第3話 ダンジョン救護部隊、配属決定
春の空気は、ほんのり甘い香りを含んでいた。
駅から大学までの桜並木は、ほころびかけた花を枝先に揺らし、薄桃色の影を歩道に落としている。
医師国家試験の合格発表の日、掲示板の前は、まるで祭りのような熱気に包まれていた。
自分の番号を見つけた瞬間、莉理香は胸の奥で、ラギルがふっと息をつくのを感じた。
『ほう……これが“合格”か。数字の並びにしては、皆よく笑う』
(数字の並びじゃないって。医師になれるかどうかの境目なんだから)
『なるほど。山をひとつ越えたわけだな』
卒業式は淡々としていたが、節目の匂いが確かにあった。
ガウンを脱ぎ、証書を受け取り、同期と笑い合う。
桜の下で記念写真を撮りながらも、莉理香の頭の片隅はすでに「次」のことを考えていた。
――就職先。
病院の募集一覧を眺めれば、総合病院や大学病院の名が当たり前のように並ぶ。
その端に、ひときわ目を引く一行があった。
〈協会認定・ダンジョン救護部隊 医師募集〉
探索者専用の救護チーム。
現場に入り、負傷者をその場で治療し、必要なら搬送まで行う。
一般の病院よりも危険は多いが、それだけ必要とされる場面も多い職種だ。
(……これ、気になるな)
心の中でつぶやくと、ラギルが即座に応じた。
その声はいつもよりわずかに明るく、弾みすら感じさせた。
『良いな。強き場は良い。そこにしか見えぬ道がある』
「……また難しい言い方」
『弱き場には弱き者しか寄らぬ。強き場には、強き者と、強くなる者が集う』
(……もうちょっと普通に言ってくれる?)
『熱い鉄は火の中でこそ形を得る――そういうことだ』
(……わかるような、わからないような)
胸の奥にざわめきが広がる。
学生時代、仲間と探索に出たときの緊張感と高揚感――その感覚を、職業として続けられる道が目の前にある。
『決めろ。お前は普通の病院で静かに座っている性分ではない』
(……否定できない)
半分は図星、半分は背中を押す風。
ラギルの言葉に、莉理香は少しだけ笑みをこぼした。
その笑みは、桜の下で静かに芽吹く決意のようでもあった。
***
ダンジョン救護部隊の募集要項を閉じたあと、莉理香は机に肘をつき、そっと目を閉じた。
まぶたの裏で、学生時代のあれこれが勝手に再生されていく。
――格闘技サークルの稽古。
ミットを打ち抜いた瞬間の、あの「ヤバい」という顔。
「手加減を覚えろ」と、何度も先輩に苦笑された日々。
『あれはいい反応だったな』
(いや、褒められることじゃないから)
竜爪や竜鱗の基礎をこっそり試しては、あとで一人反省会を開いたこともあった。
ペットボトルを取ろうとしてキャップごと真っ二つにしてしまい、机が水浸しになった日も――。
『あれは見事だった』
(だから褒めないで! 全部こぼれたからね)
探索実習で崩落現場から救助されたあの日以降、回復力はさらに際立った。
どれだけ動いても、翌朝には筋肉痛がほぼ消えている。
ケガをしても、傷跡は数日で薄れていく。
(……もう普通の人じゃないって、あのときにはもう気づいてたんだよね)
『お前の器は、もう普通ではない。だが、それが武器だ』
人間としては異例の体力と耐久力。
その事実を受け入れたとき、不思議な安心感があった。
少なくとも、誰かを助ける現場で「自分が先に倒れる」心配はほとんどない――そう信じられた。
だから、危険な現場にも行ける。
救護部隊の募集要項が、頭の中で再び強く輝きだす。
『行くのだろう?』
(うん……行きたい)
声に出さなくても、そのやり取りの中で答えはすでに決まっていた。
***
数週間後、莉理香は協会本部ビルの面接室にいた。
磨き上げられた長机、整然と並ぶ椅子、そして背筋を伸ばして座る三人の面接官。
胸の奥では、ラギルが静かに呼吸を合わせ、まるで一緒に場の空気を測っているかのようだった。
「桐嶋莉理香さん、ですね」
「はい」
志望理由を問われると、莉理香は迷わず口を開いた。
「現場で負傷者を直接治療したいんです。安全な場所で待つより、前に出て支えたい」
面接官の一人が手元の書類をめくり、わずかに眉を上げる。
「学生時代、探索実習経験あり……身体能力が高い、と記載がありますが?」
反射的に、胸を張って答えてしまう。
「はい! 身体能力には自信があります!」
やや体育会系すぎる響きに、別の面接官が口元を押さえて小さく笑った。
「……医師志望の面接で、その言葉を聞くとは思いませんでした」
(あ、やっちゃった……)
『悪くない。戦場では“強い”は最大の武器だ』
(ここ戦場じゃないから!)
