記録92 針と冠
レオン、メリサを殺害された。
しかし、祝祭は続く。
──私は……死んでいる。
アイはそれを静かな事実として受け入れた。爆風で散らばった遺体片、焼けただれた金属臭、溶けたガラス。判別の余地を丸ごと奪い去る破裂の設計。ヴァイゼルの筋書きは、ここで一度幕を閉じている。私は死に、残された標的は二つ──ケイ、そしてメシエ様。
最短で近づけるのは表彰の儀だ。
ボロボロのコートを翻し、雨脚を裂くように走る。肩口でBOLRが低く唸り、視界を多層投影する。会場周辺の熱源、金属反応、レーダー散乱。花火と熱気とジャミングの残滓が、世界をわざと曖昧にしている。
天幕の向こうは別世界だった。
ホログラムが夜空に浮かび、最終結果が翻る。
順位 選手名 第1レース点数+第2レース点数=合計点
1位 ジンマリウス・セシル・アルジェント 118 + 150 = 268
2位 タリオ・ノヴァ 133 + 134 = 267
3位 サーシャ・リュミエール 145 + 120 = 265
4位 ヨアン・マルストロム 140 + 122 = 262
5位 ガルム・ヴォルグ 134 + 120 = 254
《第二レース、セシル選手が一貫してレースを支配! 最後、まさに自然の猛威を走り抜け、選手を導くがごとく操機術で満点150、奇跡の逆転です!》
《タリオ選手は中盤から終盤までセシル選手を抜くこと叶わず、中盤で見せた錯乱走法で他を翻弄しましたが、届かない──!》
歓声が爆ぜる。雨と紙吹雪が空中で混ざり、光の流れをつくる。ステージには上位の選手が整列し、反重力の擬虹が彼らの背を飾った。舞台袖で白い衣装の女性たちが列を整え、メシエはその中心で息を詰める。背後から短く低い声が降りた。
「今お前を守れる奴は近くにいない」
「……どうすれば」
「表に出ろ。光の下にいるんだ」
ケイは表彰の儀直前まで共にいたメシエに、最後にそう囁き舞台へと上がった。メシエは頷くしかなかった。彼の言葉は慰めではなく、規則の確認のように冷静だった。
開催実行委員長が入場し、惑星メリナが誇る宝石を散りばめたメダルが次々とかけられていく。タリオ、サーシャ、ヨアン、ガルム──儀礼の動線は完璧で無駄がない。最後に呼ばれたのはセシル。照明が一段と強くなり、群衆の声は雷鳴と重なった。
だが、ケイの皮膚がわずかに粟立つ。視線の収束、風の屈折、梁の陰で一瞬だけ千切れた空気の継ぎ目──来る。
──首が下げられる瞬間だった。
頸部を目がけ、髪の一本ほどの毒針がほぼ無音で走る。ケイは呼吸を止め、意識の縁で針身の軌道を捻る。金属は空中でひねりを食らい、皮膚をかすめる角度に変わる。次の瞬間、彼はわざと崩れ落ちた……。
……一拍の間、悲鳴が波のように広がる。メシエが顔色を失って駆け寄る。
「セ、セシルッ……!!」
委員長の周囲がざわめき、救護要員が飛び込んだ。アナウンスは即座に「第一レースでの事故と激戦による疲労」の文言を繰り返し、搬送ルートが開かれる。群衆は口々に英雄の名を叫び、祈る。神を生む儀式は、こうして円環する。
そのとき、アイは会場に滑り込んだ。視界の端でケイの倒れ方が”正しい偽装”になっているのを確認する。それは彼だけが持つ癖だ。肩から落ち、利き腕を下に隠す。顎は守る。喉は晒さない。長年の習慣。頸部の皮膚に、肉眼では判別できない微細な擦過。BOLRが舞台上空を舐め、梁の陰に極薄の金属粉痕と圧縮空気の波形を拾う。無音射出。犯人は会場のどこかで、すでに観客の一人に戻っている。
式典は中断のまま終了に切り替えられ、ホログラムは“英雄の勇姿”をループ再生する。搬送車両が走り抜け、カメラは追いきれない。観衆の記憶には、倒れる直前の笑顔だけが残るよう、機械の目が選別する。
