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記録87 情動の断崖、血の舞踏

誰の脚本通りなのか?。


──仮面が砕けた床を見下ろしながら、アイは思考を重ねていた。BOLRからの映像が彼女の視界に幾筋も走る。静かな山間の回廊。文化的景観を守るために監視網が薄いその路を、影が確かに会場へ向かっていた。


(……本物のヴァイゼルは、殺害されたか、拉致されたか──未だ姿を見せぬこと自体、異様だ)


彼女の結論は冷徹で揺らぎがない。ジンマリウス・ヴァイゼルは惑星に尽くし、セシルを支えてきた。あの会議の場でも惑星メリナの正義を貫く構えだと……彼が自ら裏切る理由は存在しないと、確率がそう告げていた。ならば合理的に導ける答えは一つ──彼は犠牲となった。ヴァイゼルの不在はトラブルが起きていると公言するようなもの。この擬態迷彩を使い、大会が終わるまでは穏便に。


「レオン様……報告が」


《どうした?》


「ヴァイゼル様がヴィータ・ヌーダの手に……可能性が高いかと」


《何っ!?どういうことだ……》


「解りかねます。数刻前に彼の反応をロストし、代わりに現れたのが擬態迷彩を使った偽者でした。その者は倒し、擬態迷彩も回収しましたが、彼の消息は不明です……」


《……む……ぅ、なんとういくことを。アイ殿、その擬態迷彩は『Ordre(オルドル)de()l’Aube(ローブ)(黎明の騎士団)』に預け、残りは任せるがよい。そなたはヴィータ・ヌーダを追ってくれ》


「ええ、懸命かと」


そして──アイは通信を閉じ、メシエに静かに告げる。

「このままでは……すでに……」


「そんな……」

メシエの声が震える。


「……ヴァイゼル様……」

メシエは力が抜け、膝を折って床に手をついた。

肩が震え、目尻に涙がにじむ。爪が床をかき、息が浅く乱れる。セシル、そしてオルテンシアの顔が脳裏をよぎり、胸を締めつけられるように声を詰まらせた。


アイは短く頷いた。

「……彼は殺害されたと決まったわけではありません。囚われている可能性も……ですが、警戒を──騎士団、小隊を編成し、舞台とレオン様周辺を護衛せよ。私はヴァイゼル様の捜索とヴィータ・ヌーダの排除に」


《ハッ……》





──その時、別回線が割り込み個人回線に切り替わる。

《……待て》

低い声、それはケイだった。

眉間に皺を寄せ、耳鳴りに顔を歪めながらの声だ。レースの最中であるにも関わらず裏の展開を感じてのこと。


《ヴァイゼルがそんな単純な男だと? それに……ヴィータ・ヌーダは純粋な殺し合いを求めている……一人目のノーメンも、お前が殺った奴も》


「……はい」


《……アイ、お前の分析は機械的すぎる。ヒトの性根はそんな単純か?……》


「……」


ケイの通信は激しい飛行で途切れ途切れに。それでも彼は言い切った。

《……ヴァイゼルがヴィータ・ヌーダと繋がっている可能性が高い。偽物が現れたのはお前を誘を誘い出し、狩るためだ──全ては快楽と口封じのため、奴らの利害は一致している》


アイは口を閉ざすが、ケイは続けた。

《ノーメン、奴らはオレの存在もすでに……急げ、レースは今晩終わる。メシエを舞台に立たせておけ。奴らも表でやるほど馬鹿じゃない……お前はシャルロット家に迎え。奴らを殲滅しろ》


通信が切れる──残された静寂の中で、アイは小さく息を吐いた。


(……確かに、会場にヴァイゼルの姿はまだない。ケイの言うことは合っている……ヒトの情動、理屈じゃない行動。感情を、そんなものを計算に入れろと?)


彼女の瞳孔に並ぶ光の羅列。

BOLRが追う影の群れは確かにシャルロット邸へと向かっていた。





──氷河の断崖。

赤金の光が氷に滲み、空には淡いオーロラが薄紗のように垂れていた。巨大な氷壁は鏡のごとく光を返し、迷宮のように屹立する。裂け目は軋むような轟音を発し、深い蒼を覗かせる。粉雪はダイアモンドダストとなって宙に舞い、幻想的な輝きが一瞬ごとに景色を変えていく。音が胸を叩き割るように響いた。


