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第30話 直感と理屈の融合

 二人の間に、しばし沈黙が落ちた。

 机に突っ伏したままの莉理香は、ちらりと榊を見上げる。


 榊の眼差しは、確かに研究者特有の熱を帯びていた。

 けれど、その奥には、権力欲や支配欲といった陰りは微塵もない。

 ただそこにあったのは――未知を解き明かそうとする純粋な探究心と、危険を減らそうとする誠実さだった。


「……論文化だのブレイクスルーだの、すごいこと言われて正直怖いですけど」


 莉理香は顔を上げ、深く息を吐いた。


「でも、私にとってもメリットは大きいんですよね。制御方法を学べるなら、暴走のリスクを減らせる。……それって、救護課にとっても大事なことですし」


 その言葉に、榊の表情がぱっと明るくなる。


「はい。私は派手な報告よりも、まずはあなた自身の安定を最優先したいと思っています。危険を減らすことが第一です」


「……悪い人じゃなさそうだし」


 榊の真摯な声音を受け、莉理香は自嘲気味に笑い、肩をすくめた。


「わかりました。協力します」


「ありがとうございます!」


 榊は勢いよくノートを取り出し、細かな字で先ほどの実験の記録を書きつけ始めた。紙面に走るペン先の音が、熱に浮かされたように速く、迷いがなかった。


 その必死な姿を見て、莉理香は思わず小さく笑みをこぼす。

 研究熱心で真っ直ぐ――自分にはないものを持つ彼女に、少しだけ安心を覚えた。


 そして、ラギルの声が愉快そうに響く。


『フフ……悪くない。人間ごときが竜の力の制御法を模索するか。だが、それはお前自身にとっても益がある。――学べ、莉理香。知を積み、己を縛る鎖を編め』


(鎖、か……でも、それで私が暴走せずに済むなら)


 莉理香は目を伏せ、小さく頷いた。

 それは決意とも祈りともつかない仕草だった。


 こうして――人間と、竜核と、精霊術師。

 奇妙にして稀有な三者による“制御実験”が幕を開けた。


 それは、精霊術師にとっては新たなブレイクスルーの扉であり。

 そして莉理香にとっては――「人間でいるための道標」となる一歩だった。


***


 榊はノートと計測器を机に並べ、眼鏡を押し上げながら言った。


「では――まずは“風球”から始めましょう。桐嶋さん、普段どんなイメージで操作しているのですか?」


 研究者らしい問いかけに、莉理香は少し考え込み、正直に答えた。


「うーん……正直に言うと、空気を“まとめて掴んで”投げる、って感じですね。手の中にボールを作るみたいな」


 そう言って手をかざすと、空気が収束し、透明な球が現れる。

 ふわりと髪を揺らすほどの風が流れ、榊のメモ用紙がぱらりと舞った。


「……普段は“空気の塊”として掴んでいるようですが、正確には空気は窒素や酸素を中心とした分子の集合体です。

 それぞれの分子は絶えず熱運動をしていて、私たちが呼吸している空気も、実際には無数の分子が秒速数百メートルで飛び交っている状態なんです」


 莉理香は頷きながら先を促す。


「そして“風”とは、その分子たちが統計的に一方向に流れているときに初めて感じられる現象です。

 つまり、単なる空気そのものではなく、“流れの偏り”が風なんです」


「……流れの偏り」


「はい。空気はどこにでも存在しますが、動きが均一なら風は生じません。

 必ず“圧力差”があって、そこから分子の流れが組織的に生まれる。高圧から低圧へ移動するのが風の基本原理です。

 気球が浮かぶのも、外と中の圧力差が原因ですし、台風が発生するのも温度差と圧力差によって空気の流れが巨大化するからです」


 榊は手元のペンを回しながら、さらに続ける。


「桐嶋さんの“風球”は、その圧力差を人工的に、しかも一点にまとめて作り出している状態でしょう。

 だからこそ見た目には球状にまとまりますが、同時に非常に不安定です。

 解放すれば、束ねられていた分子運動が一気に流れ出し、突風として吹き荒れる。物理的にいえば、圧縮した流体を弾くようなものですね」


「……たしかに、しょっちゅう部屋をめちゃくちゃにしてます」


 赤面して視線を逸らす莉理香。その素直さに榊は思わず小さく笑みを浮かべた。


「では、圧力差を意識してみましょう。空気をただ“掴む”のではなく、“高い圧と低い圧”を作り出し、それを結界のように保持する。――やってみてください」


「……わかりました」


 莉理香は深く息を吸い、意識を切り替える。

 胸奥の竜核が脈打ち、空気が集まる。

 今度はただ束ねるのではなく、“圧の違い”としてイメージする。


 すると――


 掌の前に、見えない膜のような球体が現れた。

 表面は微かに震えているが、先ほどのように暴走する気配はない。

 空気の流れが、球の内部で静かに循環しているのがわかる。


「……できた!」


 莉理香の声は興奮に震えていた。


「安定しています! 見てください、この風速計。ほとんど外に漏れていません!」


 榊の目が輝く。研究者の本能が、目の前の現象に捕らえられていた。


「すごい……私、こんなにきれいに保持できたの初めてです!」


 莉理香は思わず風球を両手で掲げた。

 その姿は、まるで子供が宝物を見つけたようだった。


『フフ……なるほどな。直感で掴むより、理屈を通したほうが安定するとは……人間の知恵、侮れぬな』


 ラギルが愉快そうに呟く。

 莉理香は胸の奥で頷き返した。


(……これなら、暴走を減らせる。私にとっても大きな収穫だ……!)


