただ鋭く、一直線に走った閃光。

 その威力は限定的だが、発動はあまりにも速かった。


「……これは……雷を“電撃”として直接放っているんですか?」


「はい。溜めずに逃がすから、力は小さいけど――速い。反応速度ならこっちのほうがずっと安全です」


 莉理香が息を吐く。

 榊は興奮気味に頷き、手帳に書き込んだ。


「これは有用です! 治療にも応用できるかもしれません。たとえば除細動や、神経の刺激として……!」


 胸奥でラギルが笑った。


『フフ……ようやく“雷”を雷らしく扱えたな。雷は閉じ込めるものではない、走らせるものだ』


 莉理香は微笑みながらも、ふと別の可能性に気づいてしまう。


「……これ、もし電気じゃなくて、熱球で同じことをやったら……?」


「熱球で?」

 榊が眼鏡の奥を光らせる。


「うん。分子運動を溜めて――一方向に逃がす。まるで圧縮した熱を矢のように吐き出す感じで……」


 言いながら、自分でも背筋が震える。

 それはきっと――


『……そうだ。熱を束ね、一方向に放つ。それこそが竜のブレスよ』


 ラギルの低い囁きに、訓練室の空気がひやりと震えた。


 莉理香は思わず口を押さえる。

 自分が思い描いた構想が、竜そのものの力に直結していると知ってしまったから。


(……竜のブレス……)


 その言葉は、誰もが畏れる竜の象徴。

 だがいま、その萌芽が、彼女の掌に確かに宿り始めていた。


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