第1話 全ての始まり
夏の朝、ガラス越しの陽光が研修棟の床に反射し、磨きたての匂いがわずかに鼻をくすぐった。
ここは協会本部――街のど真ん中に、ダンジョンの入口を抱えた建物だ。
この世界では、災害医療の一環としてダンジョン内の救護活動が存在する。
重傷者が出やすい探索現場には、医師や看護師が直接入り、その場で治療と搬送を行う。
医学生が将来のために現場を見学することも珍しくない。
桐島莉理香、医学部4年生。
今日は夏休みの集中研修として、その医療枠探索者の活動を一日同行する。
将来は救急や災害医療の最前線に立つかもしれない――そんな漠然とした希望と、少しの好奇心が、彼女をこのゲートの前まで連れてきていた。
研修棟の朝は、掃除を終えたばかりの床の匂いが漂う。
点呼、健康チェック、端末の同期。
起動信号に応じ、小型ドローンがそれぞれの肩口からふわりと浮かび上がる。
探索者一人につき一基が割り当てられ、映像と行動ログは協会に逐一送信される仕組みだ。
事故や違反の際には証拠となり、必要に応じて配信映像として一般にも公開される。
さらに手首には《バイタルバンド》と呼ばれるリスト型端末が装着され、心拍や血中酸素、魔素汚染反応などが常時モニタリングされる。
数値は本部サーバに記録され、後日の安全検証や事故解析に利用されるほか、異常が一定時間続いた場合には警告が自動送信される。
記録と公開――二重の監視の目が、ダンジョン探索の最大の安全装置でもあった。
引率の教官・佐久間は、いつもの抑揚で注意事項を読み上げた。
「本日の実地は浅層・安全管理区画のみ。見学同行であって戦闘は禁止。指示から離れないこと。以上」
「はい」
莉理香は短く返事をしたが、その声にはわずかに浮ついた響きが混じっていた。
装備は簡易防具と救急パック、護身用スリングショット。本来なら見学者に武器は不要だが、今回は“医療枠研修生”として、最低限の自己防衛具と応急セットが支給されている。
「桐嶋さん、初見学よね。目線を上げて、壁じゃなく人の背中を見る」
佐久間が歩きながら視線の向きを指摘する。
「はい」
意識して視線を前方へ上げると、ゲートが淡い光を震わせていた。障壁をくぐった瞬間、空気が半歩下へ落ちる感覚がある。
石畳が低く鳴り、灯りが呼吸するように明滅した。
――浅層は安全。
そう教わっていたが、その言葉が思い込みに過ぎないと知るのは、このすぐ後だ。
管理区画には点検用のラインが床に引かれ、要所には監視柱が立っている。
先行する指導探索者たちの後ろを、研修生たちは二列で進んだ。
「はいストップ。今の脇道、色が違った。雨の日は滑るから、足の置き方変えて」
指導探索者の一人が注意を促す。
「地面の色……」
莉理香は小声でつぶやきながら首をかしげた。
「慣れ。匂いでもわかるよ」
軽く笑いながら返される言葉。
こうして、現場でしか覚えられない感覚を少しずつ重ねていく――はずだった。
それは、音より先に光で訪れた。
通路の監視柱が、三色ランプを一気に白へ振り切る。
石畳が不規則に脈打ち、壁の結晶が一斉に濁った。
「魔素濃度上昇! 全員、退――」
佐久間の声が最後まで届く前に、世界が白く弾けた。
壁から霧が噴き出し、床が抜ける。
視界が回転し、肩を強く打ち、誰かの手を掴み損ねた感触だけが生々しく残る。
落ちる、と考える暇もなかった。
衝撃、金属の軋み、遠ざかる叫び。石が砕け、熱が冷え、冷えが熱に変わる
――そして音が止まった。
暗い。しかし完全な闇ではない。
白い霧に薄く縁どられた巨大な空隙。
崩落で露出した、誰も知らない部屋――そう直感する。
指先が痺れ、左脚はそこにあるのに他人のもののようだ。
喉の奥に砂の味がし、息を吸うたび肺がざらざらと音を立てる。
その時、声が響いた。
『……おい』
耳ではなく、胸の中に。
重く、それでいて澄んだ響き。落ち着いた水面のように波打たない声だった。
『動くな。形が決まりきっていない』
(……誰?)
