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第14話 莉理香にできること

 救護課の訓練場。

 昼休憩に入ったばかりで、隊員たちは水筒を片手に笑い合い、雑談に花を咲かせていた。

 その輪の外で、莉理香はひとりベンチに腰を下ろし、膝の上にノートを広げてペンを走らせていた。


 ――今の自分にできることを整理しよう。


 救護課に来てから、模擬戦や体力テストで力を示してしまう場面が続いた。

 意図して見せつけたわけではない。ただ救護として役に立ちたい、その思いで動いただけだ。

 けれど周囲は「ただの救護役」ではなく「前衛もこなせる存在」として莉理香を見始めている。


 だからこそ、考え直さなければならなかった。


 自分は何者なのか。

 そして、この場で何を果たせるのか。


 スマホのメモ帳の最初のページに書きとめながら考えることは、単純で、けれど当たり前すぎて忘れがちなこと。


 まず第一に、普通の医師としての役割。


 止血、縫合、心肺蘇生。

 病棟と違い薬も器具も限られているが、人を救う基本は変わらない。

 探索者協会の救護員であっても、医師としての視点は必ず活かせる。


 仲間の体調を見抜き、異変を早期に察知し、命を救う判断を迷わず下す冷静さ。

 ――それこそが彼女の原点。力に頼る前に思い出すべきもの。


***


 掌を見下ろしながら、莉理香は思う。

(竜核を介した回復の力も……ただ闇雲に癒やすんじゃなくて、解剖学を理解すればもっと的確に使えるはず)


 血管、神経、筋繊維。

 どの層にどうアプローチすれば、損傷が早く閉じるのか。

 医学書で学んだ知識が、次々と頭をよぎる。


『良いぞ、莉理香! 竜の癒やしは本来、ただ“命の流れ”を繋ぎとめるだけ。

 だが人の知識で細部を理解すれば、治癒の力は格段に鋭くなる!』


 耳に響くラギルの声は誇らしげで、どこか楽しげでもあった。


「……でも」


 小さく息を吐きながら言葉がこぼれる。


「私は、自分が傷つかない。だから練習ができないんだ。……怪我をした人で“試す”しかなくて……」


 胸に小さな痛みが走る。

 治したいのに、その過程で“実験”のように人を扱うことになるのは、あまりに心苦しい。


『ふむ……なるほど。確かに竜にはそのような遠慮はなかった。

 獲物の肉を裂き、その場で癒やすことすらあったが……人の心ではそうもいかぬな』


 ラギルは愉快そうに笑い、それでも優しさをにじませる。

『だが案ずるな。戦場はすぐに学びの場となる。必ずそなたは見ることになるぞ――癒やしが必要な局面を。

 そのときにこそ、そなたの知恵と心が試されるのだ』


 莉理香は静かに息を吐いた。

 竜の好奇心と、人の倫理観。

 どちらも、自分の中に確かに存在している。


(……できることなら、誰も傷つけずに学びたい。けど、それはきっと甘えなんだろうな)


