第20話 ただの威嚇?それとも要監視スキル
薄暗い通路。
石造りの壁には苔が淡く光り、湿気を帯びた魔素の霧が肌にまとわりつく。遠くでは、魔物の甲高い鳴き声が木霊していた。
莉理香は分厚い重量装備を身に着け、前衛の村上と並んで歩を進めていた。
一見すれば「少しごつめの防具を着た救護員」にしか見えない。だが、彼女の足が床石を踏みしめるたび、わずかに軋む音が響き、仲間たちは本能的に“常識を超える重さ”を直感していた。
「……莉理香さん、本当に平気なんですか?」
後衛の真由が、不安を隠せない声で問いかける。
「はい。むしろ安定してます」
莉理香は明るい調子で答え、肩をすくめてみせた。笑顔には余裕がある。
その直後、通路の影から犬型の魔物が数匹、牙を剥いて飛び出してきた。
「任せてください」
莉理香は一歩前へ。深く息を吸い込み、胸の奥――竜核を震わせる。
「――ッ!!!」
発せられたのは、確かに人間の女性の声だった。
けれど次の瞬間、通路の空気がビリリと震え、犬型たちの耳が伏せられる。野生の本能に突き刺さる威圧の波動。
魔物たちは一瞬、足を止めた。
「……おお」
斥候の杏奈が目を見開く。
「これ、ちゃんと挑発できてる」
村上も唸るように頷いた。
「タンクってこういうことか……しかも結界が後ろにある。俺たち、安心して突っ込めるぞ」
吠え直した犬型が襲いかかる。莉理香は片腕を上げ、正面から受け止めた。
重量装備の質量が支えとなり、びくともしない。
「……あ、これは鉄壁だわ」
誰かの呟きが、戦場に妙な笑いを混ぜた。
攻撃を受け止め、背中で仲間を守るその姿は、もはやただの救護員ではなかった。
完全に――「前に立つ壁」だった。
***
さらに奥へ進むと、影が次々と湧き出した。犬型に加え、甲殻を持つ中型まで混ざり、数は十を超える。
「……莉理香さん、数が多い!」
杏奈が焦りの声を上げる。
「下がれ、無理だ!」
村上が叫び、槍を構え直す。
だが、莉理香は静かに首を振った。
「大丈夫です。――ここは私が」
次の瞬間、彼女の胸の奥から解き放たれるものがあった。
――オオオオォォォッ!!
石壁が震え、空気が圧縮される。
竜の咆哮。
炎も衝撃波も伴わない。ただ、魂を叩きつけるような叫び。
弱い魔物はその場で足を竦ませ、尻尾を巻いて逃げ出す。
しかし大半は逆に引き寄せられ、牙を剥いて一斉に殺到した。
「……完璧なタウンティングだ」
村上の声は呆れと感嘆の入り混じったものだった。
「敵が全部、あいつに向かっていく……」
後方の真由が矢を放ち、杏奈が脇から削り、亮介が剣で畳みかける。
中心で吼えるのは救護枠――桐嶋莉理香。戦線は揺るがず、魔物は次々と崩れていく。
「こりゃ楽だわ……」
杏奈が苦笑交じりに呟く。
一方その頃。
協会の記録ドローンが配信していた映像は、例によってネットに流れていた。
《え、今の何!?》
《魔物がビビってんだけど!?》
《挑発はわかるけど、逆に怯ませるって反則じゃね?》
《おいおい、魔物ビビらせてどうすんだよ!!ww》
映像の中で、救護員は確かに「前衛の壁」であり――「魔物をビビらせる救護員」という、新たな称号を勝ち取ってしまったのだった。
***
――某夜、ネットニュース番組。
画面には例の「救護員が咆哮で魔物を怯ませた映像」と「サンドバッグを爆破した映像」が並び、スタジオはざわついていた。
「いやこれ、普通のタウンティングじゃないですよ」
司会が半笑いで話を振ると、横に座るのは魔物行動学の専門家、黒川教授。
「ええ。威嚇の雄叫びは人間でもできますが、あそこまで魔物の動きが止まるのは異常です。まるで“恐怖心そのものに干渉している”ように見える」
「追加効果……みたいな?」
司会が首を傾げる。
「可能性は高いですね。音圧だけでは説明できません。映像を解析すると、威嚇の瞬間に魔素濃度が局所的に揺らいでいる。おそらく何らかの魔素干渉が働いているでしょう」
「なるほど……つまり、声+αってことですね」
そこへ隣の席の音響学者、佐野が口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。私は音響の専門家ですが、あの波形……普通の人間の声ではまず出せません。低周波が混じっている。人間が出せる周波数帯域を明らかに逸脱しているんです」
「低周波?」
司会が食いつく。
「はい。人間の耳には聞こえにくい、いわゆる“恐怖を煽る領域”の音です。大太鼓や爆発音に近い。これが魔物の感覚器に直撃して、本能的な恐怖を呼び起こしているのではないかと」
「じゃあ科学的に説明できるんですか?」
「……いえ、普通の人間では説明できません」
佐野は苦笑した。
「肺活量や声帯の仕組みから考えても、あの声量は“構造が違う”としか」
黒川教授が頷き、さらに補足する。
