第28話 精霊術師との邂逅
救護課の執務室。
夕方の雑然とした空気の中、莉理香は高村に呼び止められた。
「ちょうど来ている。紹介しておこう」
案内された先に立っていたのは、一人の女性だった。
協会の制服の上から白衣を羽織り、年齢は三十前後だろうか。
眼鏡の奥に光る瞳は知的で、肩までの黒髪をきっちりとまとめ上げている。背筋の伸びた姿勢からは、場数を踏んだ落ち着きが漂っていた。
その立ち居振る舞いは医師や研究者を思わせ、周囲の空気さえ引き締めるようだった。
「こちらは榊さんだ。精霊術師として登録している。協会では主に訓練生への指導を担当している」
「榊真澄です。お話は伺っています」
丁寧に頭を下げる榊。
その所作は柔らかく気品があったが、同時に、瞳の奥には研究者特有の強い好奇心が宿っていた。
「……桐嶋莉理香です。救護課に所属しています」
慌てて礼を返す莉理香。
榊はにこやかに頷き、しかし次に発した言葉で、莉理香の頬を赤く染めさせた。
「存じております。現場記録にもよく名前が出ていますから。――あの、“無傷の救護前衛”」
「ひっ……」
思わず肩を竦める莉理香。
ネットや現場で広まっているあだ名を正面から言われると、どうしても気恥ずかしさが込み上げる。
榊は追及することなく、落ち着いた声で本題へと移った。
「課長から伺いました。力の制御に課題を抱えているとか」
「……まあ、その、はい。とにかく出力が安定しなくて。昨日なんて家電が全部……」
「家電……?」
眼鏡の奥で榊が小さく瞬きをする。
その反応を、高村の咳払いが遮った。
「細かい話はいい。要は“電気的な現象を暴走させた”ということだ。精霊使いの観点から、助言できることがあるかもしれん」
「なるほど」
榊は静かに頷き、莉理香に正面から向き直った。
彼女の瞳は好奇心でわずかに輝き、同時に指導者としての厳しさも宿している。
「私たち精霊術師は、自然現象を“精霊”を通じて扱います。力そのものを自分のものとするのではなく、媒介を通して借りる。その際に重要なのは――現象の理論を理解することと、精霊との対話です」
「理論と……対話」
莉理香は思わず復唱した。
「はい。火を動かすなら燃焼の仕組みを。水を操るなら流体の性質を理解しなければ、精霊は応えてくれません。――桐嶋さんの場合は、どうでしょうか?」
問われて、莉理香は言葉に詰まった。
彼女は科学の断片を頭の中で組み合わせ、実験するように力を試してきた。
だが、多くの場合は理屈よりも直感に頼っている。
「……正直に言うと、あんまり理屈で理解しているわけじゃなくて。動くかな、って思うと動いてしまう感じで……」
榊は顎に手を当て、興味深そうに頷いた。
眼鏡の奥で光る瞳がわずかに細められ、観察対象を見つめる研究者のような色が浮かぶ。
「直感だけで現象を起こせる……なるほど。ある意味では、精霊以上に“源泉に近い”のかもしれませんね」
――源泉。
その言葉に、莉理香の胸奥で竜核がかすかに震えた。
『……ふむ。やはり気づくか、この女。』
ラギルの低い声が心の内で響く。
莉理香は気づかれぬように、小さく息をのんだ。
***
榊は腕を組み、莉理香をじっと観察していた。
その視線には研究者特有の探究心が満ちている。
「……桐嶋さん。さきほど“電化製品が壊れた”とおっしゃいましたね」
声を濁しながらも、視線が泳ぐ。昨日の惨状を思い出すと、胸の奥がちくりと痛んだ。
「え、ええ……まあ、その……」
「つまり、雷精――電気を司る精霊の加護を受けているのではないかと推測します」
「……え?」
莉理香は思わず間抜けな声をあげた。
精霊の加護? 自分はそんなものを受けているつもりはない。
戸惑いを隠せずにいる莉理香に、榊は机の上を軽く叩いて促した。
その仕草には確信を持つ者の落ち着きがあった。
「確認しましょう。――桐嶋さん、あなたはどんな現象を起こせるのですか?」
「どんな……ですか?」
「はい。できれば一通り、見せていただきたい」
榊の眼差しは真剣そのもの。
逃げ場のない緊張感に、莉理香はしばし言葉を失い、やがて観念したように息を吐いた。
「……じゃあ、まずは風」
掌を差し出し、胸奥で竜核がかすかに震える。
ふっと息を吐くと同時に、指先から突風が吹き出した。
机上の書類がひらひらと宙を舞い、榊の髪を揺らす。
「次は……熱」
空気を束ね、圧縮する。
掌の前に“見えない熱球”が現れた瞬間、周囲の空気が揺らめいた。
「冷気も……」
今度は逆に分子の動きを奪う。
窓ガラス一面に霜の模様が走り、冬の朝のような冷気が一瞬で室内を満たした。
「最後に……雷」
小さく指を鳴らした瞬間、ぱちりと青白い火花が散った。
まるで掌に稲妻を閉じ込めたかのように、電流が弾け、焦げた匂いが漂う。
――四つの現象を立て続けに見せつけられ、榊は硬直した。
眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれ、知性の仮面の奥で衝撃と興奮が入り混じる。
「……なんで……?」
震える声が零れる。
「えっ、あの……?」
おそるおそる声を返す莉理香。
だが榊は言葉を選ぶ間もなく、確信めいた声で言い切った。
「普通、精霊の契約は一柱だけです。火なら火、水なら水。無自覚に複数と契約しているなんて――聞いたことがありません!」
その言葉に、莉理香は呆然と立ち尽くした。
契約? 複数? 自分にはまるで覚えのない話だった。
(け、契約なんてした覚え……全然ないんだけど……!?)
