第29話 それ、精霊じゃなくて私です
榊はしばし沈黙し、震える指先を胸元に当てた。
眼鏡の奥の瞳には、恐怖と興奮――正反対の感情がないまぜになっていた。
「……精霊ではない。もっと明確で、強靭な――“意志”を感じました。
まるで人間のような……いえ、人間以上の存在に直結してしまったような……」
その言葉に、莉理香はきょとんと目を丸くする。
「え、いや……それ、普通に私ですけど?」
「……え?」
「だって、さっき流したのは“私の力”なんですよ? 精霊の加護とかじゃなくて。だから明確な意志を感じたのは――私の意志そのものです」
榊は絶句した。
あまりに当然のことを、あまりに無邪気に言われたからだ。
「……っ、ちょ、ちょっと待ってください。そんなはずは……!」
声が裏返る。
精霊術師として築き上げてきた常識が、音を立てて崩れていく。
精霊は自然現象の顕現であり、意思を持つとしても人間とはかけ離れた抽象的な存在。
だが、いま触れたのは――確かに“個”としての輪郭を持つ、鮮烈な意志だった。
「桐嶋さん……あなた、一体……」
「ただの人間です!」
思わず叫ぶ莉理香。
ばん、と机を叩く音が室内に響き、榊がびくりと肩を震わせる。
「ただの人間なんです! ――まあ、ちょっと力があって、家電を壊しちゃったり、冷蔵庫をダメにしたりするかもしれませんけど!
でも、普通にご飯食べて、値札に震えて、クラウドバックアップに感動する、ただの人間なんです!」
必死に並べ立てるその言葉は滑稽に聞こえるかもしれない。
だが榊には、彼女が“必死に人間であろうとしている”叫びに思えてならなかった。
唖然と彼女を見つめたのち――榊は堪えきれず、思わず吹き出した。
「……っ、ふふ。なんですか、それ……精霊の力を借りる探索者の前で、そんな宣言をする人間がいますか」
「だ、だって本当なんですから!」
顔を赤くし、耳まで真っ赤にしながら言い返す莉理香。
その姿はどこまでも真剣で、どこまでも人間らしかった。
榊は眼鏡の奥で目を細め、次の言葉では真剣な声音を取り戻した。
「でも――“ただの人間”の力で、ここまでの現象を起こせるはずがないのも事実です」
その指摘に、莉理香は唇を噛み、視線を伏せる。
「あなたの言葉を信じるなら。桐嶋さん、あなたは“精霊を超えた存在”の側に立っているのかもしれません」
静かに告げられた一言に、莉理香は言葉を失った。
心臓が強く脈打ち、喉が乾いて声が出ない。
胸奥で、竜核の重々しい笑い声が響いた。
『フフ……いいぞ。人間であると叫びながら、すでに精霊以上の領域に踏み込んでいる。――滑稽で、だがそれこそが“お前”だ』
莉理香は唇を噛みしめ、机の上でぎゅっと拳を握りしめる。
(……私は人間。私は、私だ……!)
榊は両手を組み、何度か深呼吸して気持ちを落ち着けた。
だが次の瞬間、眼鏡の奥の瞳はぎらりと輝き、研究者特有の熱を隠しきれなくなる。
「……これは、研究しなければなりません」
その声音に宿るのは恐怖ではなかった。
未知に触れた学者が答えを追わずにはいられない――あの昂揚、あの飢え。
「桐嶋さん。もしあなたが“精霊以上の存在”としての性質を持っているのなら――仮契約を試してみる価値がある。
力を借りる者と、貸す者。両者の流れを観測できれば、制御の糸口が必ず見つかります」
「仮契約……!」
莉理香はごくりと唾を飲んだ。
しかし同時に、彼女の胸の奥でも同じ熱がふつふつと燃え上がっていた。
(確かに……自分の力を人に貸す。もしそれで“制御”の仕組みが見えるなら、暴走を防ぐヒントになるかも……!)
理性は「危険だ」と警告する。
けれど、医師であり研究者でもある心は、知への欲求に突き動かされていた。
「……なるほど。そういうアプローチもあるんですね」
莉理香がぽつりと呟くと、榊の表情が一気に明るくなった。
「やってみる価値は十分にあると思います!」
「私も……そう思います!」
二人の声が重なった瞬間――
『……やれやれ。どいつもこいつも同じ顔をしおって』
胸奥でラギルが苦笑する。
だがその声音には、呆れと同時に楽しげな色が混じっていた。
『まあいい。未知を解き明かそうとするのは人間の性。……見せてもらおうか、お前たちの好奇心の果てを』
莉理香は拳を握り、榊はノートを広げる。
研究魂が交錯し、二人の意志が完全にシンクロした。
「では――次は仮契約の実験です」
榊の宣言に、空気がぴんと張り詰めた。
準備を整え、深く息を吐くと、再び莉理香の手を握り精神を繋ぐ。
「……では、普段と同じように。――炎精よ、我が呼びかけに応え――」
言葉が空気に響いた瞬間――何も起きなかった。
炎の気配も、熱の揺らぎも、微動だにしない。
「……動かない?」
困惑を隠せない榊。
莉理香は眉をひそめ、胸奥に問いかける。
(ラギル……?)