「しかも重要なのは“魔素濃度が揺らいだ”という観測結果です。音だけではなく、魔素に干渉している可能性が高い。つまり――音響+魔素波動のハイブリッド。そう考えるのが妥当でしょう」
別のゲスト、協会の元教官である片桐が腕を組んだ。
「要するに、タウンティングというより“魔素干渉型の広域スキル”なんじゃないか? 威嚇の形を借りているだけで、実際には魔物の本能に直撃している」
「じゃあ、普通の挑発技術とはまったく別物?」
「別物です。これを実戦で使えるとなると……タンクどころか、群れ制御の切り札になりますよ」
スタジオの空気が一瞬張りつめる。
だが司会が、わざと軽い調子でまとめた。
「……要するに、声で魔物の心を“掴んで揺さぶる”ってことですか。怖すぎるんですけど」
ネットのコメント欄は困惑で埋め尽くされた。
《声+魔素波動=新ジャンル》
《いやいや、救護課の新人がラスボス級の説明受けてるんだが》
《魂揺さぶるってホラーかw》
《声帯どうなってんのwww》
そして次に映し出されたのは、かつて話題になった「投げて空中で首を蹴り折った」シーン。
ここでコメントを求められたのは、元世界王者の格闘家で今は解説者の佐伯。
「まず、技術としては合気道的な崩しに見えます。ただ――崩したあと空中で首を蹴り折るなんてのは、格闘技の域を超えてますね」
「反則ですか?」
司会が笑う。
「反則です。間違いなく。だって人間相手なら命に関わりますから。そもそも映像を見てて一番怖いのは、力を入れてないように見えるのに威力が異常に高い点です。普通、首なんて折れませんよ。空中で一瞬で“仕留める”のは、質量と速度が桁違いだとしか言えない」
「なるほど……。そして今回、その質量が“防具で増量されてる”と」
ここで議題は「重量装備」へ。
映像には、百キロ超の装備を着込んで軽々と動く姿が流れる。
「……これ、格闘家から見てどうです?」
司会が振ると、佐伯は思わず苦笑を漏らした。
「いや、普通は“重ければ強い”なんて話は通用しませんよ」
彼は指を折りながら説明する。
「ボクシングでも総合でも、階級って体重で分けられてますよね。体重が重ければ一発の威力は上がる。でもそれは“自分の体を維持したまま”の話です。重りを外付けしてしまえば、速さが落ちて意味がなくなるんです」
「なるほど……」
司会が相槌を打つ。
「たとえば拳の中にコインや小石を握る。これだけで打撃の質量は上がります。実際、古い時代には反則技として問題になった。けどせいぜい数百グラム単位ですよ。それ以上増やせば、手首や肩を壊す方が早い。人間の関節は、無限の重さに耐えられるようにはできてない」
「じゃあ、百キロは……?」
「有り得ません」
佐伯は首を横に振る。
「重りを着けたら動きが鈍る。速さを失えば慣性も活かせない。だから“重いほど強い”というのは格闘理論では真逆の発想なんです」
だが映像の中で、莉理香は百キロ超の装備を着込んだまま、素早くステップを踏み、爆発的な打撃を繰り出している。
「……なのに、彼女は軽々と動いてる」
佐伯は呆れたように笑う。
「人間じゃないですよ。しかも“重量を乗せる”だけじゃなく、それを“完全に制御してる”。だからこそ、威力がそのまま爆発的な衝撃になる。……競技の理屈では説明できませんね」
再び映像がリプレイされる。威嚇で魔物が怯み、次の瞬間には百キロの装備を載せた拳が魔物の胸を粉砕していた。
黒川教授が口を開く。
「結局、彼女の“威嚇”も“打撃”も、既存の理論で説明がつきません。科学的に言えば――“未知のスキル”としか言えないでしょう」
佐伯が最後にぼそりと付け加えた。
「でもひとつだけわかるのは……こんなの、リングに上がったら危険物扱いですよ。味方にいれば百人力。敵に回したら絶望です」
スタジオが一瞬しんとする。
だがすぐに司会が半笑いでまとめた。
「……つまり、最強の救護員? それとも――破壊神?」
画面の隅で流れるネットコメントは、今日も騒がしく更新され続けていた。
《はい、また規格外w》
《救護(物理)はもうジャンル》
《威嚇チート+質量兵器って、どこのラスボス?》
《防御力も攻撃力もタンク性能も盛りすぎィ!》
***
番組映像が公開された翌日。
防衛省の一室では、探索者協会のデータベースを投影したスクリーンを前に、数人の制服姿が腕を組んでいた。
「……名前も顔も全部公開済みか」
「桐嶋莉理香。医師免許持ちで救護課所属。探索者資格も正式登録。経歴は……まるで隠し立てなしだな」
担当官が端末をスクロールし、苦笑混じりに呟く。
「こんなに情報が丸見えの“怪物”が、仮にスパイだとしたら……逆に喜劇だろう」
だが笑いは続かない。
別の幹部が真剣な声で言葉を継ぐ。
「それでも、あの能力は異常だ。我々の立場としては“念のため”マークせざるを得ない。正規所属で協会の監督下にある以上、今は静観だが……」
室内に沈黙が落ちる。
誰もが理解していた。――万一、協会の手を離れたなら、危険な存在になる、と。