第13話 刻みこむ恐怖
翌日、昼休みを少し延長して、四人は会社近くの落ち着いた喫茶店に集まった。
窓際のテーブルに並ぶカップから、まだ立ちのぼる湯気が柔らかく漂っている。
最初に口を開いたのは紗季だった。
「……昨日はありがとう。ああやって言えたの、初めてで」
その声は少し震えていたが、背筋は伸びていた。
麻衣が頷く。
「改めて説明した方がいいよね。紗季が夜道でつけられてるのは、私も一度確認した。足音と香水の匂い……本当に同じ人だと思う」
彩花も資料のように整えたスマホを差し出した。
「時系列をメモしてある。日付と場所、時間も全部。スクショも保存済み」
莉理香は受け取り、目を通しながら小さく頷いた。
「……やっぱり三回以上。完全に狙ってるね」
重たい沈黙が落ちる。
麻衣が深呼吸して言った。
「警察に相談したけど、“実害が出ないと動けない”って……。だから私たちで守るしかない。でも本当は、莉理香に危ないことを頼むなんてしたくなくて」
「そう。正直に言うと、昨日まで言い出せなかった」
彩花が苦い笑みを浮かべる。
「でも、紗季を一人で帰らせるなんてもう無理だから」
紗季は唇を噛みしめ、視線を落とした。
「……私のせいで、ごめん」
「謝るのは違うよ」
莉理香は静かに首を振った。
「大事なのは“どうやって止めるか”だから」
三人の視線が集まる。莉理香は、迷わず続けた。
「正直に言う。私がやるのは護身術の指導だけじゃない。――直接、相手と対峙する」
麻衣がはっと息をのむ。
「ちょ、ちょっと待って。それは危ないって!」
彩花も同調する。
「相手は男だよ? 体格差だってあるし……」
「そんなことさせられない」
紗季は慌てて首を振った。
莉理香は小さく溜息を吐き、スマホを取り出した。
「……見て」
画面には、訓練室の映像が映し出される。
屈強な男性隊員が突進する――次の瞬間、宙を舞い、床に叩きつけられていた。
続けて二人、三人。掛け声もなく、ただ淡々と、一方的に。
小柄な女性が力で圧倒し続ける光景に、三人は言葉を失った。
「……なにこれ」
麻衣が呟く。
「もう別次元……」
彩花の声は震えていた。
紗季は蒼ざめた顔で固まっている。
莉理香は動画を閉じ、苦笑いを浮かべた。
「だから言いたかったの。私が暴力で負ける心配はない。……でも、今回は殴ったり壊したりはしない」
「じゃあ、どうするの?」
麻衣が問う。
「説得する。二度と紗季に近づけないように」
三人が同時に首をかしげる。
「説得で……変わるような状況じゃないでしょ」
彩花が率直に言った。
莉理香はゆっくり息を吸い、低く告げた。
「人間を縛るのは、恐怖なんだよ」
その言葉に、空気が一瞬止まった。
ラギルの声が胸の奥で重なった。
『よいぞ、莉理香。恐怖は人の行動を縛る。痛みより深く、長く残る』
莉理香は三人をまっすぐに見据える。
「私は恐怖を刻む。壊さず、でも確実に。――だから、心配しなくていい」
三人は言葉を失ったまま見つめ返す。
理解しきれないまま、それでも莉理香の瞳の奥に揺るぎない決意を見て、何も言えなくなっていた。
テーブルに置かれたカップの氷が、からん、と小さく音を立てた。
**
夜の住宅街。
莉理香は紗季の横を歩いていた。足元に伸びる影が二人分、街灯に揺れて重なる。
この数日、毎晩のように彼女を送り届けながら気配を探り続け――そして今夜、ついに網にかかった。
(……いる。二十数歩、後ろ。呼吸が浅い。右足に体重をかける癖――あの時と同じ)
先日の飲み会の帰りにもいた気配。間違いない。
「紗季、少しだけ遠回りしようか」
気取られないように微笑み、自然に歩調を変える。
角を二つ曲がった瞬間、莉理香はぴたりと立ち止まった。
背後の足音も止まる。
振り返らずに、静かに言った。
「……あなた、この前もいたよね」
闇に潜んだ影がびくりと揺れた。
次の瞬間。
莉理香の身体は、風を切って消えたように見えた。
気づけば、男のすぐ目の前――その手首を片手で捕らえていた。
「っ……!」
男の顔が引きつる。
莉理香は片手だけで男の身体を持ち上げる。
足が宙に浮き、抵抗しようとしても微動だにできない。
「暴れても無駄だよ。私の方が、圧倒的に強いから」
もう片方の手を街路樹に伸ばす。
ごつごつとした幹に指をそっと当てる――次の瞬間、ずぶり、と音を立てて穴が穿たれた。
樹液がにじみ出す。
男の喉がひゅっと鳴る。
人間の力であり得ない光景が、目の前で起きていた。
「わかるよね」
莉理香は微笑むと、その“穴を開けた指”を男の頬に撫でるように這わせた。
「この手で、あなたに触れている。……次に何ができるか、想像できる?」
