第2話 竜と学び舎の日々
彼を初めて認識した日、桐島莉理香は胸の奥に宿る存在へ問いかけた。
「それで、なんて呼んだらいいの?」
しばしの沈黙のあと、低くかすれた声が内側から返ってくる。
『……名前……昔は、確か……“ラー……ギス”……いや、もっと長かったな』
まるで遠い記憶の底を手探りしているような声音だった。だが、完全には思い出せないらしい。
「ラギス? ちょっと言いにくいな。じゃあ――“ラギル”でどう?」
莉理香は、短く呼びやすく、それでいてどこか異世界の響きを残すような音を選んだ。
次の瞬間、胸の奥で小さな熱がぽんと弾ける。
『……近い。音も悪くない』
「じゃあ決まり。今日からラギル」
『……よし、受け入れよう』
推定、竜のラギル。
人の目には見えず、声も莉理香にしか届かない。
それでも確かにここにいて、呼べば応える相棒だった。
朝、目覚ましが鳴ると同時に、胸の奥から声がする。
『その服は寒そうだ』
「今日は教室暖かいから大丈夫」
通学路の並木は芽吹き始め、バス停の前を通る風には花粉が混ざっていた。
『鼻の奥がざらつくな。これは敵か』
「敵じゃない、季節だよ」
ラギルは事故の詳細も、融合した理由も多くは語らない。
ただ、莉理香が生き延びたこと、そしてその結果として共にいることを、当然の事実として受け入れているようだった。
そして莉理香もまた、この奇妙な同居生活を自然に受け入れつつある。
大学の門をくぐり、講義棟の階段を上る。
今日の科目は解剖学――ラギルが一番興味を示す授業だ。
***
午前の臨床解剖学講義。
大きなスライドスクリーンには、心臓の断面図が鮮明に映し出されている。暗い教室の中で、スライドはゆっくりと切り替わり、窓から差し込む春の光が黒板の端を淡く照らしていた。静かな空間に、ペン先の走る音や紙をめくる音が心地よく重なっていく。
『左心室の壁……ずいぶん厚いな、リリカ』
胸の奥でラギルの声が響く。名前を呼ばれると、莉理香は無意識に背筋を伸ばした。
(それは二足歩行で全身に血を送るためだよ)
『なるほど。四足の獣なら、もっと薄くても足りるな』
ラギルは医学や生物学の話になると、やたら呑み込みが早い。血管や神経の走行を一度聞けば覚え、昔見た別の生物の構造と比較しては、自分なりの結論をさらりと口にする。
『もしここを損傷したら、修復にかける力も増やすべきか』
(それは状況によるよ。それに、人間は無闇に臓器を作り直したりしないの)
『効率は悪いな』
(効率の問題じゃなくて、倫理の問題だから)
やりとりの最中、教授の声が教室に響く。
「――では桐嶋、右冠動脈の走行を答えてくれ」
「右房の下行枝から心室前面へ走り、後室間枝に至ります」
的確に答えると、胸の奥でラギルが小さく呟いた。
『昔の呼び方では、“陽脈の西流”だな』
(それ、絶対テストには書けないよ)
教授が次のスライドへ進める間、莉理香は自分のノートに、人間の解剖学用語とラギルが口にした古い呼び名を並べて書き込む。不思議なことに、この二つを一緒に覚えた方が記憶の定着は早かった。
授業が終わると、友人の浅倉がノートを覗き込み、眉をひそめる。
「……その横の変な単語、何?」
「暗号っぽいやつ?」
「ふーん……」
笑ってごまかしながら鞄を肩に掛けると、ラギルの声が胸の奥で続いた。
『面白いな、人間は。形を知れば、直す手順もわかる』
(そう。これは手術や処置のための基礎で、この先はもっと臨床的な細部や応用の話になるよ)
『なら、全部覚えてやろう』
その言い方に、莉理香はふっと笑みをこぼした。
ラギルが本気で言っていることを、彼女はもう疑っていなかった。
***
昼休み、学食のカレーを半分ほど食べ進めたころ、浅倉がトレイを手に向かいへ腰を下ろした。
「そういえば、探索実習で事故にあったんだって?」
「……まあ、ちょっとね」
莉理香が曖昧に笑うと、浅倉は「命あってよかったよ」と心底ほっとした顔をする。
「だったら護身術、覚えたほうがいいんじゃない?」
浅倉が差し出したのは、格闘技サークルの案内だった。道場の写真と「初心者歓迎」の文字が並び、柔らかな笑顔の集合写真まで載っている。
「運動にもなるし、防身にもなるし、何より楽しいよ」
『良いな。……いや、“力の通り道”を作る訓練になる』
胸の奥から響くラギルの声は、以前よりも人間の言葉選びが滑らかになっている。
(力の通り道?)
『ほら、筋肉や骨にも“線”があるだろう? 動きはその線をなぞるように通すと強くなる』
(ああ、運動連鎖ってこと?)
『そうだ、それだ。やっと言葉が出た』
放課後、莉理香は畳の匂いが漂う道場に足を踏み入れた。
道着姿の先輩たちが準備運動をしており、その輪の中に自然に混ざる。ストレッチで筋を伸ばし、軽いシャドーを挟み、やがてミット打ちへ。
初めて手にしたグローブの感触に、掌がじんわりと汗ばむ。
「肩の力を抜いて、腰から打ち込む!」
先輩がミットを構えた瞬間、胸の奥のラギルが囁く。
『足元から力を拾え。骨と筋の“経路”をまっすぐ通せ』
指示どおり、地面を押すように踏み込み、腰をひねって拳を送る。
バンッ――。
乾いた衝撃音と同時に、ミットを持つ先輩の足が半歩下がった。一瞬、先輩の眉が上がる。
「……おいおい、初心者だよな?」
「え、すみません……」
『まだ半分も出してないぞ、リリカ』
(いや、これ以上出したら危ないでしょ!)
