記録90 それぞれの宴、信じるもののために
1位をかちとったケイ。
誰もがこの伝説を語り続けるだろう。
──白光が弾け、ゼルグラート上空に開いた転位装置から蒼の閃光が滑空した。
エンヴァル・シグマ。翼の残滓を引き、閃光の尾を描きながらゴールを貫く。
《チェッカーが振られた! 1位! ジンマリウス・セシル・アルジェントォォォ!!》
実況の叫びが会場を揺らし、群衆は総立ちになった。
旗が振られ、紙吹雪が宙に舞う。花火が夜空を割り、奇跡の帰還に街全体が震えた。
次々と機体が着陸する。
タリオ、ガルム、サーシャ、ヨアン──それぞれ足を引きずりながらも観客に応え歩む。
「英雄たちだ!」
拍手と喝采が降り注ぎ、名を呼ぶ声が絶えなかった。
だが、最後に降り立ったエンヴァル・シグマのコックピットは沈黙していた。
ケイは耳鳴りに囚われ、視界を波打たせたまま動かない。吐き気が喉を焼き、頭蓋の奥で脈打つ痛みに膝が折れる ……立ち上がれない。
それでも彼は必死に目を開き、ふらつきながら歩み出した。
横切るタリオに並び、震える手で肩を叩く。観客はその光景にさらに熱狂した。
「ライバルを讃えたぞ!」
「友情の証だ!」
喝采が渦を巻き花火が空を裂く。
だがタリオは目を丸くした。
「セ、セシル……!」
ケイは低く掠れた声で一言だけ呟く。
「……タリオ……抗え」
「……あ? えっ?」
意味を掴めず戸惑うタリオ。
それはセシルの仮面ではなく、ケイ自身の声だった。
その時、ステージ奥から群衆をかき分けて駆け寄る影があった。
医療班よりも早く──シャルロット・メシエ。彼女は迷わずケイの身体を抱きとめ、ぐらつく腰を支える。 両手でその顔を胸に抱きかかえ、涙混じりに囁いた。
「……ありがとう」
小さな声。観客には届かない。
だがケイには確かに残った。仮面の下、苦痛に歪む顔がその一言にわずかに震える。
ありがとう?何が……胸の奥に黒いざわめきが走る。
群衆の目には、英雄を包む温かな抱擁と映り、喝采はさらに高まる。街は奇跡の神話に酔いしれた。
──医療塔〈セフィラム〉にて、報道を観るオルテンシア。その手はずっとセシルの手に添えられていた。
セシルはレスピレーターに繋がれたまま、静かに呼吸をしている。
今はただ、生きているだけだ。それで十分だろう。
「セシル……頑張りましたね。レースが、点数が、順位が人生を、運命を決めてしまう。いえ、このレースが始まった時から、既に決まっていたことなのかもしれないわね……この未来も」
──祝祭の轟きが遠ざかり、歓声は虚空へと溶けていく。石畳を滑る黒鉄の専用車両が、街を縫うように走っていた。レオンとメリサは護衛を従えながら会場へと向かっていた。しかし、車内は不気味なほど静かだった。車窓の外には祝祭の花火とネオン。だが、それは牢獄の鉄格子のように背筋を冷やした。
通信機にはノイズしか返らず、アイやケイに連絡は届かない。
「……繋がらん」
レオンが低く呟く。
メリサの指先が震える。
「なぜ……街がこんなに静か……?」
前方に不自然に停まる車影。護衛が声を荒げる。
「前方、遮断されています!」
街の歓声と花火が遠ざかる一方で、通りは異様な静寂に沈み込んでいた。
レオンは窓越しに視線を流す。花火の光がちらつく街角には、不自然に停まった車影。その反対側の路地にも、黒ずくめの影が一瞬だけ動く。
「……完全に、包囲されているな」
そう呟く声は冷ややかだが、掌に重ねられたメリサの手だけは強く握り締めていた。
「……メシエは?」
メリサが不安げに問いかける。
レオンは小さく息を吐き、ダッシュボードに映し出された中継画面を指差した。そこには、セシル=ケイのゴールと、観客の大歓声の中で泣き笑いするメシエの姿。 彼女は一目散に駆け寄り、ケイを胸に抱きよせ涙を流す。
「……あの子……笑っている」
メリサの瞳から一筋の涙が零れる。
レオンは頷き、声を絞り出した。
「……良い顔をしている。……はぁ……いつか私たちの手を離れるだろうと思っていた。だから……閉じ込めてはならないと、そう決めていたが」
「神が哀れんでくださったのだろうか……生まれぬはずの我が子の代わりに、あの子を託してくださった。だから、あの子は奇跡の子、我らの本当の宝……そして導きの灯火」
二人の指先が強く絡み合う。
だが外界は、冷たい静寂に沈んでいた。遮断された路地、背後に迫るヘッドライト、屋根の上に動く影。