『今は、息だけしていろ』
命令というより、置き去りにされるような静かな調子だった。
言われるままに呼吸を浅く刻むと、胸の痛みがほんの少し退く。
霧の向こう、黒い塊が横たわっていた。
岩? 違う。
鱗の割れ目に砂が詰まり、巨大な顎は半ば崩れている。
何かの頭部――線で描くには大きすぎる。
(ここは……どこ)
『わからない。だが、お前は落ちてきた』
莉理香は、まだ頭の整理が追いついていなかった。
物資搬入のはずだった――そう思いかけた時、胸の奥から声が響く。
『お前たちは、よく線を引く。安全、危険、許可、禁止――線を引くのは良い。線は流れに抗う。だが、流れは時々、全部の線を飲み込む』
意味がすぐには掴めない。例え話がずれているようで、それでいて芯はぶれていない。不思議な安定感があった。
「……あなたは、“何”なの?」
莉理香は口に出して問う。
『昔は、空の上を歩いていた。大地に影を落とすのが得意だった』
「……鳥、じゃないよね」
『鳥も、私の影で静かになったな』
わずかに笑う気配があった。
笑い慣れない者のぎこちない響きだ。
『お前の脚は、もう繋がっている。だが筋は切れ、骨は折れたまま。左の肋骨も一本、音が違う。呼吸を浅く』
「どうしてそんなこと……わかるの?」
『お前の中にいるからだ』
その言葉に、背筋が冷える。
胸の奥――心臓のすぐ外側で、微かな熱が脈打っていた。
莉理香の鼓動とは別のリズムがある。
「……入ってるの? 私の中に」
『ここに居る以外、方法がなかった』
「なんで?」
『お前の形が壊れかけていた。こちらの欠片もほどけかけていた。隣に空の器があれば、水はそちらへ流れる』
理屈にはならない説明だが、状況としては妙に納得できてしまう。生きる側と、消える側――流れた。だから今、息をしているのだ。
「助けてくれたの?」
自分でも驚くほど弱い声が出た。喉の奥がひりつく。
『結果としては、そうなっている』
あまりにそっけない物言いに、莉理香は眉をひそめる。
「言い方」
『言葉は、慎重に選んでいるつもりだ』
「慎重」という言葉だけが妙に人間くさく、場違いで可笑しい。
思わず笑った瞬間、肋骨が痛んで息が詰まる。
『痛むか』
「……ちょっと」
『お前の体は、お前のものだ。だが今は、少し身体を貸せ』
胸の奥の熱が指先に移る。
皮膚の内側で何かが震えて噛み合い、左脚に力が戻る。
肋骨の痛みも遠のいた。
完全には治っていないが、“動ける側”に寄っていく感覚があった。
「……これ、どう見ても普通じゃないよ」
『普通、というのはわからないな』
即答され、思わず口の端が引きつる。
「あなたの名前は?」
『あった。だが、呼ばれないうちに、忘れた』
「じゃあ呼び名を決めようよ。こっちが困る」
『呼びたいように呼べ』
「そんな雑な……」
息を整えて壁に手をつく。崩落で露出した部屋には、石棺の破片や古い金具が散らばっていた。
すぐそばの巨大な頭部の口から、白い霧が緩く流れ出している。
「……ごめん、ちょっとだけ、怖い」
『怖いのは良い。怖がられることは生きるために必要だ』
「あなたは怖くないの?」
『私? 私は、もう大体のものを終わらせてしまったから』
終わらせた、という過去形に、何がどれだけ詰まっているのか。
その重さを今、受け止めるには容量が足りない。
「――誰かいるか!」
遠くで声が響き、救助の灯りが霧を押しのけて差し込む。
「……お願い。今のこと、誰にも言えない」
『声は、お前の内側だけしか響かない』
「でも、医療検査とかいっぱいされるんだよ。異常が出たらどうしよう」
『今はお前の形に合わせている。外から見れば、ただの“人”。
強く使いすぎなければ痕は残らない』
「……使いすぎなければ、ってことは使えるんだ」
『使えるが、お前の身体が使える身体に”変わる”ということ』
「わかった、できるだけ使わない」
『それが良い』
ライトが近づく。莉理香は救助員に手を振り、呼びかけに応え、指示に従った。
ロープが下り、硬い手袋が腕を掴む。引き上げられる間じゅう、胸の奥の熱は静かに呼吸を合わせていた。
――医療室の白は、何度見ても落ち着かない。
検温、採血、簡単な魔素反応の検査。驚くほど何も出なかった。
「外傷軽微。魔素汚染の反応もなし。経過観察でOKです」
担当医は、医学生という肩書きのせいか、やや柔らかい口調で説明した。
「授業や実習には支障ないでしょう」
事故直後の非日常感が急に現実へ引き戻される。
復帰は数日後に許可された。
事故報告には「局所的な濃度暴走による構造崩壊」「調査不能で封鎖」とだけ記される。死亡者ゼロ、重傷者二――奇跡だと評された。
ベッドのカーテンの内側で、莉理香は小声で囁いた。
「あなた、すごいね」
『褒められているのか?』
「褒めてる。あとで名前、考えるから」
『すぐに必要か?』
「必要。呼べないと、呼ぶ時困る」
『そうか困るか』
くすぐり合うみたいな静かな笑いが、胸に弾んだ。
退院した夜、机の前で端末を開く。
登録区分の選択欄。「戦闘系」「支援系」「医療系」。
カーソルは迷って、最後に「医療系」で止まった。
スキル記述欄のモニターに、淡々とした文字が浮かんでいる。
“治癒傾向あり、緊急時の防御反応が顕著”。
嘘ではない。だが、それは氷山の一角に過ぎないことを、私だけが知っている。
「ねえ」
指先でカーソルを止めたまま、私は胸の奥に意識を向ける。
『なんだ』
相変わらず、落ち着いた声が返ってきた。
「これから、どうする」
『一緒に歩く。そうしなければ、どちらも良くない』
短いが、迷いのない返事。
この存在は、自分の未来を私と結びつけることを、当然のように選んでいる。
「やっぱり、そうなんだ」
『ただ、謝っておくべきことがある』
声色が、わずかに硬くなる。
「え」
『お前の形は、少し変わって戻らない。私の都合で。――申し訳ない』
謝罪。
人間ですら簡単には言えないその言葉を、この存在が口にしたことが意外で、胸の奥に重く響いた。
「……生きてるから、いいよ」
私はゆっくり息を吐く。生きているなら、それで十分だ。
『では、もっとよく生きよう』
「うん」
くすぐったいやりとりに、口元がわずかに緩む。
これが、初めて相棒になった夜の、最初の会話だった。
王道ファンタジーではないかもしれませんが、執筆する上でモチベーションと方向性の模索のため
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