試しにもう一撃。力を抜くつもりなのに、意識を向けるだけで自然と底から湧き上がる力が拳に集まる。
先輩の腕がわずかに揺れ、その目に真剣さが宿った。
「……うん、少し手加減覚えたほうがいいな、君」
道場に笑いが広がる。
『なぜ減らす必要がある。多い方が勝つだろう?』
(だからそれじゃ稽古にならないの!)
この日、莉理香は意識次第で自分の身体能力を大きく跳ね上げられること、そして手加減の難しさを同時に知ることになった。
***
週末の夕方、キャンパスの外れにある使われていない資材置き場。
フェンスの影になったスペースで、莉理香は人目を避け、こっそりと動きの練習をしていた。
『手首の角度が甘い。経路が流れない』
「その“経路”って……筋肉の動きのこと?」
ラギルは少し間を置き、低く応える。
『いや、もっと根源だ。力や流れを束ねる、見えない道だ』
その説明は、解剖学で学ぶ運動連鎖よりもはるかに広く、曖昧で、しかし確かな実感を伴っていた。
莉理香は首を傾げる。
「……やっぱりよくわからない」
『やってみれば感覚がつかめる。構えろ。今日は“竜爪”を試す』
「竜爪って……危なくない?」
『危ない方が学びは早い』
真剣そのものの声音に押され、莉理香は深く息を吸い、右手を前へ出す。
指先、そのさらに奥へと意識を沈めると、皮膚の下で何かが硬く、鋭く形を変えていく感覚が走った。
爪ではない。透明な刃のような“何か”が、指の延長に生まれた。
『そこだ。その経路を保て』
「だから経路ってなに!?」
『説明に時間をかけるより、使った方が早い』
半ば呆れつつも、近くに転がっていた使い古しの鉄パイプへと手を伸ばす。
次の瞬間――
シュッ。
抵抗らしい抵抗もなく、パイプがスパリと切れて地面に転がった。
あまりにも滑らかな断面に、思わず息を飲む。
『うむ、よく通った』
「よく通ったじゃないよ!? こんなの持ち歩いてるの私!?」
『誇れ』
「誇れない!」
慌ててパイプを拾い直すと、ラギルが次の課題を告げる。
『次は“竜鱗”だ。刃を通さぬ皮』
「防御系ってこと?」
『そうだ。経路を締め、外へ向けろ』
言われるまま深呼吸し、皮膚感覚を全身に広げる。
じわじわと体表が硬く厚く変わり、表面が熱を帯びていく。
見えない鎧が身体を包み込むような感覚――これが竜鱗か。
「……なんか、服の下がギシギシしてるんだけど」
『それで良い。今なら小刀程度は弾ける』
試しに置き場の端に立てかけられていた薄い鉄板に肩をぶつけると、カンッと高い音が鳴り、鉄板がへこんだ。
「わ、痛くない……!」
『当然だ』
感動する莉理香に、ラギルが静かに言い添える。
『だが気を抜けば、すぐ薄くなる。戦いでは保ち続けろ』
「なかなかきついことを」
竜爪と竜鱗――二つの基礎武技を手に入れたことで、莉理香はますます普通の医学生から遠ざかっていく気がした。
女性ひとりでも夜道を歩く足取りに迷いがなくなったのは、前向きに捉えておくことにした。
***
格闘技サークルに入って数週間。
初めての交流会――要するに飲み会の日がやってきた。
居酒屋の暖簾をくぐると、油と醤油の香りが鼻をくすぐる。
カウンターの上には大皿の枝豆、揚げたての唐揚げ、甘いソースのかかったたこ焼き。
そして、ジョッキのビールが勢いよく注がれていた。
『……これは、良い匂いだな』
(食べ物じゃなくて、お酒の方?)
『もちろんだ。昔は蜜酒を樽で……』
(樽でって、あなた絶対飲み過ぎてたでしょ)
先輩が「ほら新人、乾杯だ!」とジョッキを渡してくる。
泡の白が、黄金色の液面でしゅわしゅわと弾けた。
「じゃあ――かんぱーい!」
グラスを合わせ、一口。
冷たさと苦みが舌に広がった瞬間、胸の奥でラギルが露骨にテンションを上げた。
『おおっ、これは! 火ではないのに体が温まる!』
(ちょっと、声がでかい!)
グラスを傾けるたびに、ラギルがご機嫌になっていく。
表情は外から見れば普通なのに、内側は竜の笑い声でうるさい。
「桐嶋、強いねぇ~」
先輩が笑う。
「え、あ、まあ……」
(やめてラギル、勝手に喉通して飲まないで!)
『お前の器にあるものは我の器のものだ』
(勝手な理屈つけない!)
唐揚げの皿をつついていると、ラギルは妙に真剣な声を出した。
『酒の席は良いな。笑って食い、飲み、傷を忘れる』
(そういう見方するの、なんか渋いね)
『次は樽で頼む』
(絶対無理!)
周囲の笑い声とグラスの音の中で、私と竜の酒宴は密かに続いていた。