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記録84 決意と迷いの狭間で

タリオ・ノヴァ、彼は一体何をしている?

──雷雲の切れ間が裂けた。


(……く……たった7機だけ)


タリオ・ノヴァはヘルメットの下で唇を噛み締め、荒い呼吸を抑え込んでいた。視界の端には曇ったシールド越しに散る水滴が揺れる。


(……あれだけのマイクロドローンを撒いたにも叶わず、この展開か……皆流石だ。……あとは……あとはアレを使うしかないのか)


タリオは焦っていた――ケイが予測した通り、あの重力場の違和感はタリオが撒いたマイクロドローン、それはまさに局所型重力制御装置グラビティ・ポインターが雷雲内に散布され、機雷のように付近を通る機体のコントロールを奪い、墜落させたのだ。


しかし、ついに雷雲帯を超え、闇に紛れることは出来なくなった。彼の路はすでに別たれた。正当なレースを望むことは、もはや夢だ。


【実況】

《雷雲を突破!先頭は──セシル! 2位タリオ!3位ガルム!4位ヨアン!5位サーシャ!順位変動なし!》


【解説】

《雷雲地帯で何が起きたのでしょうか!? 先頭集団3機、後続4機がリタイア! やはりこのレースは自然の猛威にどう抗えるか。知恵と戦略こそ勝利の鍵です!》



──雷雲の先に、漆黒の海を背に蒼白の峰々が突き立つ。

大陸北端山岳──高空の冷気が機体の外殻を叩き、急激な気圧変化が骨格を軋ませる。風は鋭く、氷刃のように翼端を削っていく。雨は霧へ、霧は氷晶へ。湿度計が跳ね、温度計が急降下する。そして、重力場の影響により岩石が至る所で浮遊し、レーサーを翻弄する。


しかし、ケイは一切減速しない。凶悪な速度と操機術で尾根筋へ突っ込み、岩の歯列の隙間を縫って高度を上げる。乱気流が機体を揺さぶるたび、姿勢制御フィンが微細に動き、エンヴァル・シグマの反転重量エンジンが低く唸る。機体は風を掴むように、まるで生き物のように、舵圧の先へ先へと滑っていった。


背後から迫るガルムの目が細まる。

(ぐぬぅ……全て見られている……この若さで、どれだけの死線をくぐった?)


高空側からはヨアンが滑空角を殺して急降下。鳥人属(ガルーダ)特有の体幹制御でロールを抑え、翼を折りたたむような鋭い軌道から精密な狙撃を繰り出し、岩石を撃ち砕く。岩片は宙を舞い、銃弾のように襲い来る。


だがケイは背面飛行でかわし、そのまま機首を切り上げ乱流の上層へ飛び出す。逆光に晒された機影が一瞬だけ銀に輝いた。刹那、観客席から息を呑む音が漏れ、風音すら凍りついた。


サーシャの喉が鳴る。

(私のことが見えてるの??……まるで先の先まで読まれているみたい)


彼女はバイザーのHUD感度を下げる。眩惑、脈拍、酸素消費量──どの指標も限界に近いのに、ケイだけが速度を上げ続けていた。


そして、もう一つの疑念にそれぞれが困惑した。

(何をしている──タリオ・ノヴァ!!)


ケイは後方に纏わりつく気配の変化に独りごちる。

「……ふん。甘いな。何もかもが中途半端だ、タリオ・ノヴァ」


ケイの後方、タリオは焦燥に揺れる視界を必死に押さえ込みながら、無駄の多い旋回を繰り返していた。グローブの内側で汗が滲み、無線に混じるノイズにさえ敏感に反応する。ヘルメットの内側は呼気で曇り、酸素供給音が耳を刺す。シルフィード・アルテミスの安定した挙動を自ら崩し、いつもの彼ならば決して取らない角度を選ぶ。その乱れが追随する者たちの神経を逆に削っていった。


山岳の稜線が近づく。酸素濃度はさらに低下、風向は秒単位で反転する。先頭のケイは滑らかなラインで尾根を回り込み、冷静に前を抑える。切り立つ岸壁に翼端が触れるほど接近しても、軌道は微塵も揺るがなかった。


タリオはその後方0.8秒。迷いと苛立ちを孕んだ飛行を繰り返しながらも、半身ずらして影のように張り付き、違和感を抱えたまま飛び続けていた。


──尾根を抜ける。眼下には針葉樹林の濃緑が帯のように広がり、その先に寒冷砂漠の白が霞む。ケイは視線を逸らさず、次の旋回角と加速タイミングをもう決めている。稜線の風が呼気のリズムに同調し、筋肉に染み入る感覚。脳奥が疼き、五感が針のように尖る。