着実に包囲は狭まりつつあった。
「……残された時間は、長くはない」
レオンが呟いた。その声は花火の轟きと歓声にかき消され、車内だけに残響した。
街の喧騒は遠い。専用車両が石畳の曲がり角に差し掛かったその瞬間、夜気を裂く銃声が響いた。
「――っ!」
先導していた護衛車両が一瞬にして蜂の巣と化し、炎を噴き上げて停止する。同時に背後を走る護衛も、屋根から放たれた弾丸に撃ち抜かれ、火花を散らす。
「伏せてっ!!」
運転手が叫ぶより早く、左右の路地から暗殺部隊が雪崩れ込む。黒ずくめの影が静かに銃口を揃え、狙い澄ました一斉射撃。
前席の護衛が声を上げる暇もなく、額を撃ち抜かれて崩れ落ちた。隣に座っていたもう一人も、胸を撃ち抜かれ、シートベルトに吊るされるように沈んでいく。
「……っ!」
レオンはメリサを庇い、必死に身を低くする。
だが抵抗する者は誰一人残らなかった。数十秒と経たぬうちに、護衛たちは全員沈黙した。
銃声が止むと、そこに 残るのは石畳に滴る血の音だけ。窓を震わせる花火の轟きが、まるで別世界の祭囃子のように響いていた。
──そして、静寂を裂くように、一人の影が現れる。
黒衣を纏い、悠然と歩み寄る長身。 ヴァイゼルだった。 彼は濡れた石畳を踏みしめながら、撃ち捨てられた護衛の亡骸を気にも留めず車両へと近づく。 薄笑いを浮かべ、その瞳には冷徹な光が宿っていた。
「……さて。本当の勝利とは、全てを掌握してこそだ。そうだろう? 旧き親友よ、レオン……哀れな道化よ」
その声は、祝祭の喝采と同じ夜空を震わせていた。
銃声の余韻が消えた車内。 血に染まった静寂の中で、レオンとメリサは互いの瞳をじっと見つめ合った。 窓の外では花火が夜空を裂き、歓声が響いている。その音が、かえって二人の孤独を強くする。
「ヴァイゼル……まさか、こうなるとはな」
レオンが静かに吐き出す。
「ケイ殿が言っておった……誰も彼も、自分のことばかりだと」
メリサは唇を噛む。
レオンは続けた。
「私たちですら……そして、王ですら。人は皆、自分のために生きる。正義を笠に着て悪魔にだってなれるのだ」
…………。
やがてメリサの瞳に光が宿る。
「……けれど、私たちは違う。メシエを導かねばならない。 正しき世界へと」
レオンは頷いた。
「そうだ。我らはすでに救われている、あの子に」
二人は座席の上で身を寄せ、互いを抱きしめ、短く口づけを交わした。花火の閃光が窓を照らす。その光の中でレオンの声は震えていなかった。
「さあ、ヴァイゼルと向き合おう。親友と戦おう。すまないなメリサ。付き合わせてしまって」
「ええ、大丈夫です。私はあなたの妻ですから」
メリサが微笑む。その瞳に映る決意は恐怖を凌駕していた。
「……あの宝玉を彼に委ねたのですね?」
「ああ。メシエが成人した時に渡そうと仕舞っていた家宝だ。それが我らをあの子へ導いた。ケイ殿に……あれしか報酬はやれんが、きっと赦してくれるだろう」
そう言い残すと、レオンは深く息を吐き、ゆっくりと車の扉に手をかけた。
歪んだドアが、ギィ……重い音を立てて開かれる。二人は互いにもう一度抱きしめ、そして並んで車外へと歩み出た。二人は振り返らなかった。その背に揺れる影はもう祭りの光ではなかった。夜風の冷たさよりも、花火の光よりも彼らの背に宿る決意が強かった。
夜風を切って降り立つ二人。 石畳に靴音が響く。花火の閃光が空を裂き歓声が遠く木霊する。 だが、この路地にあるのは血の匂いと沈黙だけだった。
その沈黙を裂いたのは低い笑い声だった。
「……ふはははっ。娘の活躍は観れたか? 拾い子を育てた、哀れな人形どもよ」
黒衣を翻し、ヴァイゼルがゆっくりと姿を現す。足元に転がる護衛の亡骸を気にも留めず、悠然と歩み寄る。 瞳には一片の揺らぎもなく、口元には嗜虐の笑みが浮かんでいた。
「まったく……余計なことを、所詮血のつながりもない娘なのだ。捨て置けばよかったものを……」
レオンとメリサは肩を並べ、微動だにせずその視線を受け止める。
「どこで拾ったかも知れぬ小娘を……『子が生まれた』とな。神の贈り物? はは……哀れな虚飾だ」
メリサの頬を涙が伝った。だがその足取りは揺るがなかった。レオンは静かに銃を抜き、月光に煌めかせた。
「貴様……どこまでも腐りおって。……ヴァイゼル……親友だったお前と、ここで決着をつけよう」
勝利とは無情なるものの上にしかないのか?