【実況】

《ついに最終セクション、断崖峡谷へ突入!セシルが先頭、その後方わずか1.2秒差でタリオ・ノヴァ!──その距離178メートルっ!!》


【解説】

《速度は限界値……この先は、どちらかが機体を失う覚悟をしない限り突破できないッ!》


エンヴァル・シグマは氷壁をかすめ、鋭い光跡を残す。未来を踏んでから現在に合わせる飛び方。追う者は常に後手に回る。観客席からは悲鳴とも歓声ともつかぬ声が重なった。


限界が迫っていた。機体は本来の能力の半分にも満たない性能だった。それをケイが力で補正し続ける。大気を裂き、ブレを抑え込む。

血管が耳鳴りに共鳴するように脈打ち、視界の端が黒ずむ。操縦桿を握る掌は汗で滑り、強張る腕が痺れを訴える。鼓膜が破れそうな痛み、胃がせり上がるような圧迫感。それでも口元には余裕を装った薄笑いが浮かぶ。

通信の向こうでアイが心配するだろうと知りながら、彼は『別に大したことはない』と意地を張るように呟いた。


その背後で、タリオは指先を震わせていた。HUDの隅に潜む小さな赤いアイコン──フレア・ドライヴ。


(ここで仕掛けるしか……ないっ)

唇を噛み切り、血の味を確かめる。

胸の奥で友の名を呼びながら、タリオは禁忌の兵装へと手を伸ばした。



──その瞬間。

空間を裂く耳鳴りが氷河地帯全体を貫いた。氷壁が音を立てて裂け、衝撃波が尾を引く。全機が同時に揺さぶられ、操縦桿に必死にしがみつく姿がモニターに映し出される。観客席から悲鳴と歓声が入り混じった。そして、ケイの耳鳴りは頂点に、彼の脳天を穿った。





同じ頃、控室を出たアイは通信を開いた。緊張なのなか?緻密で精密で繊細が故に指先が震え、掌を強く握って抑え込む。声は冷静を装うが、胸の奥に微かな焦燥が灯っていた。


「レオン様。レースはまもなく終わります。敵はそのタイミングを……護衛を必ず。私もそちらへ向かいます──」


《……そうか。では任せる。アイ殿……娘は……メシエは……踊っているな?》

応答の声には重苦しい疲労と焦りが滲んでいた。


アイは一瞬、言葉を選ぶように瞼を閉じ、それから淡く吐息をこぼした。

「はい……では、後ほど」


ジジ……ジ…。

不安な電子音が響く。


……ジャミングだ、ヴィータ・ヌーダ──奴らはすでに。





数十分後、シャルロット邸までの静かな山道にてアイは遂にヴィータ・ヌーダの一団と邂逅する。


アイは会場から約60キロの距離を10分たらずで走破。そこには十二の影が並んでいた。すでに二人は斃したが──待ち構える者たちの佇まいを見ればわかる。間違いなく彼らもまた手練れ。その殺意の群れが静寂の路を塞いでいた。


全員が黒装束を纏い、白面を被る。口元には不敵な笑みが滲み、不気味な足音が揃う。暗闇の中で木々が擦れ合い、静寂が増す。


その内の一人が前に進み出て、アイに言葉を投げた。

《早かったですね。なるほど……報告を受けた通り、君たちは……二人組のようだね》


別の影が嗤うように声を投げた。

《ルミナスでノーメンをやったのは君か?それとも今、空を飛んでいる彼か?……まぁ、どちらでもいい……強者ならね。どちらを殺すか、我らにとってはただの愉悦。血の舞踏に酔うのです》


アイは冷徹に返す。

「……くだらない」

(ケイの言ったことは合っていた。やはりヴァイゼルは私たちのことを……レオン様……)


「言葉はいりませんね」

(時間が惜しい……)


《さあ、楽しみましょうか。素晴らしい機会に感謝を》


その言葉が切れる刹那──陰に潜む一人がアイの後ろをとる。


「……!」


しかし、目を疑う光景がノーメンを襲った。

《何っ!!?》


《がはっ……ふっ……》

血反吐を撒く。


その光景に十二人の影が脚を止めた。


確かにアイの背後をとったはずだった。気配もなく。

しかし彼女の視界はごまかせない。だがそれ以上に恐るべきは、彼女の動きが見えなかったのだ。刃が掠める瞬間には、アイは忽然と消え、背後からその胸を素手で貫いていた──。


理解が追いつく前に終わっていた。


《馬鹿な……あり得ん……》


《その力……なるほど、ノーメンを殺ったのは貴様か……やはり、強化人間か?》


《いや、しかし……》


じりっと下がる者たち。


その時……


Vooooooo――コートの下から、仄暗い鳴動音が響き渡る。


アイのコートが風に揺れて、隙間から覗く赤紫色に輝く人工血管。


《な…………んだとっ……!!?》


仲間を瞬時に貫かれた驚愕に息を呑むヴィータ・ヌーダ。圧倒的な差を思い知らされた直後、さらに視界の端で光が瞬いた。アイの胸奥に組み込まれた核融合炉が回転を始め、赤紫色の光脈が人工血管を脈打たせていた。


その光に──その姿に戦慄する。


《貴様っ……まさか》

勝利は誰の手に?

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