記録83 暗闇の中で稲妻は路を別つ
何かが動き始める。
──雷雲の壁が迫る。
それは空を切り裂く巨大な黒刃のごとく、進路を無慈悲に塞ぎ込んでいた。無数の稲光が雲の奥で脈動し、断続的に外界を白骨のように照らし出しては、すぐに闇へ沈める。湿った風は鉄の匂いを孕み、キャノピーを低く震わせる。粒子を含んだ雨が外殻を叩くたび、衝撃は機体の骨格を通して腹の奥に響き、金属のうめき声のような低音がコクピットを満たした。
パイロットスーツの絶縁素材が直撃を防ぐとはいえ、落雷は敵だ。電磁干渉は計器を狂わせ、モニターは雪のようなノイズを撒き散らす。豪雨は外殻を叩き、乱流は揚力を奪い、閃光は視界を焼き切る。何より──周囲のレーサーが見えない。高度も進行方向も、平衡感覚すら掻き乱される。
それでも非人間種は違った。高空側のヨアンは鳥人属特有の三半規管と体幹で乱流の波形を掴み、踏み石を選ぶように旋回姿勢を保つ。後方の獣人属ガルムも暴風の突き上げを逆手に取り、推進力に変える巧みさを見せる。
一方、カルディナは苦しんでいた。
音で世界を読む彼女にとって、この区間は地獄だ。雷鳴、乱流、機体の軋み、自らの駆動音──全てが重なり感覚が飽和し、耳奥で“聞こえすぎた音”が反響していた。修正舵が半拍遅れ、そのたびに尾翼が暴風に叩かれる。
ケイは姿勢制御フィンを微細に動かし、雲の裂け目を縫うように機体を滑り込ませる。雨脚が細線となって視界を横切り、HUDは時折真っ白に塗り潰される。計器は信頼できない。頼れるのは機体の“呼吸”と、全身を駆ける微細な振動だけだ。
ヘルメット内、ケイの両目の隈が広がる。シンセサイザーが同調し神経系が活性化する。脳奥が疼き、血が熱を帯びる。五感が研ぎ澄まされ、微かな空気の揺れや遠くの律動まで鮮明に浮かび上がる。雨粒を数えられるほどの濃い触覚、稲妻の枝一本ずつの収束まで目で追える。しかしそれは嵐の暴力を余すことなく刻み込む両刃の剣でもあった。
稲光と雷鳴が同時に襲った瞬間、外殻を流れる異質な波動。自然の重力乱れにしては不規則すぎる。エンヴァル・シグマの反転重量エンジン──自制制御のコアも異変を告げていた。
……なかなかいい機体じゃないか。
グローブ越しに計器盤を撫でる。計器は狂ってもエンジンは語る──この乱れには意志がある。
雷雲に仕掛けられた罠、局所的な重力場の歪み──『グラビティ・ポインター』。潜入任務で近年使われ始めた局所型重力制御装置の応用だ。
稲光の中、暗闇に紛れて紺碧の機体が掠める──タリオ・ノヴァ。孤高の貴公子。その直後、背後でカルディナの機体がスピン。暴風に煽られたように見えたが、動きはあまりに唐突で制御を失い黒雲の底へと消えた。
二度目の交差。爬虫属蛇人種ルーベン・カストが同じ運命を辿る。湿潤環境と気圧変化に強い種族ゆえ、この区間を難なくこなせるはずの彼が、突然制御を失い、蛇のようにしなった機体が暗黒へ消えた。
観客席のホログラムにもその瞬間は映らない。順位表だけが静かに変動し、二人の名がリタイア欄に移る。
雲間を駆けるタリオを“気”で捉えるケイ。呼吸の間合いが風奥に滲み、稲光の瞬間に律動が輪郭を持つ。あの男はただ速いだけではない──命だけでなく周囲ごと賭ける破滅の匂い。
──まだ、俺には仕掛けてこないか。
距離も状況も一手ありき。それとも何かを待っているのか──雷鳴が腹の底を震わせ、雲が裂けた。
【解説】
《ようやく、黒雲を突破!》
会場全域に響く解説。
【実況】
《さあ、先頭集団が──》
漆黒の雲海を背に機影三つ。その翼には稲光が絡みつき、雲海の切れ間からこぼれる陽光が機体の輪郭を鈍く照らす。観客席のスクリーンには機体のアップと計器の映像が交互に映し出され、観客の熱気をさらに煽った。
観客席のあちこちで旗が振られ、チームカラーのスカーフや応援ボードが波のように揺れる。子供たちが声を張り上げ、老練な観客は双眼鏡を握り締め、固唾をのんでモニターを見つめている。前列ではカメラマンが一斉にシャッターを切り、その閃光が一瞬だけ夜のような照明を走らせた。
《1位セシル! 2位との差2.6秒! 2位タリオ、3位ガルム、4位ヨアン、5位サーシャ……きたきたきた!!なんとッ人間種が1位・2位独占!貴公子対決が始まります!》
舞台袖では黒いコートを羽織ったアイがBOLRを通して周囲を監視し、半径500メートルを常時スキャンしていた。スキャンの合間、彼女は客席の動きを横目で捉える。貴賓席でヴァイゼルが数名の貴族に耳打ちし、王の隣席から立ち上がる姿。その仕草に潜む含みをアイは胸の奥で記憶した。
そしてしばらくの間、貴賓席は静かな沈黙の様相を見せた。それとは対極的に、観客席が爆発的な歓声に包まれる。
王の隣席でジンマリウス・ヴァイゼルは片手の杯を傾けていた。琥珀色の液面が揺れ、そこに映る炎が細く伸びてはゆらりと消える。その目は映像の先頭集団ではなく、はるか別の一点を見据えている。
やがて、彼は静かに立ち上がった。足音は柔らかい。だが、周囲の空気は一瞬で重く沈む。王も、貴族院の重鎮たちも何も言わない──この男が動く時は何かが変わると知っている。
外套を整え、悠然と歩き出す背中は嵐を孕んだ海のような圧を放っていた。
──その動きを、群衆の奥から一対の瞳が見つめていた。ヴィータ・ヌーダ。視線は一度、舞台袖に向けられる。そこには背後に立つ、フードを目深に被った影──イレギュラー。だが、今はまだ条件が整っていない。ノーメンの脳裏にこれまでの監視で得た断片情報がよぎる。あの影が動けば確実に何かが変わる。ノーメンは唇の端をわずかに歪め、その瞬間を楽しみにしていた。
《……ジンマリウス・ヴァイゼルの離席を確認》
ノーメンは低く囁く。
《奴を追え。隙があれば入れ替わることもいとわん》
人波を裂くように、数名の影が動いた。
──廊下。
足を止めたヴァイゼルの前に、黒衣の男たちが立ちはだかる。その中心、白い微笑を浮かべるノーメンが一歩前へ出る。少し首を傾げて囁いた。
《……我らを待っていたな?》
《待っていたとも》
ヴァイゼルは微笑む。
《……お前たちは、ある人物を探しているのだろう?会わせてやろうか》
ノーメンの瞳が細まる。
《……何が目的だ》
《私が提示する条件を呑めば、だ》
一瞬の沈黙……やがてノーメンは頷いた。
《いいだろう》
その瞬間、静かな廊下に見えない契約が結ばれた。
互いに利用し、互いに嗤う者たちの間で──。
空と地で動き始める者たち。この先に待つ事とは?