 榊は記録を取りながら言った。


「これはただの第一歩です。ですが、すでに成果は出ています。――やはり一緒に取り組む意味がありましたね」


「はい……! 本当に、ありがとうございます!」


 莉理香の掌に浮かぶ風球は、これまでのものとはまるで違っていた。


 圧力差を意識し、空気を循環させる。

 さらにその流れを少しずつ強めていくと、球の内部で風が渦を巻き、ぐんぐん密度を増していった。


 ――景色が、揺らぐ。


 風球を中心に背景がゆがみ、まるで熱気の残像のように視界が歪曲した。

 榊が思わず息をのむ。


「……これは……空気の屈折率が変化している……!? そんな……密度がここまで高いなんて!」


 莉理香自身も驚いていた。

 掌に伝わる感触は、もはや柔らかな空気の塊ではない。

 軽量で、硬質な何か抱えているような手応え。


「……っ、これ……投げたら、まずいですよね」


「投げたら、建物の壁くらい簡単に吹き飛びます」


 榊は真顔で即答した。

 だが次の瞬間、興奮に震える声で続ける。


「しかし……もし救護に応用できれば! 崩落現場で瓦礫を押し退ける“圧縮風のジャッキ”として使えるかもしれません!」


 莉理香の瞳が輝く。

 医師として、救護員として、その発想は胸を打った。


 彼女はゆっくりと深呼吸し、風球に意識を集中させた。

 密度を保ちつつ、少しずつ圧力を下げていく――


 シュウ……ッ。


 風が柔らかく解け、訓練室を撫でるように流れていった。

 暴発ではなく、制御された解放。

 その静かな風に、莉理香は思わず笑みをこぼした。


「……できた。私、ちゃんと“解ける”」


「素晴らしいです……! 暴風の塊を、ここまで滑らかに制御できるなんて……!」


 榊はノートに夢中で書き込みながら、声を震わせた。

 その横で、ラギルの低い声が胸奥に響く。


『フフ……直感でただ掴み、放っていた頃とは大違いだな。緩やかに解くか……なるほど、人間の理屈も案外役に立つ』


 莉理香は胸の奥で小さく頷いた。

 暴風を“武器”としてではなく、“道具”として扱える――

 その感覚が、彼女にとって何よりの収穫だった。


「……では、私も試してみましょう」


 榊はノートを閉じ、真剣な面持ちで立ち上がった。

 まずは深く息を吐き、指先を組む。


「――風精よ、集え」


 囁きと同時に、彼女の掌に淡い光が集まり、空気が渦を巻いた。

 小さな風球が現れ、紙切れをふわりと持ち上げる。

 その安定度は高いが、動きはどこか硬直している。


「これが、通常の精霊術です」


 榊は風球を消すと、今度は莉理香に向き直った。


「……では、桐嶋さん。私に力を貸してください」


「わかりました」


 莉理香は掌を差し出し、竜核を通じて力を細い糸のように流す。

 榊の精神に、それがするりと通じていく。


「――ああ……やはり楽ですね。精霊よりずっと意志のやり取りが滑らかです」


 榊が呟いた次の瞬間、掌に小さな風球が生まれた。

 精霊由来のものより柔軟で、細かい調整が効く。

 榊が意識を傾けると、球はゆっくりと密度を変え、わずかに景色が歪むほどになった。


「……っ、確かに制御しやすい。けれど――」


 ふと莉理香のほうに視線を向ける。


 彼女が同じく風球を形作れば、背景が大きく歪み、空気そのものが震える。

 榊のものとは比べものにならない、暴風の塊。


「――桁が違う……」


 榊は肩で息をしながら、苦笑した。


「私があなたの力を借りると、せいぜい景色がわずかに歪む程度ですが……精霊の力を借りるのとは、まったく別物ですね」


 莉理香は額に汗を浮かべながら、ぽつりと漏らした。


「……やっぱり、私がやるのと全然違うんですね。でも、こうやって比べるとわかります。私の力を通したとき、いかに“直感で補助されてる”かって」


 口にしてみれば、不思議と腑に落ちる感覚があった。感覚任せにしてきた自分のやり方が、実は理屈を飛び越えて補正されている――そんな確信だ。


榊は静かに頷き、眼鏡のブリッジを押し上げる。


「そうです。意志の通りやすさは、精霊契約よりもずっと近い。

 ただし力そのものは微々たるもの……だからこそ、媒介者としてのあなた自身が現象の中心に立っているんです」


 胸奥で、ラギルが愉快そうに唸る。


『フフ……なるほど。今は直感に任せているからこそ桁違いの力が出ている。

 だがもし――その直感に、理屈を裏打ちする理解が加わればどうなるか。

 人間が“媒介”を極めたときの可能性……面白い観察になりそうだ』


 莉理香は苦笑しつつも、確かな手応えを感じていた。

 自分は精霊じゃない。けれど、精霊よりはずっと人間に近い――だからこそ、意志を通じやすいのだ。


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