表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/52

第13話 刻みこむ恐怖

 翌日、昼休みを少し延長して、四人は会社近くの落ち着いた喫茶店に集まった。

 窓際のテーブルに並ぶカップから、まだ立ちのぼる湯気が柔らかく漂っている。


 最初に口を開いたのは紗季だった。


「……昨日はありがとう。ああやって言えたの、初めてで」


 その声は少し震えていたが、背筋は伸びていた。


 麻衣が頷く。


「改めて説明した方がいいよね。紗季が夜道でつけられてるのは、私も一度確認した。足音と香水の匂い……本当に同じ人だと思う」


 彩花も資料のように整えたスマホを差し出した。


「時系列をメモしてある。日付と場所、時間も全部。スクショも保存済み」


 莉理香は受け取り、目を通しながら小さく頷いた。


「……やっぱり三回以上。完全に狙ってるね」


 重たい沈黙が落ちる。

 麻衣が深呼吸して言った。


「警察に相談したけど、“実害が出ないと動けない”って……。だから私たちで守るしかない。でも本当は、莉理香に危ないことを頼むなんてしたくなくて」


「そう。正直に言うと、昨日まで言い出せなかった」


 彩花が苦い笑みを浮かべる。


「でも、紗季を一人で帰らせるなんてもう無理だから」


 紗季は唇を噛みしめ、視線を落とした。


「……私のせいで、ごめん」


「謝るのは違うよ」


 莉理香は静かに首を振った。


「大事なのは“どうやって止めるか”だから」


 三人の視線が集まる。莉理香は、迷わず続けた。


「正直に言う。私がやるのは護身術の指導だけじゃない。――直接、相手と対峙する」


 麻衣がはっと息をのむ。


「ちょ、ちょっと待って。それは危ないって!」


 彩花も同調する。


「相手は男だよ? 体格差だってあるし……」


「そんなことさせられない」


 紗季は慌てて首を振った。

 莉理香は小さく溜息を吐き、スマホを取り出した。


「……見て」


 画面には、訓練室の映像が映し出される。

 屈強な男性隊員が突進する――次の瞬間、宙を舞い、床に叩きつけられていた。

 続けて二人、三人。掛け声もなく、ただ淡々と、一方的に。

 小柄な女性が力で圧倒し続ける光景に、三人は言葉を失った。


「……なにこれ」


 麻衣が呟く。


「もう別次元……」


 彩花の声は震えていた。

 紗季は蒼ざめた顔で固まっている。


 莉理香は動画を閉じ、苦笑いを浮かべた。


「だから言いたかったの。私が暴力で負ける心配はない。……でも、今回は殴ったり壊したりはしない」


「じゃあ、どうするの?」


 麻衣が問う。


「説得する。二度と紗季に近づけないように」


 三人が同時に首をかしげる。


「説得で……変わるような状況じゃないでしょ」


 彩花が率直に言った。


 莉理香はゆっくり息を吸い、低く告げた。


「人間を縛るのは、恐怖なんだよ」


 その言葉に、空気が一瞬止まった。

 ラギルの声が胸の奥で重なった。


『よいぞ、莉理香。恐怖は人の行動を縛る。痛みより深く、長く残る』


 莉理香は三人をまっすぐに見据える。


「私は恐怖を刻む。壊さず、でも確実に。――だから、心配しなくていい」


 三人は言葉を失ったまま見つめ返す。

 理解しきれないまま、それでも莉理香の瞳の奥に揺るぎない決意を見て、何も言えなくなっていた。


 テーブルに置かれたカップの氷が、からん、と小さく音を立てた。


**


 夜の住宅街。

 莉理香は紗季の横を歩いていた。足元に伸びる影が二人分、街灯に揺れて重なる。

 この数日、毎晩のように彼女を送り届けながら気配を探り続け――そして今夜、ついに網にかかった。


(……いる。二十数歩、後ろ。呼吸が浅い。右足に体重をかける癖――あの時と同じ)