男の全身が痙攣するように震えた。呼吸も声も喉に貼りついて出てこない。
莉理香は片手で男を支えながら、もう一方でスマホを掲げる。
録画の赤い点が静かに灯る。
「記録は残る。映像も、音も、あなたの顔も」
囁きに近い声が、耳元に鋭く突き刺さった。
「二度と紗季に近づかないこと。住居、職場、通勤路、すべてだ。次に一歩でも踏み込めば、この映像は警察と弁護士に届く」
男の瞳に、抵抗の色が完全に消える。
恐怖に縛られた理解だけが残った。
莉理香はそっと彼を地面に下ろす。
だが同時に指先を首筋へ滑らせる。撫でるように優しく――しかし先ほど木に穴を穿った指だ。
「想像して。夜道で角を曲がるたびに冷たい視線を感じる。電車でふと見上げたとき、遠くに私がいる気配。門灯が点く音が、やけに大きく聞こえる帰り道。……それが、これからのあなたの生活になる」
声は淡々としていた。怒号でも脅迫でもない。
だが男の背筋を凍らせるには十分すぎる。
「帰りなさい。今日は壊さない。恐怖と記録だけが残る」
男は答えられず、ただ小刻みに頷いた。
そしてよろめきながら踵を返し、夜の闇へ消えていく。
走らない。走れば追われる――そう本能が叫んでいたから。
その背が完全に消えるまで、莉理香は録画を続けた。
やがて停止ボタンを押し、静かに息を吐く。
『刻んだな』
(うん。恐怖で縛った。二度と紗季には触れさせない)
振り返ると、少し離れた場所に紗季が立ち尽くしていた。
不安と涙が入り混じる瞳。
莉理香は穏やかに微笑みかける。
「……もう大丈夫だよ。帰ろう」
そう言って差し伸べた手は、先ほど街路樹に穴を開けたものと同じだった。
だが紗季は迷わず、その手を握り返した。
***
――走らない。走ったら、追われる。
だが足は震え、歩幅は崩れる。呼吸が浅く、胸の奥で心臓が暴れる。
(何なんだ、あの女……。持ち上げられた。俺の体を、軽々と。木に、指で穴を……)
思い出すだけで喉が渇き、胃がひっくり返りそうになる。
頬を撫でたあの指先の感触が、今も皮膚に焼き付いていた。
冷たいのに熱い、絶対に抗えない力。
(殺される……いや、壊される。次は、本当に終わる)
男は自宅に転がり込むように帰った。鏡に映った自分の顔は土気色で、髪は汗で張り付いている。
震える手でスマホを開いたとき、ちょうど社内の掲示板に「地方支社への人員補強募集」の告知が載っていた。
男は迷わなかった。
「……俺、行きます。どこでもいい。すぐにでも」
逃げではなく、再出発だと信じたかった。
二度と、誰かを追いかけたりしない。あんな恐怖を与えられた自分が、他人に何かできるはずがない。
心の奥で、強く誓った。
***
数週間後。
喫茶店で再び集まった四人。莉理香はスマホを開き、淡々と報告した。
「確認したよ。彼、地方支社への異動願いを出して、もう引っ越してここには戻らない」
麻衣と彩花が顔を見合わせ、安堵の吐息を漏らす。
「……本当に?」
「早かったね……」
莉理香は頷き、短く言葉を添えた。
「大丈夫。もう紗季に近づくことはないと思うよ」
その一言に、胸の奥が熱くなる。
私はずっと震えていた。夜道を歩くたび、電車で立ち上がるたび、背後に気配を探してしまった。
けれど――。
(私は一人じゃない。あの夜、莉理香が立ってくれた。麻衣も彩花も支えてくれた。守ってくれる人がいる。その事実だけで、こんなにも心が軽くなるんだ)
恐怖の記憶は消えない。けれど、それに縛られることももうない。
私は守られるだけじゃなく、前を向いて歩いていける。
そしてもう一つ。
――あの夜の出来事を見たのは、犯人と私だけ。
麻衣も彩花は何も知らない。これは、心にしまっておこう。
(もしかしたら……怖い思いをしたのは、私よりもあの人の方だったのかもしれない)
そんな奇妙な納得に、口元がふっとゆるむ。
その時、少し離れた席で麻衣と彩花が話しているのが耳に届いた。
「ねえ、護身術の話どうする? みんなも誘っちゃったし」
「やっぱりやった方がいいよね。女子は覚えて損はないし」
当たり前のような、日常の延長線上の会話。
その音がかえって心を温める。
(ありがとう。もう大丈夫。私は、私の生活を取り戻す)
湯気の立つカップを両手で包み込みながら、私は静かに目を閉じた。
胸の奥に残っていた冷たい影が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
ちょっと夏場なのでホラー風味になっております。
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