夜が深まるにつれ、街は”神格化された名前”で満たされた。ジンマリウス・セシル・アルジェント、彼は奇跡で勝ち、戦いで倒れ、そして民の祈りに守られる存在になった。
同時刻、別のニュースが淡々と報じられる。映像は少なく、音声は簡潔で、画面の隅にこびりついたまま流れていく。
──シャルロット邸の焼失。
──シャルロット・レオン、シャルロット・メリサの死亡。
──「私怨による犯行か」、詳細不明、捜査中。
誰も振り返らない。ページはスクロールされ、通知は埋もれ、祝祭の熱はその上に覆い被さる。情報は意図のとおりに沈み、やがて忘却に落ちる。計算された静けさ──情報操作の理想形。
ヴァイゼルは勝利を確信していた。星は勝ち、英雄は生まれた。邪魔者は消え、残るは小娘一人の口封じだけだ。彼は上品なグラスを指で押し、その縁で光を細く歪める。
「始末は済んだ。あとは傷を飾るだけだ」
だが、セシル=ケイが運ばれた病院からの報告は一行だった。搬送されたはずのセシルがいない。カルテもなく、監視データもなし。
……影を放ち、街を洗えっ!!
だが、何も掬えない。翌日、さらに翌日……ヴァイゼルはシャルロット派の貴族を次々と懐柔し、金と恐怖の針で沈黙を縫い留める。会議体の議事録は従順に整えられ、惑星メリナの勝利は盤石な歴史として記録された。それでも彼の表情は硬かった。影たちが戻ってくるのは、いつも空の掌ばかりだったからだ。
ついには公式発表が走る。
「シャルロット・メシエ、行方不明。両親を失い、彼女にもまた何かが? ジンマリウス・セシル・アルジェントはいまだ療養中」
虚構は二重に塗られ、耳障りの良い文言で乾かされる。
その頃、街外れの古い整備工場で、メシエは椅子から滑り落ちるように座り込み、アイの言葉を聞いていた。
「……レオン様とメリサ様は、殺されました」
機械の声に微かな震えが混じる。
アイは自分の喉に手を当て、発声機構のログを黙って抑えた。感情の名をまだ知らない揺らぎが、回路の端を焦がしていく。
メシエは空を掴むように両手をさまよわせ、やがて顔を両腕で覆った。堪えようとする意志はあった。しかし胸の奥からせり上がる慟哭は、堰を切った水のようにあふれ出し、音にならない呻きが身体ごと震わせる。唇を噛みしめても、嗚咽は漏れ続け、涙は止まらなかった。
「嘘だ……あ、ぅ……ぅ……ぁああ……嘘って……言って……」
床に落ちる雫が、油膜の上で丸く弾ける。
アイは一歩だけ近づき、それ以上は踏み込まなかった。
「申し訳ありません……」
ケイは壁に背を預け、目を閉じていた。痛みはまだ去らないが、言葉は一つだけ必要だった。
「……どうする?」
沈黙は長く、雨音は細かった。世界の形が少しずつ変わり、呼吸が新しい規則で繋がれていく。メシエは指先を握り、開き、また握った。わかっていた、まだ泣き尽くすことはできない。答えはすぐには出ない。
──それでも、その夜。
ボロボロの舞台衣装のまま、メシエは街を歩いた。頬に乾ききらない涙の跡、踵は擦り切れ、髪は雨で重い。けれど足は止まらなかった。アナリヴォ高地の丘を越え、石畳の坂を登り、巨大な門の前に立つ。
ジンマリウス邸。
夜の闇に溶ける黒い鉄。
拳を握り、鼓動が掌を内側から叩く。震えは止まらない。止まらなくていい。メシエは腕を引き、全力で門を叩いた。
「……開けて、開けてよ! 開けろおおッ!」
乾いた金属音が夜の街に弾け、遠い犬の声のように遅れて反響した。祝祭の熱はとうに去り、冷たい風だけが返事をした。それでも彼女は叩き続けた。
一人、ジンマリウス邸を訪れたメシエ。
幸せとは程遠い場所まで来てしまった。