『……妙だな。普段ならお前の直感で現象は動くはずだ。だが、他者に貸した途端、その補助が働いていない。……なるほど、これは理屈を通さねばならんらしい』
珍しく感心したような竜の声。
莉理香は小さく息をのんだ。
「……榊さん。たぶん、“炎精よ”とかそういう呼びかけじゃダメなんです」
「では、どうすれば?」
榊の問いに、莉理香は必死に言葉を探す。
「……私が熱球を作るときは、“分子の運動エネルギーを集める”ってイメージしてます。空気中の分子の揺れを奪って、一点に押し込める。そうすると、そこに“熱”が現れるんです」
「分子……運動……」
榊は眼鏡を押し上げ、短く頷いた。
理屈を瞬時に呑み込み、意識を切り替える。
「なるほど……分子運動の収束……。理屈としては理解できます」
榊は目を閉じ、深く呼吸を整える。
莉理香から仮契約の糸を通じて力を受け取り、その流れを自らの中に通す。
胸の奥を奔るのは、精霊術の枠を超えた濃密な奔流――彼女がこれまで扱ったどの精霊とも異質のものだった。
掌を前にかざし、意識を一点に集中させる。
「……っ!」
次の瞬間、灼けるような痛みが手を走り、榊は思わず叫んだ。
「熱っ……!」
反射的に叫び、慌てて力を解放する。
後ずさった榊の指先は赤くなっていた。
「榊さん! 大丈夫ですか!?」
心配そうに駆け寄る莉理香。
その瞳には本気の狼狽が浮かんでいた。
「え、ええ……軽い熱感です。火傷にはなっていません」
額に汗を浮かべながらも、榊は冷静に記録を取る。
「……桐嶋さん。あなたが普段やっている“手のすぐ前での熱生成”は、私のような普通の人間には危険すぎます。自分が熱源に包まれるようなものですから」
「……あっ」
莉理香ははっと息をのんだ。
確かに、自分では当たり前のように掌の目の前に熱球を作っていた。
だが、それは竜核の力があるから平気だっただけで――他の人間が同じことをすれば、即座に火傷するのだ。
「……なるほど。私には“平気だから気にならなかった”けど、他の人には致命的になる部分もあるんですね」
「はい。ですので――熱を集める際は、自分から少し距離をとって生成するのが安全です」
榊は腕を伸ばし、掌から30センチほど前方を意識する。
莉理香から借り受けた力を、細心の注意でそこに束ねていく。
空気が震え、淡い揺らめきが生じた。
やがて、赤熱するほどではないが、確かな熱の塊が彼女の掌の前に生まれる。
「――っ、すごい……! 精霊の加護を受けたときより、はるかに効率が高い!」
榊の瞳が歓喜に輝く。
その熱球は、壁を焦がすほどの出力を帯びていた。
莉理香は呆然と立ち尽くす。
(私の“やってみた”程度の熱球よりずっと安定してる……!)
目の前で、自分の力が「理屈によって」安定させられている。
胸奥で、ラギルが愉快そうに笑った。
『フフ……直感で済ませてきたことを、人間は理屈で補うのか。なるほど、面白い。……お前自身にも学ぶところがあるぞ、莉理香』
榊は熱球を消し去り、肩で息をつきながらも笑みを浮かべる。
額には汗がにじみ、頬には高揚の赤みが差していた。
「……これは……研究対象どころではありません。新しい現象の、まったく新しい理論の入り口です……!」
莉理香は引きつった笑みを浮かべ、思わず小声でつぶやいた。
「……やっぱり、私……研究材料にされるやつ……?」
榊は深く息を吐き、まだ震える指先を押さえながら言った。
「……桐嶋さん。これは精霊術の常識を覆す発見です」
眼鏡の奥に光るのは、研究者の飽くなき欲望。
恐怖も畏れもなく、ただ未知を解明する喜びだけが燃えていた。
「精霊術はこれまで“自然との契約”に頼ってきました。しかし――あなたとの接続は違う。
理論を理解し、意志を交わすことで、桁違いの効率で現象を顕現できる。
これは……精霊術師の新しいブレイクスルーになるかもしれません!」
「えっ……ええええっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
莉理香は慌てて両手を振る。
だが榊の熱は止まらない。
「共同研究です。必ず論文化できる。理論を確立できれば、精霊術師全体の力の底上げに直結します!」
「いやいやいや! 私、そんな大それたことするつもりないですから! ただでさえ出費でヒーヒー言ってる小市民なんです!」
必死の抵抗に、榊は逆に笑みを深めた。
「小市民? そんなことは関係ありません。あなたが“新しい精霊の形”を示しているのは紛れもない事実です」
「だから精霊じゃなくて私本人の力なんですってば!」
「その“本人の力”が、精霊以上の制御性を持っていること自体が重要なんです!」
「ぐぅ……っ」
言葉で押し負け、莉理香は机に突っ伏した。
胸奥でラギルの笑い声が響く。
『フフフ……人間どもは面白いな。未知に出会えば恐れより先に好奇心が勝つ。――だが、それは悪いことではないぞ、莉理香。お前自身もまた、制御の術を学べるやもしれぬ』
(……確かに、そうかもしれないけど……! なんかもう研究材料にされそうで怖いんですけど!)
突っ伏したまま呻く莉理香を、榊はまるで宝石を見つけた子供のような眼差しで見つめていた。
「桐嶋さん、これから一緒に未来を切り拓きましょう!」
「未来って簡単に言わないでくださいよぉ……!」
小市民的な悲鳴が、会議室に虚しく響いた。