第27話 精霊術師って何が違うんだろう
翌朝。
救護課の宿直室で迎えた夜明けは、どこか気まずい空気をまとっていた。
薄いカーテン越しに差し込む光は優しかったが、莉理香の胸中は重苦しく、寝不足気味の瞳の下には薄い影が残っている。
制服に袖を通し、深呼吸をひとつ。
彼女は意を決して課長室の扉をノックした。
「……あの、課長。ちょっとご報告がありまして」
中から「入れ」という落ち着いた声が返る。
無精ひげを撫でながら書類をめくっていた高村が、顔を上げた。
その表情には、いつも通りの冷静さと、どこか部下を案じる柔らかさが同居している。
「なんだ。顔色が悪いな。昨夜は宿直だったか?」
「はい。あの……実は、家電製品が全部、壊れてしまって……」
言い終えた瞬間、室内に沈黙が落ちた。
高村はしばし瞬きを忘れたように彼女を見つめ、それから大きなため息をつく。
「……お前なぁ。どうせ“何か”やったんだろう」
「い、いえ、その……少し実験をしていたら……えっと……」
莉理香は視線を泳がせ、指先をもじもじと動かした。
語尾はどんどん小さくなり、すべてを正直に説明できるはずもなく、曖昧な言葉を並べるしかなかった。
「まぁいい。死傷者が出たわけじゃないんだな?」
「もちろんです! 私だけで……生活が壊滅しましたけど……」
思わず自虐が漏れ、声が裏返った。
その様子に高村はふっと口元を緩め、肩を竦めて笑った。
「救護課の備品を壊してないだけマシだ。しばらく宿直室で寝泊まりしてろ。ただし無茶はするなよ」
短く告げられた忠告には、呆れと同時に温かな配慮が滲んでいた。
「……はい」
結局、呆れ半分で受け流されてしまった。
それでも追及されなかったことに、莉理香は内心ほっと胸を撫で下ろす。
部屋を後にする彼女の背には、まだ小さな罪悪感の影が残っていた。
***
その日の夕方。
新宿の量販店は、平日にもかかわらず多くの客でにぎわっていた。
光沢のあるフロアに映えるショーケースには、最新型のスマートフォンがずらりと並んでいる。
莉理香はその前に立ち、財布の中身を頭の中で数えながら、胸の奥がきゅっと痛むのを感じていた。
「……給料日前にこれは、かなり痛い……」
小さく呟く声に、自嘲が混じる。
研修医を諦め、探索者として給料を得るようになってからは、以前より経済的には余裕があるはずだった。
だが、不意の大出費はやはり胃に響く。
それが“生活必需品”であればなおさらだった。
迷った末に彼女が選んだのは、中価格帯の実用モデル。
レジで店員に深々と頭を下げながら手続きを済ませる。
プラスチックの袋に収められた新品の端末を抱えた瞬間――胸に小さな重みと、大きな出費の実感が同時にのしかかった。
そのまま椅子に腰を下ろし、バックアップ復元の画面を凝視する。
やがて数分後、見慣れたアプリの並びが画面に蘇った。
「……っ、やった! 文明ってすごい!」
思わず声を上げ、周囲の客に振り向かれ、頬が赤くなる。
それでも構わなかった。
失ったと思っていた連絡先や写真が、すべて戻ってきた安堵感に、胸が熱くなった。
昨夜までの惨状を思えば、これは奇跡に等しい回復だ。
電子機器は壊れても、人間の記憶を救うのは――文明の力。
新しいスマホを手に戻った救護課の休憩室。
莉理香が椅子に腰を下ろし、データの復元状況を確認していると、不意に背後からからかうような声が飛んできた。
「お、買い替えたんだ? ずいぶん痛手だったみたいじゃないの」
にやりと笑いながらコーヒー片手に近づいてきたのは、ベテラン看護師の三浦だった。
覗き込む視線には好奇心と、からかい半分の親しみがにじんでいる。
「……はい。生活家電もほぼ全滅で、しばらく協会暮らしになりそうです」
莉理香が苦笑交じりに答えると、三浦は目を細めて眉を上げる。
「なにやったらそんなことになるのよ」
「……色々、です」
曖昧な笑みでかわすしかない。
三浦は追及を諦めたように肩をすくめたが、すぐ横から山崎が豪快に笑った。
「ははっ、でも医者待遇の手当ついてんだろ? 最新機種でも余裕じゃねぇの?」
「いえ、余裕じゃないです! このタイミングの出費は普通に痛いです!」
きっぱりと即答した莉理香は、机に突っ伏すように身を投げ出した。
その姿は、給料日前に財布を覗き込んで落ち込む新人探索者そのものだった。
その反応に、山崎は目を丸くする。
「……マジか。課長から“医師資格持ちは手当厚いぞ”って聞いたから、もっと羽振りいいのかと思ってた」
「たしかに、もらってる額は……それなりにですけど。出費が突然来ると普通にしんどいんですよ。パソコンとか冷蔵庫とか……生活必需品って、意外と高いんです」
素直に打ち明ける声は、弱音ではなく現実的な実感を帯びていた。
その真面目さが逆におかしかったのか、三浦は口元を緩めてカップを口に運ぶ。
「真面目に言うとこが莉理香らしいねぇ。前線で魔物をぶっ倒すより、量販店の値札のほうが怖いんだろ?」
