記録86 氷河の焦光―偽面の交笑
いよいよレースも最終局面へ。
──朝が氷を切り裂いた。
エレイオスの陽光が地平のむこうから覗き、赤金の光が氷原を斜めに貫いた。大陸に林立する氷柱は天を突くオルガンのパイプのように整列し、影は長く、切れ味の鋭い刃の群れと化している。氷河の裂け目は深い藍を孕み、宙に舞う粉雪はダイアモンドダストとなって視界を白く滲ませた。空には淡いオーロラが薄紗のように垂れ、夜と朝の境界を彩っている。
【実況】
《氷河ステージへ突入!各機、最初のチェックポイント“白門”まで200キロ!》
【解説】
《異常なペースです……!通常なら2日目の夕暮れにここへ入るはずが、計算上、このままでは“今夜”に決着がつく!!》
実況と解説の声が遅れて会場へ届き、歓声が波のように押し寄せた。モニターには、氷柱を縫う細い航跡が何本も同時に走っていく。コースはレーサー次第。低空で氷の刃のあいだをくぐる者、高度を取り一気に谷をまたぐ者、氷壁にぽっかり空いた穴を抜けてショートカットを狙う者。生きたコース。遅れれば、大事故は必至。
ジンマリウス・セシル・アルジェント――その名で走る男は、光の縫い目だった。機体は氷壁すれすれに角度を変え、反射光の盲を正面から受け流していく。わずかな肩越しの揺れで推力を散らし、死角を消す。整った軌跡ではない。未来を先に踏んでから、現在に軌道を合わせてくる飛び方だ。追う者は、目で追ってから判断する。そこに差が生まれる。
しかし、他のレーサーたちも伊達じゃない、一流?──否、それぞれが天才と称された者たち。
サーシャは空間に溶けた。巨大な氷塊の影に影を重ね、機体の輪郭を消し、舞踏のような動きでスリットを渡る。カメラが拾い損ね、実況が一瞬息を呑む。
【実況】
《……み、見えなかった……!》
【解説】
《幻影……いいえ、実体軌跡です!》
ヨアンは崩れる氷壁を穿つ。推進の衝撃波を一点に絞り、白い壁に穴を開けて突っ切る。散った氷の破片が光を撒き、後ろへ残像の尾を引いた。
【実況】
《力で道を切り拓く……!……あの速度で操縦桿から手を離し、撃つ……!!》
【解説】
《危険だが速いっ!》
ガルムはすれすれを舐めた。刃の縁をわざと轢き、翼端で氷の粉を爆ぜさせていく。いつ砕けてもおかしくない速度と角度。観客席から悲鳴にも似た歓声が上がった。
「うわっ!!……命が惜しくないのか……!」
そして、セシルの後方1.5秒、距離が開くがそれでも2位を維持し続ける、孤高の貴公子タリオ・ノヴァ。呼吸のテンポをわずかに変えた。故郷の記憶が、氷の光に裏返り「正面からでは勝てない」と、もう骨が知っている。
(ここは地獄だ。ならば、選ばなきゃいけないっ)
機体内のHUDの片隅、偽装したブースターに小さなアイコンが灯る。フレア・ドライヴ──戦場の兵器を小型化し、推進カバーの下に忍ばせた禁忌。起動すれば、無色透明なプラズマ衝撃波と電磁パルスが局地的に空間を荒らし、氷の迷宮は“自然”に崩れる。
(誤魔化せる……この地形なら……できる。やるなら……最期の峡谷で)
タリオは唇の内側を噛み、血の味を舌で確かめる。吐息が白く曇り指先が痺れる。胸の奥で友の名前を呼ぶ。
「……シルフィード」
機体の骨格が短く鳴った。彼の愛機は、わずかに返事をした気がした。
──控室の照明は落ち着いていた。遠くの歓声と歌声が壁を震わせ、舞台袖の空気をかすかに撫でていく。大画面のモニターには氷原を渡る機影が走り、拍手とため息がリズムを刻む。
「……すごい……」
メシエは掌を胸の前で固く組んだ。
アイは彼女の斜め後ろ、静かに立つ。瞳孔の奥、HUDに微細な乱れ。空間密度の揺らぎ、音圧の位相差、警備動線のわずかな崩れ。どれも致命ではない。だが、薄く重なるノイズは“意図”を帯びていた。
BOLRは会場外まで走り、アイの視界の端で、ヴィータ・ヌーダと思しき影の一人を追跡し続けている。
(これは……)
その時、突如として背後から迫る声。
「……メシエ嬢。少しよろしいか」
声に振り返ると、そこに立っていたのはジンマリウス・ヴァイゼルだった。貴賓席にいるはずの男が、なぜここに。メシエは一瞬言葉を失い、それでも足を止めてしまう。
