第26話 新しい力の代償
海外派遣が正式に決まったその夜。
探索者協会から戻った莉理香は、まっすぐ自室の机に向かった。
緊張もあった。けれどそれ以上に、胸の奥では強い決意が熱を帯びていた。
――どうせなら、海外でも“医師”として、“救護員”として、持てる力を余すことなく発揮したい。
未知の場所へ行くからこそ、自分ができることを最大限に広げておきたい。
その思いが、彼女を駆り立てていた。
開かれたページには、学生時代を思わせる癖のある字で数式や図がびっしりと並ぶ。
単なるメモではない。医師としての知識と、竜核の力の探求心が織り交ざった“実験ノート”だ。
「熱球……あれができるなら、理屈の上では“冷球”も作れるはず」
ペンをくるくると回しながら呟いた声には、抑えきれない高揚が混じっていた。
外の世界では彼女が政治の道具にされようとしているなど夢にも思わず、ただ純粋に「できることを増やしたい」という情熱だけが胸を満たしていた。
ベッドの上では、竜核を通じて意識を結んでいるラギルが、静かな気配で彼女を見守っていた。
『面白いな。熱とは分子の運動。お前はそれを周囲から奪い、凝縮して一点に集めた。ならば逆に、運動量を外部に放出してしまえば、残るのは“冷え”だ』
「やっぱりそうだよね!」
莉理香はぱっと顔を上げ、瞳を輝かせた。
かつて講義で眠気まじりに聞いていた熱力学が、今この瞬間、竜核を介して現実の力へと変わっていく――そう思うと胸が熱くなる。
「冷球……上手く作れたら、火災現場でも役立つはず。酸素を遮断しなくても温度を下げられるなら、延焼を防げる」
救護員らしい思考。だが、ラギルはすぐに冷ややかな言葉を投げた。
『ただし注意しろ。熱を奪った分の“運動量”は消えはしない。どこかに捨てねばなければ必ず歪みが現れる』
「……つまり、反動が来る?」
『そうだ。お前がやりすぎれば、周囲が異常な高温になるかもしれん』
莉理香は顎に指を当て、眉をひそめて考え込む。
警告を理解している。それでも、未知を切り拓く衝動は抑えきれない。
彼女は掌を前にかざし、静かに呼吸を整えた。
「分子の動きを……奪って……」
空気がぴんと張り詰め、部屋全体が微かに震える。
次の瞬間、掌の前に白い霜が舞い降りた。水蒸気が急速に凝結し、透き通る球状の冷気が生まれていく。
「……できた!」
ひやりとした空気が肌を刺し、机の上のペン立てが瞬く間に真っ白に凍りついた。
パキパキと氷が割れる音が夜の静けさに響き、莉理香は息を呑んだ。
『ふむ……やはり可能か。奪った運動量はどこへやった?』
「……体がちょっと熱い」
額に汗が浮かび、頬が赤らんでいる。
冷球を成立させる代わりに、余剰の熱は自分の身体に戻ってきていたのだ。
『なるほど。排出先がなければ、お前自身が“熱の捨て場”になる。これは危険だな』
「……でも理屈通りではあるね」
莉理香は苦笑しつつも、確かに成果を得られたことに小さな達成感を覚えていた。
そして――彼女の脳裏にもうひとつの可能性が浮かぶ。
彼女の脳裏には、もう一つの可能性が浮かんでいた。
「熱を運動に変換できるなら……電位差も作れるかもしれない」
ラギルの声が低く唸った。
『電位差?何を束ねようとしている?』
莉理香はノートを閉じ、目を輝かせた。
彼女にとって、これは危険な実験ではなく純粋な探究だった。
救助の現場で役立つ可能性があるなら――試さずにはいられない。
机の上にはノートパソコンと参考書が散らばっている。
画面には電子軌道や電位差の図が並び、ページには学生時代に走り書きしたメモのような数式がびっしりと書かれていた。
「……つまりね、ラギル。熱は分子の運動だったでしょ? でも電気は“電子”っていう小さな粒が動く現象なの」