「……はい。値札は殴っても変わらない現実ですから」
きっぱりと返す莉理香に、課内の数人が吹き出した。
次の瞬間、休憩室に明るい笑い声が広がる。
「いやぁ、小市民感覚の最強戦力か。ますます変なギャップが目立つな」
笑い混じりの言葉に、莉理香はただ苦笑するしかなかった。
どれほど異能を振るおうと、彼女は結局のところ一人の人間。
生活費に頭を抱え、値札に怯え、iCloud復元に歓喜する――そんな日常を手放すつもりはなかった。
***
「――だから、クラウドバックアップは偉大なんです!」
胸を張って言い切る莉理香に、休憩室の空気が和む。
最新鋭の探索者装備をまとってダンジョンを駆け回る女が、まるで家計簿を守る主婦のように力強く訴える姿――その落差が可笑しく、三浦も山崎もあきれ笑いを浮かべながらコーヒーをすすっている。
「いやいや、そこまで真剣に言うなよ……」
「でもまぁ、スマホ死んで泣く探索者は多いしな。莉理香の言うことは一理ある」
わいわいと雑談めいた空気が広がり、笑い声が弾んだその時。
背後の扉が静かに開き、課長の高村が姿を見せた。
「――ずいぶん楽しそうだな」
低く響く声に、室内の空気が一瞬で引き締まる。
莉理香も慌てて立ち上がり、姿勢を正した。
「桐嶋、少し来い」
短い一言と鋭い視線の合図だけで、彼女は別室へと連れ出された。
扉が閉まると、外の賑やかな声は嘘のように遠ざかる。
***
簡素な会議室。
机を挟んで座ると、高村は腕を組み、重い眼差しで莉理香を見据えた。
「……状況、わかっているか?」
低く落ち着いた声。叱責ではないが、鋭い刃のように胸に突き刺さる。
莉理香の背筋は自然と伸び、喉がかすかに鳴った。
「えっと……その……“あんまり良くない”くらいには……」
精一杯の言葉は弱々しく、心の奥に潜む不安を隠しきれなかった。
「正直なのは悪くない。だが、楽観視はするな」
高村は腕を組んだまま、しばし考え込むように視線を伏せ、それから低く続けた。
「海外派遣の話だ。お前も薄々勘づいているだろうが――あれは単なる医療支援じゃない。政治的な駆け引きの道具でもある」
「……っ」
胸がざわめき、言葉が出ない。
だが高村は、彼女の表情を見て取ると、あえて深くは語らずに一拍置いた。
「心配するな。全部を背負わせる気はない。ただ、お前が“無自覚に巻き込まれている”ことだけは自覚しておけ」
莉理香は唇を噛み、黙って頷く。
その瞳には、不安と同時に小さな決意の光が宿っていた。
だが次の言葉は、さらに彼女の心を抉った。
「それと――今回の件だ」
「け、件って……あの、スマホとか冷蔵庫とか……?」
「とぼけるな。隠しているつもりなんだろうが……まだ、できることがあるはずだ」
「……!」
核心を突かれ、息が詰まる。
雷球の実験で家電を全滅させた昨夜の惨状。
誰にも話していないはずなのに――やはり課長は気づいていた。
「……わ、私……」
声が震える。
だが高村は叱りつけることもなく、ただ重く言い切った。
「――制御を誤れば、お前自身も巻き込まれる。忘れるな」
その一言は、どんな説教よりも深く胸に響いた。
莉理香は大きく息を吐き、拳を膝の上で固く握りしめる。
張りつめた沈黙を破ったのは、高村のほうだった。
「……まあ、そこまで追及するつもりはない」
組んでいた腕をほどき、ほんのわずかに表情を緩める。
叱責ではなく、部下を思いやる大人の顔だった。
「何ができるか、細かくは聞かない。だが――もし制御に困っているなら、精霊の力を借りている探索者につなぐこともできるぞ」
「精霊……?」
思わず問い返す莉理香。
「お前も知っているだろう。火や水、風の精霊を媒介に現象を安定させる“魔法”。“暴走を防ぐ制御”という点では学ぶところがあるかもしれん」
その言葉に、胸奥の竜核がふっと震えた。
『……精霊、か。』
ラギルの声が心に響く。
普段は飄々とした竜の意識が、珍しく興味を滲ませていた。
『なるほど、人間どもはそうやって力を借りているのか。ならば、そやつらの“術”とやらを覗いてみるのも悪くはないな』
(……ラギル、興味あるの?)
『お前は己の核で力を操っている。だが、“借りものの力”をどう制御するかを知れば、己の力を扱う参考になるやもしれぬ』
内なる声に、莉理香は小さく息をのんだ。
――自分は精霊と契約しているわけではない。
けれど、“制御”という視点でなら、学べるものがあるのかもしれない。
「……課長。ご紹介いただけるなら……少し、学んでみたいです」
恐る恐るそう答えると、高村は安心したように目を細めた。
「そうか。それでいい。お前が一人で抱え込みすぎるのが一番危うい。すぐに手配しよう」
そう言って立ち上がる課長の背中には、静かな信頼が漂っていた。
残された莉理香は、胸の奥でざわめく竜の声を必死に押さえ込む。
『フフ……面白くなってきたな。精霊使い、人間の魔法……見せてもらおうではないか』
――それは、竜の古き記憶と、人間としての小さな希望が交差する瞬間だった。