第17話 どうしても欲しい装備があるんです
朝の救護課。
出勤して席に荷物を置いた莉理香は、ひとつ息を整えると、妙に真剣な表情で課長に声をかけた。
「……あの、最近、タウンティングの練習をしてまして」
高村の声に半分呆れと半分の驚きが混じる。
「……タウンティング?」
その場の空気が一瞬、凍った。
水筒を手にしていた三浦が、ぱちりと目を瞬く。
「ちょっと待って。あなた救護枠でしょ?なんでまた本格的なタンク技術を?」
山崎は吹き出しかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。
「本気か? お前。前衛に出ることがあるとはいっても支援職がそんなこと練習するのか?」
莉理香はきまり悪そうに、ほんの少し俯いてから頭を下げる。
「えっと……私、前に出てもある程度は耐えられるって言われてますし。実際に前衛の隣に立つこともあるので……挑発の基本は身につけておいた方がいいかと思いまして」
言葉に嘘はなかった。だが周囲の隊員たちは顔を見合わせ、半ば困惑の色を浮かべる。
普通なら「かわいい努力」で済むはずの話。
――だが、この新人は模擬戦で山崎を投げ飛ばし、素手で甲殻種を砕いた女だ。
(……やろうと思えば、本当にやれるのか?)
誰も口には出さないが、そんな疑念が一同の胸をよぎった。
「ただ……」
莉理香はさらに続ける。
「タンクとしてはやっぱり不安があります。普通のセオリーだと、壁や地面に押しつけられたら危険ですよね。でも、私の場合は逆で……壁に挟まれていた方が踏ん張りやすいんです」
「逆?」
三浦が眉を寄せる。
「はい。支えがないと、その場に踏みとどまるのが難しくて。体重が軽いせいかもしれません……。でも、壁や床を背負うと安定して攻撃を受けられるんです」
高村は腕を組み、しばし黙して見つめた。
「……普通なら、あり得ん話だな。だが、お前なら成り立つのかもしれん」
その言葉に、山崎が苦笑しつつ肩を竦める。
「いやまあ……俺も模擬戦で投げられたとき、正直わけわからなかったしな」
小さな笑いが漏れる。けれど「こいつはやっぱり普通じゃない」という空気だけは拭えなかった。
この午前中のやり取りのあと――救護課の空気には、微妙なざわめきが残った。
「救護枠なのにタウンティングを練習している」新人。誰も口には出さないが、各自の胸の中に同じ感想が浮かんでいた。
(……やっぱり普通じゃないな、あの子)
そんな視線を背中に受けながら、莉理香は黙々と記録を整理し、昼を過ごした。
だが午後になると、彼女は一人で装備課へと向かっていた。
***
協会本部・装備課。
部屋には図面や素材のサンプルが並び、鉄と油の匂いが漂っている。
カウンターの向こうで図面を広げていた技官に、莉理香は遠慮がちに声をかけた。
「……あの、特注でお願いしたいものがありまして」
「どんなものです?」
技官が顔を上げる。眼鏡越しの視線は事務的だったが、莉理香の次の言葉で一変する。
「腕当てと脛当て、それから……できれば胴当ても。できる限り重くしてほしいんです」
技官は一瞬、耳を疑ったように眉をひそめた。
「重く? 普通は逆では……軽くて丈夫な方が動きやすいでしょうに」
莉理香は小さく頷き、真剣な眼差しを返す。
「はい。でも、私の場合は重さがあった方が安定するので」
その一言に、カウンターの奥で作業していた職員たちがぽかんと口を開けた。
隣にいた同僚が「ちょっと待て」と呟き、図面の裏にさらさらと計算を書き込む。
「タングステン鋼で作ったら……腕当て片方で七キロ、両腕で十四。脛当ては片脚十キロで二十。胴当ては……胸と背中合わせて九十超えるぞ」
静まり返る室内。別の技官が半ば呆然と呟いた。
「合計で……百二十キロ超ですかね」
「そんなもんつけて歩ける奴いるか!」
装備課の面々が声を揃えて突っ込む。
だが当の莉理香は真顔のまま、小さく頷いた。
「……多分いけます」
しん――と、部屋の空気が一気に張り詰める。
まるで冗談だと誰かが笑ってくれるのを待ったが、彼女の瞳は冗談を言っている人間のものではなかった。
「……本気ですか?」
「はい」
真摯な声に、技官たちは絶句するしかなかった。
莉理香はペンを取り、特注装備の依頼書に自分の名前を書き込む。
***
数日後。
協会装備課の訓練場に、ずらりと並べられたのは無骨な鉄製の試作重りだった。
鈍い灰色の表面には、まだ加工跡が残っている。腕や脛に固定できるベルト付きのウエイトと、胴に巻きつける分厚い鉄板。総重量は六〇キロを超えるという。
「……これで動けるなら、タングステンでも検討しますよ」
呆れ半分の声を漏らしたのは、装備課の技官だ。
彼の隣にいた同僚も「正気か?」といった視線を向けている。
莉理香は静かに頷くと、一つひとつ重りを装着していった。