説明する声はどこか誇らしげで、授業中の教師のようだ。
『よくわからんが、空気や水の流れとは違うのだな?』
「うん。すごく軽い粒があって、それが移動すると電流になるの。プラスとマイナスに分かれていて、バランスが崩れると“電位差”ってエネルギーが生まれるんだ」
言葉に込められる熱量は、まるで幼い子供が新しい遊びを発見したときのようだった。
『ふむ……ならば、風を集めるように、電子とやらを偏らせることもできるはずか』
「そう! 運動量を直接“電位差”に変換できたら、雷みたいに放出できる」
ラギルの低い唸りが、空気を震わせる。
『なるほど……雷ということか。お前の世界の学問は奥深いな。炎や風は扱えても、電子という概念は知らなかった』
「ふふ、じゃあ今日は私が先生だね」
莉理香は胸を張った。その仕草は子供のように無邪気でありながら、どこか凛とした誇りが漂っていた。
彼女は掌を前に差し出し、呼吸を整える。
竜核を震わせ、分子の運動から電子の奔流を思い描く。
「……電子をイメージして……」
次の瞬間。
空気がビリ、と震え、掌の上で青白い光が弾けた。
指先から走る刺激に、莉理香は息をのむ。
「できた……! 雷球!」
直径十センチほどの球が、淡い光を放ちながら宙に浮いていた。
パチパチと小さな放電が走り、部屋の空気に焦げ臭い匂いが混じる。
『ほう、確かに雷をとどめているな、これは確かに新しい“力”だ』
ラギルの声には、驚きを隠せない子供のような色が混じっていた。
「やった……!」
莉理香は歓喜に声を弾ませ、思わず小さく飛び跳ねる。
だが次の瞬間――
バチィッ!
雷球が弾け、部屋中を白い閃光が走った。
蛍光灯が明滅し、ノートパソコンが黒い画面に沈む。
「え、ちょっと!? ええぇっ!」
冷蔵庫からも「ウィーン」という最後の呻き声が響き、静かになった。
電子レンジの液晶が消え、エアコンの風も止まる。
焦げ臭い匂いが漂う暗闇に、呆然と立ち尽くす莉理香。
『……どうやら、雷が周囲のものに流れ込んだな』
ラギルはあくまで冷静に状況を解析する。
「冷静に言わないで! 生活家電が全滅したんですけど!」
『進歩には犠牲がつきものだ』
「犠牲大きすぎ!」
莉理香は頭を抱え、半ば泣きそうになりながらも、口元に笑みを浮かべていた。
掌に残るビリビリとした余韻が、新しい力の芽生えを確かに告げていたからだ。
『……雷球、か。これは新しい力だ。お前が見せてくれた世界は、実に興味深い』
ラギルの声音はどこか楽しげだった。
彼にとって莉理香は生徒であると同時に、自らに新しい視野を開かせる“師”でもあった。
だが、現実は容赦ない。
暗闇に沈んだ部屋、沈黙した家電、真っ黒なスマホ。
便利な生活を支えてきた文明の恩恵が、一瞬で瓦解したのだ。
「……これ、どうしよう……」
震える声で呟いた。高鳴る胸と、沈む生活。両極の感情がせめぎ合う。
結局、意を決して公衆電話から大家に連絡をした。
事情を説明すると、「ブレーカーが焼けたかもしれないな。修理を手配するけど数日はかかる」と淡々と告げられる。
「いえ……大丈夫です。協会の宿直室に泊まりますから」
電話を切り、部屋に戻ると最低限の荷物をまとめる。
深いため息を吐きながら部屋を出ると、先ほどは気づかなかった夜の冷気が頬を撫でた。
暗い夜道を歩きながら、莉理香は何度もため息をついた。
胸の奥はまだ高鳴っている。冷球、雷球――未知の力を開拓した興奮は消えない。
だが同時に、壊れた家電と真っ黒なスマホの映像が脳裏にちらつき、心を重くさせた。
結局、彼女はこう呟くしかなかった。
「……新しい力は、生活に優しくない……」
その声は夜の街に紛れ、誰に届くこともなかった。