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記録91 喝采と罠の火

ヴァイゼルは親友を捨てた。それは誰のためなのか?

──銃声の残響が、夜気の底に沈んでいた。 花火が咲き、散り、ネオンが濡れた石畳に血のような色を流し込む。黒鉄の車両は片側から抉られ、ガラスは飴のように歪んで張り付いている。鼻を刺すのは硝煙と焼けた内装、そして熱で甘くなった潤滑油の匂いだった。


アイは走った。雨に濡れた裾がふわりと跳ね、影を跨ぐように停車車両へと滑り込む。BOLRは彼女の肩越しに低空を旋回し、扇状にレーザーマップを撒いていく。


「……生体反応、検出──」

細い声は途中で静まった。


レオン、車両の傍に横たわり、胸郭の上下はない。メリサは前席と後部座席の隙間に崩れ落ち、指先で何かを掴む形のまま固まっている。


アイは二人の頸動脈に触れ、瞼の上に指を添える。指先のセンサーは規則正しく、何も返さない。演算回路は結果を即時に提示するが、出力は遅い。


間に合わなかった──。


花火の白が、顔を赤く染めた。炎の赤とネオンの赤が混じり合い、アイの瞳に二重の光条を落とす。瞳孔の奥ではアルゴリズムの流れが微かに乱れ、数式の端に熱が生じた。


BOLRが索敵範囲を拡げる。円は一度に10キロまで膨らみ、空中に薄い網の目を描く。だが広域化は感度を犠牲にした。足跡は多すぎ、影は重なり、直近の移動ベクトルは花火の熱気に攪拌される。時間差は避けられない。到着が一分遅れた。それだけで、すべての痕跡は曖昧になる。つまり索敵は間に合わなかったのだ。


アイは無言で視線を巡らせる。撃ち抜かれた護衛の制服、弾痕の角度、火炎の走り方、タイヤ痕の途切れ。計算はひとつの結論へと収束していく。


どうしようとも、間に合わなかったのだ……。まさか、ヴィータ・ヌーダを駒にするとは。




会場はなお喝采の渦中にあった。アイのいる場所から遅れる事数分、雨が降り始め熱気に満ちた会場に、ささやかな風を運ぶ。ホログラムは英雄の顔を幾重にも複製し、紙吹雪は反重力の気流に乗って空を漂う。仮設スタンドが踏み鳴らされ、歓声は熱となって夜空に上る。観客席では知らぬ者同士が抱き合い、涙を流し、子供たちは声を枯らして英雄の名を叫んでいた。群衆は歓喜に酔い、街全体が一つの熱源と化していた。


舞台袖の通路。ケイは壁に背を預け、息を整えていた。頭蓋の内側で波打つ痛み。喉に残る金属の味。視界の端がときどき黒く欠け、次の瞬間には戻る。使いすぎた反動だ──シンセサイザーが神経網を撫でては、沈静化の指示を送る。


メシエが傍らで肩を支えていた。手のひらは冷たいのに、力は真っ直ぐだった。その瞳の奥には恐れと、それでもなお微かな希望の光が揺れていた。


「……通信は?」

ケイは短く問う。


メシエは端末に触れ、首を振る。

「ノイズばかり。アイさんとも、パパたちとも……まだ、妨害が……あるの?」


それでも彼女は小さく息を吐き、ケイを見上げた。

「でも……勝てた。みんな、あなたを讃えてるよ」


ヴィータ・ヌーダの撒いたジャミングは、祭典の電波と花火の熱気に混じり、しぶとく残っていた。ケイは目を閉じ奥歯を噛む。嫌な感覚が胸の奥を引っかく……遅すぎたか……。その胸中には、レオンとメリサが姿を見せぬことの不在感が重くのしかかっていた。祝祭の光が眩しいほどに、その影は濃かった。





そして、BOLRが突然低い警告音を発した。アイは顎を上げ、車両の床下と路面の境界を注視する。熱の偏り。金属の微かな伸縮。数式が規則性を帯びる。


半径数メートル以内、近接起動──。


アイは無意識に腕を伸ばしかけ、次の瞬間には肩を引いた。


閃光が視界の中心線を裂く。白は一拍の遅れで熱となり、爆風が路地をねじる。音はさらに遅れてやって来て、世界の向きを反転させた。重いものが浮き、軽いものが地面に叩きつけられる。

車両の骨組みは花弁のように裏返り、窓は粉砂糖のような粒になって散った。遺体も、紙片も、弾殻も、指紋も、形のあるものはほとんどが千切れて気流に巻かれていく。証拠は風景そのものに拡散した。


アイの重量でさえ5メートルほど吹き飛ばされ、壁に背から叩きつけられた。ケイに与えられたコートは燃え尽き、外装が裂け、人工皮膚の継ぎ目から冷たい合金の骨格が覗く。システムログが一瞬、赤で埋まり──すぐに黄色へと変わった。致命的障害はなし。動作継続可能。


「……くっ」


ヴァイゼルは私がここに来るとわかっていた。もろとも消すために遺体を残したのだ。私がヒトだったら……死んでいた。


瓦礫の上に数秒、雨粒だけの音が降った。短い静寂が路地を満たす。アイは瓦礫を払って起き上がる。BOLRは焦げ跡の縁を舐めるように飛び、半径500メートルを瞬間的に索敵する。周囲の住民が窓を開ける気配はない。祝祭の音は遠く、ここは別の街のように静かだ。


そして……レオン、メリサの姿かたちも残すことなく消えていた。跡形もなく吹き飛ばされ、すでにどれが彼らかも判別はつかない。設計思想に存在しない現象。


アイは目を伏せ、唇の形だけで名を呼ぶ。

「……メシエ様……」


依頼主を殺された……私は負けたのだ。


雨が細かく降り出した。火の粉と雨滴が混じり、黒い煙は低く流れていく。





会場の天幕を抜け、風が通路に走り込む。アナウンスが表彰の開始を告げ、舞台袖では儀礼の段取り確認が慌ただしく進んでいた。主催側の貴族、都市代表、スポンサーの列。遠くから見ても、その中にヴァイゼルの姿は分かった。彼は笑っていた──完璧に、礼節の微笑で、何事もなかったかのように。


メシエは肩を震わせた。誰にも悟られぬよう、胸の前で指を組み深く息を吐く──パパもママもここにいない。連絡も、足音も、気配もない。喜びはまだ喉にあるのに、温度だけが消えていく。胸の奥に嫌な予感が膨らんでいった。


ケイは彼女の横顔を一瞥し視線を舞台へ戻す。痛みはまだ去らない。だが、立たねばならない。レオンに依頼を受けた以上、任務は遂行する。


アリーナの天井に最後の大輪が開いた。群衆の歓声は雷鳴のように重なり、街全体が震えた。しかし、遠く離れた路地裏ではまだ煙が地を這っている。


二つの轟きが交わることはない。


ケイは一歩前へ出た。祝祭は粛々と進んでいく。

レースには勝った。

依頼は「レースの勝利」と「メシエの未来」だ。

しかし、依頼主を失った今、任務は失敗と言える。

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