カチリ、と最後のバックルを締める音が訓練場に響いた瞬間――彼女は迷いなく立ち上がり、軽く腕を回し、足を踏み込んだ。
「……どうですか?」
まるで何もつけていないかのような軽やかさだった。
むしろ、その動きは通常よりもしなやかに見える。見守っていた隊員たちは、一瞬、息を呑んだ。
「……動きが現実感なくて気持ち悪いな」
思わず口にしたのは山崎だ。腕っぷし自慢の彼でさえ、目の前の光景を理解できずにいた。
「いや、重り付けたら普通は膝にくるんだよ。なんでそんな軽やかにスキップしてんだよ」
莉理香は少しだけ照れたように笑った。
「身体の使い方は、合気道で慣れてますから」
その答えに、周囲はさらにざわついた。
彼女にとっては当然でも、他の隊員から見れば“怪物じみた自然体”にしか見えない。
そのとき、別の隊員が堪えきれずに手を挙げた。
「……俺もちょっと試してみたい!」
山崎だ。豪放磊落を絵に描いたような男で、こういう場面では黙っていられない。
腕まくりをしながら同じ重りを装着し、立ち上がる。
「ふんっ……!」
動ける。確かに動ける。
体力自慢らしく足を踏み込み、腕を振り、素早い動きを繰り出す。
「ほら、俺だって――」
言いかけたが、その額には汗が滲み、息はわずかに乱れている。
腕と脚が鉛のように重く、瞬発力は明らかに削がれていた。
「……まぁ、これくらいの装備は背負ったことあるしな」
強がって笑う山崎。だが声の端には悔しさが滲む。
「でも機敏な動きは無理だ。投げ技や崩しはできても、回避は鈍るな」
その横で――莉理香は涼しい顔で同じ動作を繰り返していた。
重りをつけているはずなのに、動きにブレも遅れもない。むしろ重さを推進力に変えているかのように。
(……そうか。重さって、制限になるだけじゃなくて、殴ったり踏み込んだりする時には“加速する質量”になるんだ)
心の中でそう結論づけ、莉理香は小さく息をついた。
「これ、攻撃にも使えそうですね」
真面目な声で告げられたその一言に、装備課員たちは一斉に顔をしかめた。
「……いや、救護枠が何を言ってるんだ」
「攻撃に使うって……六〇キロの重りだぞ?」
その場にいた全員が頭を抱えた。
***
試作重りを付けたまま、莉理香は格闘訓練室へと足を踏み入れた。
天井から吊られたサンドバッグが、重厚な鎖に揺れている。金属と革の混じった匂いが鼻をかすめ、部屋の空気に緊張感を添えていた。
「じゃあ……まずは三分間、連打してみましょうか」
三浦がストップウォッチを手に構え、慎重に合図を送る。
莉理香は無言で頷くと、深く息を吸い込み、両足を床に沈めるように構えた。
そして――
「はっ!」
拳が閃く。
鋭く、正確に。リズムを崩さぬまま、サンドバッグを叩き続ける。
最初に異変に気付いたのは、見守っていた山崎だった。
「……おい、威力上がってねえか?」
確かに。打撃の衝撃音は以前よりも明らかに重く、深く響いていた。
そう。理由は単純だった。
腕を振る速度そのものは以前と変わっていない。
だが新たに上乗せした鉄の重みにより、莉理香の振るう拳の質量が増したのだ。
同じ速度でも質量が増えれば、比例して運動エネルギーが大きくなる。
結果として、莉理香の打撃の威力は人外の領域まで跳ね上がっていた。
ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ……!
打撃音が訓練室に反響するたび、床まで震える。
「ちょっと待って……いままで腕が軽すぎて威力が出てなかったってこと?」
三浦が額に手を当て、半ば呆れた声を漏らす。
莉理香は答えない。ただ無心で、流れるように拳を繰り出し続ける。
速度は一切落ちない。呼吸すら乱れていない。
しかし――残り一分を切る前。
悲鳴のような金属音が訓練室を切り裂いた。
――ガキィン!
鎖が耐え切れずに弾け飛び、サンドバッグが宙を舞った。
七〇キロの革袋が弾丸のように壁に激突し、ずしんと重い音を立てて床に転がる。
室内が静まり返る。
ストップウォッチの針は、まだ二分に届いていなかった。
莉理香は動きを止め、壊れたサンドバッグに視線を落とすと、静かに言った。
「……三分は無理ですね」
まるで実験が途中で終わったことを惜しむかのような口ぶりだった。汗ひとつかかぬ顔で淡々と告げるその姿に、見守っていた全員の背筋がぞっと震える。
「いやいやいや……サンドバッグが壊れる方が先って、どういうことだよ」
山崎が引きつった顔で叫ぶ。
三浦は額を押さえ、重い溜息を吐き出した。
すると後ろの隊員が、ぽつりとぼやく。
「……なあ、これ訓練用サンドバッグの在庫、足りなくならないか?」
「いやむしろ、サンドバッグが犠牲になる前提で訓練計画立てなきゃだめじゃない?」
「……協会の経費、また増えるな」
冗談混じりの嘆きが飛び交い、室内に小さな笑いが広がった。
その輪の中心で、莉理香だけが真剣な顔で拳を握り直していた。