記録85 影と焦燥
みんな、このレースに命を賭けている。
──控室の照明は落ち着き、遠くの歓声と歌声だけが壁を震わせていた。外の観客席では、今まさにセシルとライバルたちが砂漠を駆け抜けている。だが舞台袖にいるメシエには、その轟音も遠い世界の幻のように思えた。
メシエはようやく緊張の糸が少し緩むのを感じていた。各惑星から来たレースクイーンたちが笑い合い、ステージ裏のモニターに映るレース映像を眺めている。彼女に声をかけてくる者もいる。緊張の中で自然に返事を返した瞬間、メシエは悟った──この空間には敵意はない、と。冷えた汗が背中を滑り落ち、ようやく呼吸が楽になる。
アイはその傍に控え、無言で索敵を続けていた。HUDには心電波形、空間密度、動線の揺らぎが並び、どれも異常なし。だがその刹那、BOLRに赤点が走る。観客席から離れ、会場外へ向かう影が一つ。ノイズ混じりに姿を消していく。
(……消えた? 追跡困難……ヴィータ・ヌーダの可能性あり)
アイの瞳に微かな揺らぎが走る。しかしメシエの傍を離れるわけにはいかない。レオンからの依頼──それが最優先だ。奴らが直接接触してくるまでは、ここで待機すべき。
──短く通信を開く。
《こちらアイ。影を確認。会場を離脱。追跡は困難》
《……例の者たちか?》
レオンの声が会議室に響く。
《断定できません。しかし不自然な消失です》
メリサが低く問う。
《メシエは?》
《無事です。護衛下にあります》
──会議室の空気は重かった。
シャルロット家の離れ、厚い壁に守られた会議室では、レオンとメリサを中心に数人の貴族役員がデータを整理していた。レースの映像に釘付けになりながらも、誰もが「機密情報をいつ公開するか」の一点に集中していた──それはケイ、ジンマリウス・セシル・アルジェントが優勝する瞬間。その時を待つだけだ。卓上には光るデータパッドが幾つも散らばり、誰もが息を詰めてスクリーンを見つめていた。役員たちの表情には疲労と緊張が交じり、囁き声が飛び交い、端末の画面にはジンマリウス家や貴族院の動向が赤文字で更新されていく。
「この一瞬を逃せば全てが水泡に帰す……」
老貴族が呟く。
「委員会に突きつけるタイミングは必ず彼の勝利と共に」
別の役員が震える声で言う。重圧は全員を押し潰していた。
貴賓席に映るジンマリウス・ヴァイゼルの姿。ほんの僅かな仕草──視線の流し方、口元の動き。普段を知る者なら気づく違和感。隣席の貴族が眉をひそめかけ、すぐに打ち消す。アイのHUDにも〈パターン逸脱〉の警告が浮かんでいた。その微笑は、まるで人間ではない何かが背後に潜んでいるような不気味さを孕んでいた。
──深夜の砂漠を疾走する。
氷点下の冷気。砂粒は霜のように舞い、氷塊は月光を反射しながら浮遊していた。機体外殻には凍結が広がり、軋む音が金属の悲鳴のように響く。砂嵐は視界を白く塗りつぶし、計器のメモリは震えていた。タリオ・ノヴァのシルフィード・アルテミスは悲鳴をあげていた。酸素供給を絞り、吐息は白く曇り、心臓は胸を叩き続け、耳鳴りが絶え間なく続く。指先は痺れ、視界は狭まり、それでも彼は操縦桿を握り締めた。
(どうあがこうと、彼に…セシルには勝てない……)
心、技、体──全てがあの天才には及ばない。自分が磨き続けたものすら、彼の前では脆いと知ることが悔しい。だが、没落貴族の嫡男として背負ったものは重い。惑星の存在価値、血族の誇り。命よりも重いものを天秤にかけられているのだ。
周囲の選手たちも同じだ。誰もが人生を賭けて走っている。敗北すれば、家族や惑星に戻れない者もいる。だからこそ「勝たねばならない」という呪いの声が頭を支配する。
──タリオ・ノヴァ。
私は「孤高の貴公子」などと今では呼ばれている。出身は惑星アーヴェンタス。旧王政文化を色濃く残す幼い星の貴族の出だ。完璧な立ち居振る舞いと堅実な飛行だと評価され、応援してくれる者も増えた。しかし出資は乏しく、すべてを一人でこなすしかない。誠実にレースと栄誉を積み重ねてきたが──今は違う。今回に限っては、次が無い。他のレーサーたちも、命を削って意地でも勝利を掴みに来ている。