心臓が早鐘を打ち、視線が宙を泳ぐ。
榊の視線には好奇心と警戒の両方が宿り、ますます息苦しくなる。
狼狽する莉理香の胸奥で、ラギルが低く笑った。
『フフ……面白い誤解をしておるな。精霊の力など借りてはおらぬ。これは純粋に“莉理香自身の力”よ』
(ラギル、笑ってる場合じゃないから!)
――精霊術師は確信している。
莉理香は「無自覚に複数の精霊と契約している」と。
だが、その実態は竜核由来の、彼女自身の異能だった。
***
榊は静かに息を整え、机の上に両手を置いた。
その所作は一見落ち着いていたが、眼鏡の奥の瞳は鋭い光を帯びている。研究者特有の探究心が、彼女の全身から滲み出ていた。
「……では、次に少し試してみてもいいですか?」
唐突な申し出に、莉理香は首を傾げた。
榊は柔らかい声で補足を加える。
「精霊契約においては、力の“流れ”を観察することができます。あなたの中を通るエネルギーが、どんな経路を辿り、どんな性質を帯びているのか……。
今回は契約ではなく、ただ精神的な接続を試み、流れを“覗く”だけです」
「精神的な接続……ですか」
莉理香は小さく息をのむ。知らない言葉に、緊張がにじむ。
だが、胸奥でラギルが穏やかに囁いた。
『構わん。ただ覗く程度ならな。――むしろ我らにとっても面白い』
その声音は揺るぎない自信に満ち、莉理香の不安を和らげた。
「……お願いします」
意を決し、彼女は頷いた。
榊が目を閉じ、そっと莉理香の手の甲に指先を重ねる。
瞬間、冷たい水に沈むような感覚が二人を包み――
「……っ」
すぐに途切れた。
榊は眉をひそめ、目を開く。
莉理香も小さく瞬きをした。自分の胸奥では、竜核がかすかに脈動し、外部からの干渉を“弾いた”のがわかった。攻撃ではなく、あくまで自動的な防御反応。
『当然だ。竜核は莉理香の核であり、余人を拒む。単純に力不足で弾かれたのだ』
(……そんな、容赦ない……)
莉理香は内心で苦笑するが、榊は真剣な表情のまま首を傾げていた。
「……おかしいですね。精霊側からの拒絶なら、もっとはっきりした抵抗の気配を感じるはずです。ですが今のは……その手前。
まるで“門前払い”にすらならず、触れる前に霧散してしまったような……」
困惑を隠さず言葉を重ねる榊。
だが、その瞳には不安よりも強い興味が灯っていた。
「……桐嶋さん。あなた、本当に何と契約しているんですか?」
「えっ……いや、その……」
言葉に詰まる莉理香。
しかしその沈黙は、榊の疑念をますます深めることになった。
「……やはり私の側からでは届きませんね」
榊は顎に指を添えて考え込み、やがて決意したように顔を上げた。
「では方法を変えましょう。桐嶋さん――あなたのほうから、私に力を流してみてください。私が導きます。
精霊契約の初歩では、術者が“窓口”を開く手助けをするんです」
「わ、私から……?」
不安に揺れる声。
だが胸奥でラギルが低く笑う。
『いいだろう。そやつが望むなら、お前から道を繋げ。――ただし加減を忘れるなよ』
(加減……できるかな……)
莉理香は深く息を吸い、榊の差し出した手に自分の掌を重ねた。
その瞬間――竜核が脈動する。
透明な流れが溢れ出し、榊の導きに従って細い糸のように伸びていく。
意識を集中すると、その糸は榊の精神に触れた。
「――っ!」
榊の全身に稲妻のような衝撃が走る。
精霊との接続で感じる“自然のささやき”とは根本的に違った。
これは山でも嵐でもない。世界そのものを押し潰すような巨大な吐息。
心臓を直接握られたかのような圧迫感に、彼女は息を詰まらせる。
「と、とんでもない……っ」
声が震え、額に汗が滲む。
それでも必死に意識を保ち、糸の先だけを掴み取ろうとする。
確かに扱いやすさはあった。だが、その背後に広がる“深淵”の存在感が、恐ろしくてならない。
『フフ……気づいたか、人間。お前が触れているのは精霊の囁きなどではない。我が力の片鱗だ』
榊には届かぬ竜の声。
莉理香は慌てて手を引き、接続を切った。
ぷつりと糸が途切れ、空気が一気に軽くなる。
榊は肩で息をしながらも、その瞳には恐怖と興奮がないまぜになった輝きが宿っていた。
「……桐嶋さん。あなたは……精霊なんかじゃない。もっと――もっと大きな……」
言葉を失い、ただ呆然と莉理香を見つめる榊。
莉理香は視線を逸らし、居心地悪そうに指を組む。
(……やばい。バレたかも……)
胸奥で竜核が愉快げに震えるのを感じながら、彼女は小さくため息をついた。