『同じだ。負傷者が出れば、そこはもう戦場だ』
妙に説得力のある声に押され、莉理香は背筋を伸ばし直す。
「前線に立つ覚悟はあります」
その静かな一言に、面接官たちの表情がわずかに変わった。
軽い冗談混じりだった空気が、次第に真剣味を帯びていく。
「……では、質問を変えましょう。危険な状況で、まず優先するのは?」
「患者の生命の確保です」
「自分が傷を負う可能性があっても?」
「はい。私は――ちょっとやそっとでは倒れません」
短い沈黙のあと、面接官のひとりが小さく頷き、微笑んだ。
「……結構。では、採用試験の実技に進んでいただきます」
面接室を出ると、廊下のガラス窓から春の光が差し込み、床にやわらかな影を落とす。
胸の奥で、ラギルが低く笑った。
『良い顔をしていた。迷いがなかった』
(うん……決めたよ。私は前線に立つ医師になる)
『異存はない。むしろ、その方が我も楽しめる』
(楽しむって……)
『強き場は、強き者を鍛える場だ。お前も、我も、だ』
就職を前に、胸の中に熱い波が満ちていく。
その鼓動はラギルの呼吸と混ざり合い、ひとつの確かなリズムを刻んでいた。
***
協会本部の地下訓練場。
灰色のマットが敷き詰められ、壁際には審査員と数名のスタッフが並んで立つ。
試験内容は「模擬ダンジョン内での救護活動」。
要救助者役を背負い、安全圏まで搬送する――ただし、進路は複数の“敵”役が塞ぐという設定だ。
「桐嶋さん、準備はいいですか?」
「はい」
開始の合図と同時に、空気がぴりっと張り詰める。
全身防具を着けた訓練員三人が前方に現れた。
普通なら、回避や防御を繰り返しながら慎重に進むのが救護員の動きだ。
しかし莉理香は足を止めなかった。
背負った患者役の体重を一度確かめただけで、すぐに前進。
正面から障害役の一人の肩を取り、体を沈めて流れるように投げ飛ばす。
「……投げた!?」
審査員席から小さな声が漏れた。
二人目は腕を絡めてきた瞬間、その力を逆に引き込み、腰を返して床に流す。
学生時代の格闘技サークルで叩き込まれた動きが、反射的に出ていた。
患者役を背負ったままでも重心はぶれず、呼吸も乱れない。
三人目の背後を取ると、倒すのではなく押し出すように進路を確保。
そのまま滑らかな加速でゴール地点まで駆け抜けた。
着いた瞬間も、莉理香の肩はまったく上下していなかった。
息を乱さず走り切った異常な体力に、審査員たちは互いに視線を交わす。
「タイム……驚異的ですね」
記録端末を確認した審査員が低く呟く。
「患者を背負ってこの速度、しかも動きが乱れない……」
背中から降ろされた要救助者役の訓練員も、感心したように言った。
「全然揺れなかったよ。速いのに、なんかすごく安定してた」
「まあ……ちょっと特殊な練習をしてまして」
苦笑しつつ答える莉理香。
胸の奥で、ラギルがくぐもった声を響かせた。
『見事だった。だが爪や鱗を使えば、もっと早かったな』
(そんなことしたら“敵”役の人がバラバラになるから! 即失格だよ!)
審査員たちは頷き合い、莉理香の合格を告げた。
その瞬間、胸の奥でラギルが小さく笑った。
***
実技試験を終えた直後、莉理香は別室に案内された。
丸いテーブルを挟んで座るのは、先ほどの面接官のひとりと、救護部隊の現場責任者らしい中年男性。
部屋の空気は落ち着いているが、視線には試験中とは別の鋭さがあった。
「桐嶋さん。……あの動き、戦闘枠でも十分通用しますよね?」
「えっと……まあ、訓練はしてきましたし……」
あえて曖昧に笑う。
真正面から「できます」と言えば、この場の流れが変わってしまう気がした。
「しかし救護枠で応募した理由は?」
「今回の試験では使いませんでしたけど、私……回復スキル持ちなんです」
面接官の眉が跳ね上がる。
「……え?」
「怪我を治せます。もちろん医師としての処置もしますが、スキルでの補助も可能です」
現場責任者の手が止まり、ペン先が宙で固まった。
「……それ、本来なら試験免除のケースですよ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうです」
短い沈黙のあと、面接官が小さく笑った。
「まあ、受けてもらって良かったですよ。あれで能力も胆力も見えましたから」
ペンが書類に署名する音が、妙に大きく響く。
「これで正式に、ダンジョン救護部隊の一員です。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ドアが閉まり、廊下の足音が遠ざかる。
残った面接官たちはしばし無言のまま、机上の記録端末に視線を落とした。
「……最初から戦闘枠でも良かったんじゃないですか?」
現場責任者は首を振った。
「いや、救護枠でいい。前線に出られる救護枠は希少だ」
再生された映像が、患者役を背負ったまま障害役を抜き去る莉理香の姿を映す。
息が乱れた様子は一切なく、顔色も平常そのもの。
「……これ、終盤ですよね?」
「ええ。普通なら肩で息してる場面です」
「全く揺れない搬送、全く疲れない体力……しかも回復スキル持ち」
「治せるし、動けるし、精神もブレない」
三人の視線が交わる。
「……つまり、反則ですね」
「反則だな」
苦笑とため息が同時に漏れ、面接室に静かな笑いが残った。
部屋を出た莉理香は、窓の外に目をやる。
沈みかけの夕陽が、ダンジョンのゲートを金色に染めていた。
静かな病院勤務ではなく、最前線の呼吸と熱の中で働く――その未来が、もう手の中にあると分かっていた。
こうして莉理香は、“ダンジョン救護部隊の前線医師”としての切符を正式に手に入れたのだった。