私の故郷、惑星アーヴェンタスは未開発の若い星だったが、銀河大戦がその歴史を変えた。赤銅色の砂漠と青白い大気、断崖にしがみつく古城の廃墟。そのすべてがかつての栄華の名残だったが、戦火はそれを焼き尽くした。異星人の介入で文化は急速に変質し、自然環境は荒廃。かつて城館に響いた舞踏の音も絶え、ノヴァ家の誇りは崩れ去った。屋敷も権限も人々の信頼も失われ、銀河統一暦に変わりすでに67年が経過したというのに、なお苦境から抜け出せず、ギリギリの状況に足掻き続けていた。
そんな時に生まれたタリオの才能は一筋の光となり、彼はこのレースの選手に選ばれ、惑星の導き手となる宿命を背負った。彼にとってシルフィード・アルテミスはただの機体ではなく、唯一の友であり、家族の記憶を繋ぐ存在だった。
幼少期、凍える夜に裸足で走らされた訓練。血を吐きながらもタイムを更新しろと命じる教官の声。食卓で父は無言のまま視線だけを突き刺し、母は俯いたまま一言も発さない。支援者から浴びせられる重圧、スポンサーの冷たい契約書。勝利だけが存在証明だった。拍手もなく、祝福もなく、ただ「勝て」と命じられた。自分は“選ばれた者”ではなく“作られた者”──その劣等感と虚無感が胸を締め付ける。
呼吸は乱れ、頭蓋に痛みが走る。心臓の鼓動は爆発しそうで、目の前のHUDは霞んでいく。タリオは思考を繰り返す。正々堂々と戦えぬ自分への嫌悪と、家族を救いたいという祈り。その二つが交錯し、己を苛む。視界の端は暗く狭まり、心音が爆雷のように響く。血の味が口内に広がり、吐息はもう悲鳴のようだ。
「……ならば、手を汚すしかないのか」
セシルを正面から超えられないと悟った瞬間、決意が芽生える。機体に隠された最後の手段──戦場で使われた兵器を小型化し、推進ブースターに偽装した違法兵装『フレア・ドライヴ』。見かけはただのブースターだ。しかし起動すれば周囲一帯にプラズマ衝撃波と電磁パルスを撒き散らす。
それは過去にはアーヴェンタスを燃やした最悪の兵器。都市全域の機能を停止させ、多くの部隊を沈黙させた惨劇もあった。その映像を少年の頃に見せられ、恐怖と同時に「勝つための力」だと教え込まれたのを思い出す。
タリオは震える唇で囁く。
「ごめん……シルフィード。君をこんな兵器にしてしまって」
唯一信じられる友のシルフィードを、自分を殺してまで、犠牲にしてまで得られるものは何なのだろう……。
「セシル、サーシャ、ガルム……みんな、私は……」
ヘルメットの下、タリオは唇に血を滲ませていた。呼吸は荒れ、瞳孔は開き、全身が震えている。限界を超えた肉体は悲鳴を上げ続けていた。HUDは警告を赤く点滅させ、心拍数は限界を超えていた。
──控室、アイは呼吸を整え、通信を切り替える。
ケイへ一本。
《──そちらの様子は?》
《ああ、問題ない》
《無理はしないでくださいね?》
《……誰に言ってる?》
《貴方しかいませんが……》
モニター越しに沈黙。
その時、メシエが思わず声を上げた。
《ケイ……さん!! 頑張って!》
短い間が流れた。
《……ああ》
その声は冷たくも確かに届いた。アイは視線を伏せ最後に付け加える。
《……今のところ異常はありません。しかし──ヴィータ・ヌーダ……予想以上に数が多いです。……時が来るのを待っている》
──通信が切れる。
控室には再び歓声が押し寄せた。メシエは声に押されるように視線をモニターに向ける。映し出されるのは砂漠を突き進むセシルの姿。彼が勝つことでしか未来を掴めない人々の運命が、今この瞬間に賭けられているのだ。
その頃、シャルロット家の会議室。役員たちは情報を整理し続け、いつ開催委員会に真実を突きつけるかを話し合う。焦燥に揺れるその視線の奥には、決意が宿っていた。硬く握られた拳、汗ばむ掌。誰もがその時を待っていた。
そして、貴賓席のヴァイゼルは静かに笑った。観客には気づかれぬ程度の微笑。だがそれが、舞台裏に潜む嵐の始まりを示していた。その笑みは、何か人外のものが覗き込んでいるかのように不気味だった。
そして、ケイは全てを見透かしているかのように、操縦桿を握ったまま、目を閉じる。
口角がふと歪み呟く。
「死ぬ気になってみろ……タリオ」
何かを成し遂げたければ……。
タリオ・ノヴァ 彼の過去もまた。
誰しもがつらい過去を持っている。
叶えたい未来がある。
ケイが言っていた、どれだけ正しくとも、叶えられるとは限らない。




