第16話 竜の咆哮
風と熱の制御を試したあとも、莉理香の胸は妙な高揚で落ち着かなかった。
掌の上で生まれる熱球――その力を実感したばかりだからこそ、今度は別の不安が頭をもたげてくる。
「でも……私が一番やらなきゃいけないのは、力で魔物を焼くことじゃない。
みんなを守るために、敵の攻撃を引きつけること……!」
その瞬間、胸の奥の竜核が低く震えた。
『莉理香。思い出すがいい――竜には、己の存在を誇示する声がある』
ラギルの声に、莉理香は布団の上で膝を抱え込むようにして問う。
「ねぇラギル。“竜の咆哮”って、具体的にどういうものなの?
この前、あなたが少し言ってたけど……もっと詳しく知りたい」
しばし沈黙が落ちる。やがて、古の竜がゆっくりと答えを紡いだ。
『咆哮とは、ただ大声を出すことではない。
魂を震わせ、敵の魂に触れる術……存在そのものを叩きつける叫びだ』
「魂に……触れる?」
『うむ。人の耳が音を聞くように、魔物は魂で威を感じ取る。
竜の咆哮は肉体を揺らす音ではなく、相手の内奥に恐怖を刻む衝撃だ。
たとえ耳を塞いでも無駄だ。魂は抗えん』
説明を聞くにつれ、莉理香の背筋に冷たい震えが走った。
けれど同時に、その力の必要性を強く感じる。
「……なるほど。だから“挑発以上の効力”があるんだね」
『そうだ。雄叫びは耳を震わせるにすぎん。だが咆哮は魂を縛りつける。
魔物の意識を逸らさせず、こちらに釘付けにする――仲間を守るためにこそ用いる術だ』
ラギルの声は誇らしげで、同時にどこか試すようでもあった。
さらに彼は低く付け加える。
『我ら竜は、戦の前に互いの咆哮をぶつけ合ったものだ。
牙を交える前に、魂の威を試し合う……それが竜の誇りだった』
古の記憶を語る声音に、莉理香は思わず唇を噛む。
咆哮とは、竜にとっては「支配と誇示」の象徴。だが――。
(……私は、脅すためじゃなく、守るために使いたい)
莉理香の胸に、ひとつの決意が芽生えた。
だがすぐに、同時に心配も浮かぶ。
これほど得体の知れない力を、人前で試すわけにはいかない。
何が起きるかわからない以上、他人を巻き込むわけにはいかないのだ。
「……わかった。じゃあ、やってみる。けど、最初は人のいないところで」
莉理香は立ち上がり、カーテンを引き、窓を閉め切る。
ベッドの上に正座し、スマホを取り出してメモを開いた。
――ここからが、彼女の「竜の咆哮」訓練の始まりだった。
「……えっと、咆哮の練習って、どうすればいいんだろ」
自分で口にしてみて、思わず眉をひそめる。練習法なんて、どこの教本にも載っていない。
仕方なく、ひとまず思いつくまま、口を大きく開いた。
「が、がおーっ!」
――しん。
部屋の空気は空しく震え、響いたのは自分の情けない声だけ。喉が少し痛むのを感じて、顔を赤らめた。
『……莉理香。それは幼子の遊び声だ』
胸の奥からラギルの低い声が響く。その声音に、羞恥が一気に込み上げる。
「う、うるさいな! やってみないとわからないでしょ!」
頬を膨らませて言い返すが、当の本人もわかっていた。これでは魔物どころか猫一匹も振り向かない。
『咆哮とは声を張ることではない。竜核を鳴らし、魂を揺らすことだ。声はその余波にすぎぬ』
「……魂を、鳴らす……?」
莉理香は深呼吸し、胸の奥――竜核に意識を向ける。鼓動が少し速くなるのを感じながら、息を溜めて声を発した。
「がおっ……!」
今度は、机の上のペットボトルがカタリと揺れた。
「……動いた!?」
『ふむ、ようやく“入り口”に立ったな』
ラギルの声音には、わずかな満足が滲んでいた。莉理香は目を丸くし、胸を高鳴らせながら喉を整える。
「はぁああああ——っ!」
今度は思い切り声を張り上げた。だが結果は空振り。喉の奥がひりつくだけで、部屋の空気はほとんど揺れない。
「っく……これじゃ意味ない……?」
『そうだ。音量は枝葉にすぎぬ。大切なのは声ではなく――竜核を震わせることだ』
ラギルの指摘に、莉理香は息を整える。
胸いっぱいに吸い込んだ空気を竜核に乗せ、魂そのものを震わせるように――。
「はぁあああああ——っ!」
その瞬間、声の奥で低いうねりが生まれた。
――グゥゥゥゥ……ッ!