──そして夜が訪れた。

【実況】

《先頭集団、北端山岳セクションを突破!冷気の壁を破った! ここから時間軸がズレる! 陽光が沈むより早く──夜のとばりが降りていく!》


【解説】

《ここからは暗闇の中。針葉樹林帯、そして寒冷砂漠……気温差で機体の応答が変わる。着氷対策が甘い機は厳しいでしょう》


──樹冠すれすれの低空戦。樹海の湿り気がセンサーに薄膜を作り、地面効果が機体を持ち上げる。枝葉が擦れるたび、冷却音が夜気に滲む。瞬間、風が止んだ錯覚──心音だけが響く。


ケイはその浮力を逆手に取り、足首を返すような繊細な舵で機体を上下に揺さぶりながら後続との距離を細かく調整する。枝葉が翼端を掠め、細い緑の線が空中に弧を描いた。


ヨアンは寸分違わぬ角度で刺す縦の一撃を狙う。だがケイは樹冠のわずかなくぼみを読み、そこで機体を半拍、沈め、返す。ヨアンの刃のような進路はケイの腹を噛み損ね、空を切った。


(凄いっ……やはり……見えているのね!)

サーシャは歯を食いしばる。

旋回半径を縮めるため、一瞬スロットルを絞り直す。だが、そのわずかな減速すらケイは読んでいた。逆に後ろへ回り込み──彼女のHUDに警告が赤く灯る。


【実況】

《セシル選手、樹海の底で後続を置き去りに! 落ちない、揺れない、速い!速すぎるっ! 後続の動きを読み切っている、まさに天才の所業!!》



──そして寒冷砂漠へ。

風は乾き、砂は雪と混じり合って白金の霧を作る。熱波と冷気の境界で空気密度が跳ね、見えない波が押し寄せる。ここは直線、だが真っ直ぐでは勝てない直線だ。夜空には淡い星が瞬き、機体の金属が冷えて軋む音が微かに響く。


ケイの猛進は続く。肉体にかかり続ける強烈なG。砂の反射光は彼の視界を焼き、砂嵐の幕が斜めに走る。それにも関わらず一段と加速した。


ガルムが吠える。

(くっくく……アレはふつうじゃない!天才とかそういう次元じゃない。すでに人間を捨てている……まるで軍神だ!)



──その頃、舞台袖。

貴賓席を監視していたアイのHUDが一瞬空白を示す。BOLRスキャンが途切れた。


(……消えた?)


ジンマリウス・ヴァイゼルの姿が映らない。やがて何事もなかったように席へ戻り、貴族院や耳打ちされた者たちがわずかに肩を落として安堵の仕草を見せた。


(……何か仕込みましたね……一体何を……)



寒冷砂漠のチェックポイントを、光の帯が駆け抜ける。セシル、タリオ、ガルム、ヨアン、サーシャ──。

【実況】

《チェックポイント通過!上位6機、タイム差は紙一重! 鬼神に取りつかれた天才、ジンマリウス・セシル・アルジェント!》



──会場の照明が一段と明るくなる。夜の帳が降り、巨大スクリーンが宙を白く照らし返す。控室ではレースクイーンたちが戻り、ステージには惑星メリナが誇る歌手グループが登場した。光の粒が舞い、音圧が胸骨を叩く。


アイはその喧騒の裏で歩く。袖幕の陰、スタッフ動線、非常口。

通信は短く、そして淡々としていた。

《『Ordreオルドル del’Aubeローブ(黎明の騎士団)』、観客導線の再確認を。異常は?》


《無し》


《そうですか。ただ──視線があります。それも複数。警戒を》


アイの足が一度だけ止まり、そしてメシエのもとへ向かう。

彼女は小さく息を詰め、舞台袖の薄闇に立っていた。光の洪水が流れ込み、歓声が風のように押し寄せるたび、髪がかすかに揺れる。


「は、はっ、ハア……わたし、やっと踊り切ったよ……」


「えぇ、お疲れ様です……。メシエ様、報告が」


「えっ?……う、うん。どうしたの?」


「不穏な動きが見られます……この先、何が起ころうとも冷静でいてください」


メシエはその言葉に身の毛がよだつ。それは汗で身体が冷えたからではない。ケイが繰り返した言葉を、アイも言っている。彼女の心は再び深い沼地へと沈んでいく。

頼れるのは自分自身。誰が何と言おうと、目の前にある出来事をクリアしていくしかない。


私は利用する……敵意のある誰かを利用するんだ。

迷いが消えないタリオ、そしてその半端さをあざ笑う様に突き進むケイ。

圧倒的な気持ちの差。

勝敗を別つのは、己自身か。

そして、地上でも選択を迫られる時が迫りつつある。


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