アイは咄嗟に間に入る。
「ここは控室だ。関係者以外は──」
「関係者だとも。……君たちを守るためにね」
ヴァイゼルは微笑を浮かべた。
だが、その一歩目。歩幅、重心、靴音、声の揺れ。どれも僅かに本物と違う。
(……このタイミング……わざとらしい)
アイは即座に判断した。
「メシエ、こっちに」
メシエを背に庇いながら、アイは彼女を別の通路へ導く。誘導灯が弱く瞬き、人の出入りがないサービス用の搬入口へ。人気のない暗がりでヴァイゼルは歩みを止めた。
「……この先は誰も来ない。邪魔も入らない。話そうじゃないか」
その声が不意に低く歪んだ。外套の裾が揺れ、影の奥に別の気配が覗く。
「貴様はっ──!」
「わかっているのだろう? 先刻対峙したばかりじゃないか?」
黒いコートを纏ったアイは、声も仕草も、冷たい調子もケイそのもの。
「……ヴァータ・ヌーダ」
「……っ」
メシエは腰を落として、コートの裾にしがみつく。
偽ヴァイゼルは口角を吊り上げた。
「ふむ……君がノーメンを?いや、実に素晴らしい。君の気配は全く読めないね。ノーメンがやられるのも無理はないか。会えて光栄だよ」
──刹那、刃が閃いた。
横薙ぎ。頸動脈を狙った速さ。アイはわずかに頭を傾け、髪一筋で軌道を外す。すぐに左手で相手の手首を掴み、軌道を地面へ叩き落とした。
偽ヴァイゼルは体勢を崩さず、逆の足で踏み込み、膝蹴りを突き上げる。衝撃。アイの黒いコートが揺れる。だが崩れない。彼女の動きは、機械的な硬さではなく、研ぎ澄まされた人間の反射そのものだった。
「……なるほど、それがお前の」
「貴様に語る資格はない」
「君たちをここに足止めさせてもらう。それも依頼の一つだ。そして、私の願いは1つ……この手で君を殺したい」
次の瞬間、アイは右肘を短く叩き込む。肩口から落とすような角度。偽ヴァイゼルは腕で受けたが、骨に鈍い衝撃が走り、半歩退く。間合いを開け刃を構え直す。
「遅い」
狭い通路に息遣いだけが響く。アイの瞳は冷たい硝子のように光っていた──ケイならどう動く?無駄に力まず、相手の軌道を読む。真正面からではなく、わずかにずらして流す。その再現が完璧だった。
「……ぐっ」
偽ヴァイゼルが再度踏み込む。
縦一文字の斬撃。アイは斜めに身を捻り、コートの裾を翻すように避ける。その反動で逆の拳を突き込む。拳は刃の根元に打ち込まれ、金属音が火花を散らした。
突き、返し、組み、投げ。互いに一撃必殺を狙いながらも、ほんの僅かな差で外れる応酬が何度も繰り返された。観客がいないはずの通路に、戦場さながらの轟音が反響する。
やがて偽ヴァイゼルが低く笑う。
「…………何故だ人間……お前ほどの者が何故」
「答える必要はない、ノーメンにすらなれない者にはな」
アイは冷徹に返す。
更に肩口に肘を叩き込み、相手の呼吸を削ぐ。壁に激突した偽ヴァイゼルは血を吐き、それでも足を踏み込んだ。
「がはっ……だが、私の役目はこれにて……本隊は……すでに。ヴァイゼルは……くくく……あれは愛憎というにはあまりに醜い」
偽ヴァイゼルは笑う。
「……なら、ここで眠れ」
アイは足を刈り、掌打で胸を叩き、最後に肘を首筋に落とす。偽ヴァイゼルの喉はつぶれ、首が在らぬ方向へと折れ、その場に崩れ落ちた。外套は裂け、顔面が崩れ、床に滑り落ちる擬態迷彩。
──削除
「砕けた仮面、そして擬態迷彩の下に覗く顔……確か」
アイの情報網から瞬間的に引き出される犯罪者リスト。
この男、元A級軍人、爬虫属のアルザル・ルイエ──この男も殺しに囚われヴィータ・ヌーダに。ナイフには毒……ふふ、毒ですか。
微笑を浮かべるアイ。そして死体を一瞥すると、擬態迷彩を拾い上げ、黒いコートを翻して立ち上がる。その姿はまさに“ケイ”だった。だがメシエが震える声で呼んだとき、ゆっくりと表情を戻す。
「……アイさん……?」
「ええ、無事ですか?」
「は、はい……すみません、見ている事しか」
「いいんですよ」
アイの瞳はモニターを見据えていた。
「── BOLRは?」
裏ではアイがノーメンを一人狩った。しかしそれは……。