 莉理香は首を振り、気持ちを切り替えた。


 訓練の場面を思い返す。

 ――守るために前に出る。

 それが彼女の役割だった。


 けれど、仲間を守り切るには、敵の攻撃を確実に自分に向けさせなければならない。

 単体の魔物ならまだしも、群れに襲われた時――後衛に一体でも抜けられたら致命的だ。

 その冷や汗を、彼女は何度も味わってきた。


「……どうすれば、もっと確実に注意を引けるんだろう」


 既存のスキルには、雄叫びや威嚇といったタウンティング技術がある。

 だが、それは人間が考案した「声を大きく張り上げるだけ」のものだ。

 竜核を宿す自分には――もっと別の手段があるのではないか。


『“竜の咆哮”を使えば良い』


 ラギルの声が、即答のように響いた。


『”竜の咆哮”は、ただの声ではない。

 相手の魂そのものを震わせる衝撃だ。

 恐怖を刻み、意識を己に縛りつける。眼の前に立つそなたを、決して無視できなくなる』


 その言葉に、莉理香の胸はどくん、と強く鳴った。


 これまで咆哮は、ただの威嚇だと思っていた。

 けれど竜の視点からすれば、それは立派な戦術――敵の注意を縛り、仲間を守るための術。


 彼女の瞳がわずかに揺れる。

 仲間の盾となるために、自らの声を張り上げる。

 その瞬間、戦場の流れすら変えられる。


 ――けれど。


「……えっ、私が……咆哮を上げるの?」


 思わずこぼれたその声は、困惑と恥じらい、そしてほんの少しの高揚を含んでいた。


 ラギルが珍しくからかうような笑い声をあげる。


 まったく……と心の中で小さく息を吐きながらも、莉理香は結局のところ一番気になっていることへ思考を戻していた。


 竜爪や竜鱗とは違い、ラギルはそれを「スキル」ではなく――ただ一言「使える」と告げた。


 [風を扱う力]。


 あの夜、布団の中で耳にした声が、今も頭から離れない。


 ――風だけはまだ動かせる。


 最初は荒唐無稽に思えた。

 だが、実戦の最中――結界を展開したとき、確かに“流れ”が走る感覚を覚えた。

 まるで風が結界に纏い、仲間を守るかのように。


(……あれは、偶然なんかじゃない。私が“動かした”んだ)


 胸の奥で、竜核が小さく脈打つ。

 半信半疑のまま、莉理香はそっと手のひらを前に差し出した。


「……来い」


 声にならない声で念じる。

 空気が揺れた気がした。最初は気のせいだと思った。

 けれど、次の瞬間――指先をかすめるように、確かに柔らかな風が生まれた。


 書類の端がぱらりとめくれ、前髪がふわりと揺れる。


「……っ!」


 莉理香の瞳が大きく開かれた。

 わずか一瞬、わずかな力。それでも――自分の意思で起こした風だった。


 胸の奥に熱が広がる。

 恐れと同時に、どうしようもない高揚感が込み上げてきていた。


 医師としての知識が自然と顔を出す。

 風=空気の流れ。空気は圧力差で動く。

 もし局所的に空気を操れるなら――煙を押し返すこともできる。

 火災や瓦礫現場で視界を確保できれば、それだけで救助の生存率は大きく変わる。


「……待って。もし酸素を集められたら?」


 ふと口に出してしまった。

 風を操り、酸素を一点に集中させる。

 それが呼吸を助ける方向に働くかもしれないし、逆に炎を勢いづける危険にもなる。

 だが、方向を制御できれば――火の広がりを抑え、逆に酸素濃度を調整して患者を助けることすら可能ではないか。


『莉理香。風はただの空気の移動ではない』


 胸の奥で竜核が震え、ラギルの声が低く響いた。


『風は周囲から力を奪い、動きを与える術だ。熱もまたその一部。

 奪った力をどこに集めるか――それがお前の裁量だ』


「熱を……集める?」


 思わず呟いた瞬間、ぞくりと背筋を冷たいものが撫でた。

 風を操る先に、熱をも動かす可能性がある――それは危険な応用につながる一方で、凍傷や火傷から人を救う手立てにもなり得る。


 そこで、ふと別の考えが閃いた。


(……待って。熱って……つまり分子の運動のことじゃない?)


 血液、呼吸、細胞の働き――医師として学んだ知識が脳裏で結びついていく。

 分子が速く動けば温度は上がる。遅くなれば冷える。

 空気が流れるのも、分子の運動の差による圧力差が原因だ。


(ってことは……風を動かすのも、熱を動かすのも、根っこは同じことをしてるんじゃ……?)


 驚きと興奮で胸が高鳴った。

 だが次の瞬間、ラギルの声が戸惑いを帯びる。


『……む? 分子? 運動? 何を言っておる、莉理香?』


「え……あ、いや……!」


 思わず口ごもる。

 ラギルにとっては“熱は力の一部”という直感的な表現でしかないのだろう。

 けれど、自分にはそれが科学としての現象と重なって見えた。


(……これ、ちゃんと調べなきゃ……!)


 息をのみ、莉理香は決意を固める。

 医学書だけじゃ足りない。物理学や化学の知識も引っ張り出して、竜の力の正体を紐解かなければ。

 ――竜の言葉を、科学の言葉で理解するために。


 気づけば、膝の上に置いたメモ帳の数ページが、びっしりと埋まっていた。


 ただの力任せではない。

 医師として、救護員として、そして竜の化身として――少しずつ、自分の進むべき道が形を帯びていく。


 莉理香は深く小さく息を吐き、胸に込み上げる熱を押しとどめるように目を閉じた。

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