 先日の飲み会の帰りにもいた気配。間違いない。


「紗季、少しだけ遠回りしようか」


 気取られないように微笑み、自然に歩調を変える。


 角を二つ曲がった瞬間、莉理香はぴたりと立ち止まった。

 背後の足音も止まる。


 振り返らずに、静かに言った。


「……あなた、この前もいたよね」


 闇に潜んだ影がびくりと揺れた。


 次の瞬間。

 莉理香の身体は、風を切って消えたように見えた。

 気づけば、男のすぐ目の前――その手首を片手で捕らえていた。


「っ……!」


 男の顔が引きつる。


 莉理香は片手だけで男の身体を持ち上げる。

 足が宙に浮き、抵抗しようとしても微動だにできない。


「暴れても無駄だよ。私の方が、圧倒的に強いから」


 もう片方の手を街路樹に伸ばす。

 ごつごつとした幹に指をそっと当てる――次の瞬間、ずぶり、と音を立てて穴が穿たれた。

 樹液がにじみ出す。


 男の喉がひゅっと鳴る。

 人間の力であり得ない光景が、目の前で起きていた。


「わかるよね」


 莉理香は微笑むと、その“穴を開けた指”を男の頬に撫でるように這わせた。


「この手で、あなたに触れている。……次に何ができるか、想像できる?」


 男の全身が痙攣するように震えた。呼吸も声も喉に貼りついて出てこない。


 莉理香は片手で男を支えながら、もう一方でスマホを掲げる。

 録画の赤い点が静かに灯る。


「記録は残る。映像も、音も、あなたの顔も」


 囁きに近い声が、耳元に鋭く突き刺さった。


「二度と紗季に近づかないこと。住居、職場、通勤路、すべてだ。次に一歩でも踏み込めば、この映像は警察と弁護士に届く」


 男の瞳に、抵抗の色が完全に消える。

 恐怖に縛られた理解だけが残った。


 莉理香はそっと彼を地面に下ろす。

 だが同時に指先を首筋へ滑らせる。撫でるように優しく――しかし先ほど木に穴を穿った指だ。


「想像して。夜道で角を曲がるたびに冷たい視線を感じる。電車でふと見上げたとき、遠くに私がいる気配。門灯が点く音が、やけに大きく聞こえる帰り道。……それが、これからのあなたの生活になる」


 声は淡々としていた。怒号でも脅迫でもない。

 だが男の背筋を凍らせるには十分すぎる。


「帰りなさい。今日は壊さない。恐怖と記録だけが残る」


 男は答えられず、ただ小刻みに頷いた。

 そしてよろめきながら踵を返し、夜の闇へ消えていく。

 走らない。走れば追われる――そう本能が叫んでいたから。


 その背が完全に消えるまで、莉理香は録画を続けた。

 やがて停止ボタンを押し、静かに息を吐く。


『刻んだな』


(うん。恐怖で縛った。二度と紗季には触れさせない)


 振り返ると、少し離れた場所に紗季が立ち尽くしていた。

 不安と涙が入り混じる瞳。


 莉理香は穏やかに微笑みかける。


「……もう大丈夫だよ。帰ろう」


 そう言って差し伸べた手は、先ほど街路樹に穴を開けたものと同じだった。

 だが紗季は迷わず、その手を握り返した。


***


 ――走らない。走ったら、追われる。

 だが足は震え、歩幅は崩れる。呼吸が浅く、胸の奥で心臓が暴れる。


(何なんだ、あの女……。持ち上げられた。俺の体を、軽々と。木に、指で穴を……)


 思い出すだけで喉が渇き、胃がひっくり返りそうになる。

 頬を撫でたあの指先の感触が、今も皮膚に焼き付いていた。

 冷たいのに熱い、絶対に抗えない力。


(殺される……いや、壊される。次は、本当に終わる)


 男は自宅に転がり込むように帰った。鏡に映った自分の顔は土気色で、髪は汗で張り付いている。

 震える手でスマホを開いたとき、ちょうど社内の掲示板に「地方支社への人員補強募集」の告知が載っていた。


 男は迷わなかった。


「……俺、行きます。どこでもいい。すぐにでも」


 逃げではなく、再出発だと信じたかった。

 二度と、誰かを追いかけたりしない。あんな恐怖を与えられた自分が、他人に何かできるはずがない。

 心の奥で、強く誓った。


***


 数週間後。

 喫茶店で再び集まった四人。莉理香はスマホを開き、淡々と報告した。


「確認したよ。彼、地方支社への異動願いを出して、もう引っ越してここには戻らない」


 麻衣と彩花が顔を見合わせ、安堵の吐息を漏らす。


「……本当に?」

「早かったね……」


 莉理香は頷き、短く言葉を添えた。


「大丈夫。もう紗季に近づくことはないと思うよ」


 その一言に、胸の奥が熱くなる。

 私はずっと震えていた。夜道を歩くたび、電車で立ち上がるたび、背後に気配を探してしまった。

 けれど――。


(私は一人じゃない。あの夜、莉理香が立ってくれた。麻衣も彩花も支えてくれた。守ってくれる人がいる。その事実だけで、こんなにも心が軽くなるんだ)


 恐怖の記憶は消えない。けれど、それに縛られることももうない。

 私は守られるだけじゃなく、前を向いて歩いていける。


 そしてもう一つ。

 ――あの夜の出来事を見たのは、犯人と私だけ。

 麻衣も彩花は何も知らない。これは、心にしまっておこう。


(もしかしたら……怖い思いをしたのは、私よりもあの人の方だったのかもしれない)


 そんな奇妙な納得に、口元がふっとゆるむ。

 その時、少し離れた席で麻衣と彩花が話しているのが耳に届いた。


「ねえ、護身術の話どうする? みんなも誘っちゃったし」


「やっぱりやった方がいいよね。女子は覚えて損はないし」


 当たり前のような、日常の延長線上の会話。

 その音がかえって心を温める。


(ありがとう。もう大丈夫。私は、私の生活を取り戻す)


 湯気の立つカップを両手で包み込みながら、私は静かに目を閉じた。

 胸の奥に残っていた冷たい影が、少しずつ溶けていくのを感じていた。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました!

ちょっと夏場なのでホラー風味になっております。


もし少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、

評価やブックマーク、そして感想をいただけると大きな励みになります。

どうぞこれからも見守っていただければ嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