大太鼓を叩かれたかのように、空気がビリビリと震える。机のメモがふわりと浮き、窓ガラスがカタカタと揺れた。
「な、なにこれ……お腹に響いてる……!」
人間の少女が必死に叫ぶ声は可愛らしさすらあった。だがその奥で竜核が奏でる重低音が重なると、途端に獣じみた威圧へと変わる。
――ドォン……ッ!
花火が腹に響くときの圧迫感。それが音ではなく“咆哮”として、莉理香の体を通じ、部屋全体を震わせていた。
『そうだ……それが竜の声。音を張るな。魂を鳴らせ』
ラギルの言葉に、莉理香は震える唇で笑みを浮かべる。正直、女性の「掛け声」にしか聞こえない。
けれど確かに――空気が応え始めていた。
机の本が床に落ち、棚の小物ががちゃがちゃと倒れる。
「……さすがに、これは……近所迷惑すぎる……」
青ざめた莉理香は慌てて窓の外を確認する。深夜にこんな轟音を鳴らせば、通報されてもおかしくない。
『ふむ……まだ制御が未熟だからな』
「だからって、練習止めるのもなぁ……。……よし」
スマホを手に取り、検索窓に文字を打ち込む。
――「タンク タウント 技術」
画面にはオンラインゲームの攻略サイトや、探索者フォーラムの書き込みが並んだ。
「えっと……“前に出て、視線を集める”“盾を鳴らす”“挑発的なジェスチャーをする”……」
読み上げながら、思わず苦笑する。魔物に通じるかは怪しいが、人間社会ではむしろこちらの方が現実的だ。
『咆哮は必殺の切り札とせよ。普段は立ち回りと気迫で、十分に敵を引きつけられる』
「……そうだね。無駄に騒音出すよりマシだし」
莉理香は立ち上がり、鏡の前で試しに構えを取った。
顎を引き、肩を広げ、鋭く視線を突き刺す。
「はぁぁぁぁ」
小さな掛け声。だが気迫と姿勢を添えるだけで、映る自分がまるで別人のように見えた。
「……よし、まずはこっちから覚えよっと」
咆哮の余韻を胸に残しながら――莉理香は“竜娘”としてではなく、一人の探索者としてのタンク技術を磨く練習を始めた。
新しく覚えた技術をどう使おうか。
救護課の訓練で仲間を守るとき? アルバイトの現場で魔物を引きつけるとき?
きっとその場面で今日の稽古は役に立つだろう。
『よい計画だ、莉理香。竜の咆哮は、仲間と共にあってこそ真価を放つ』
胸の奥のラギルが静かに告げる。
莉理香は鏡に映る自分へ、少し照れながらも笑みを浮かべた。
「……うん。次は実戦の中で試してみよう」
そう呟いたとき、彼女の胸は不思議な爽快感でいっぱいだった。
――ただし。
このときの彼女はまだ気づいていない。
救護枠で回復スキルを持ち、格闘で前線を張れ、竜鱗の防御に加えて“竜の咆哮”でヘイト管理までできる。
しかも練習中とはいえ、範囲焼却兵器にもなりそうな熱球まで扱えるようになってきている――。
要するに、回復も攻撃も防御も挑発もぜんぶ一人でできる、どう考えても異常な万能タンクであることを。
……本人だけが、まだそれをちっとも自覚していなかった。
その事実を知る者がいたなら、きっとこう言ったに違いない。
「もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな」




