記録81 未来へのカウントダウン
いよいよ第2レースが始まる。
──人気のない奥まった通路で、ケイとアイは向き合っていた。
「これで敵は二人目のセシルを登場させることは出来なくなりました。あとは、あなたが天才を演じ表舞台を制するだけです」
ケイは薄く笑みを浮かべ短く答える。
「ヴィータ・ヌーダ……奴らはセシルを潰しに来る。裏でもオレを待っているだろう。お前はソレを狙う奴らを潰せ。偽メシエがもし現れたら──擬態迷彩を奪え。……舞台裏を歩くときはオレのコートを羽織って行けよ」
アイは無言で頷き、拳を握り、開いた。機械仕掛けの関節が静かに動作し、その滑らかな動きに狂いがないことを確かめる。胸奥で核融合炉が低く唸った。わずかな振動が胴から肩へ、肘から指先へと通い、確かな熱と力が全身を巡る。黒いコートの下で彼女の身体が淡く発光し、それをケイも視界の端で確認した。
「……了解しました」
朝焼けの光が差し込む控室の片隅。メシエは壁に背を預け、両膝を抱え込んで座っていた。結局、どれだけ自問しても答えは出なかった。
「世界のために」と皆は言う──けれど、本当は自分たちのために闘わなきゃいけないんだ。
パパも、ママも闘っている。私は何も知らず、ずっと自由に育てられてきた。貴族の娘だなんて実感するのは、他人の視線を受けたときくらいで……本当に自由だった。だからこそ頑張らなきゃ。
セシル……レース開始直前に「大丈夫だ」って笑ってくれた。世間は私たちを政略的な婚約者だなんて噂するけれど──そんなの、全然ちがう。いつも私のことを気にかけてくれるお兄ちゃんみたいな存在。
セシルがいない今、無事に帰ってきたときには「頑張ったね」って言ってあげないと……セシル、わたし、強くなるよ。
惑星メリナ──第2レース開催当日。
王都アナリヴォ高地街区の空は快晴、恒星エレイオスの光がアリーナ全体を黄金色に染め上げる。スタンドは既に超満員。小旗がはためき、露店の呼び込みと観客のざわめきが波のように押し寄せていた。無数のホログラムモニターが宙に浮かび、コース全景や選手の顔、最新オッズが立体映像で映し出されている。観客席では熱狂の渦が幾重にも重なり、エンジンの予熱音や風切り音と混じって低い振動となり足元から伝わってくる。
整備ピットでは、ジンマリウス家のチームが誇る純白の機体──エンヴァル・シグマが、事故前と変わらぬ輝きを放って佇んでいた。損傷した装甲は新たに研磨され、機体表面は陽光を反射して煌めく。翼端のマーキングも鮮やかに復元され、推進ユニットは低く唸りながらも力強く回転を維持している。その雄姿は、惑星メリナの技術力と結束力の象徴だった。
観客や関係者の間に「これこそ我らの誇り」という視線が走る。
【実況】
《スカイラントレース、いよいよ第2ラウンドの幕が開きます!》
【解説】
《第2部もまた32,010キロを走破する、縦軸“天頂の懐”──断続的に高低差のある“空の裂け目”を縫う、高度な航行技術が問われるルートです。変動する気圧に重力場、自然の猛威が選手を襲う!中盤には急峻な雷雲地帯、終盤には低軌道の氷塊群が待ち受けます!》
【実況】
《そして!皆さん、驚きのニュースです!まさかあの大事故から、奇跡の生還を果たしたこの男……!もうこの第2レース、惑星メリナの主人公は彼以外にいないでしょう!──ジンマリウス・セシル・アルジェントォォォ!!》
轟音のような歓声。モニターに映る“セシル”は堂々とスタートゲートへ向かっていた。事前の厳密な生体スキャンを何事もなかったかのように通過して。第一関門は突破された。
そして貴賓席。
正面に陣取るのは国王、その傍にはジンマリウス・ヴァイゼル、その隣に貴族院の重鎮たち、そして各惑星の代表者。重厚な装飾と静謐な空気の中、全員が胸の奥で静かに息をついた──生きている。幻影は完全に表舞台に立った。
そして、舞台には各惑星を代表するレースクイーンたちが姿を見せる。その中にシャルロット・メシエの姿。しなやかな一歩、正確な所作。観客席を見渡すその眼差しは凛として、あの事故を経ても威風は微塵も失われてはいない。批判していた者ですら、その奇跡にうっすらと涙を浮かべていた。
メシエは舞台中央へ進みセシルのもとへ駆け寄る。惑星メリナ全土に中継される映像の中で、彼女は迷いなくその胸に飛び込み、彼を抱きしめた。……次の瞬間、自分でも驚いたように目を見開く。興奮、不安、恐怖──そして期待と希望。絶望の底から吹き上がるように、抑えきれなかった感情が形を取った。
ケイ──否、セシルはすぐに落ち着きを取り戻し、静かに肩へ手を添える。
「……メシエ。お前たちにとっての闘いは、レースよりも舞台裏だ。覚悟しておけ。何が起こっても」
その声音は冷静で、しかし確固たる道標のように響いた。
「……うん。……ケイさんも……頑張って……」
メシエが所定の位置へ戻ると、上空の巨大ホログラムがカウントダウンを示した。観客席の熱気はさらに高まり、旗やサインが振られ、熱狂の叫びが空を揺らす。
《ファイブ!》観客席が揺れる。爆風のような声援が押し寄せる。
《フォー!》計器が緑に変わる。パイロットたちの操縦桿を握る指がわずかに動く。
《スリー!》エンジンが咆哮を上げる。振動が胸郭に響き、風圧が顔を打つ。
《ツー!》圧縮音と共に空気が焦げる匂いが漂う。
《ワン──》
《スタートッ!!》
解き放たれた光と衝撃波が一斉にゲートを越えた。爆風が観客席にも押し寄せる。その瞬間、エンヴァル・シグマは滑らかな加速で先頭集団の内側へ切り込み、右舷すれすれに他機をかわしながら第一コーナーへ向かう。後続機の一つが急上昇してポジションを狙うが、ケイは高度差を利用してコーナーの最短軌道を奪い取った。観客席からは大きなどよめきと歓声が重なり合い、アリーナ全体が震えるようだった。
その頃──アナリヴォ市街の影、閉ざされた一室。モニターに映し出されたのは、スタート直後の映像。そこには、堂々と駆け抜けるセシルの姿があった。
「……馬鹿な。生きていた……?」
低く押し殺した声が漏れる。拳が小さく震え、歯ぎしりが通信越しにも聞こえた。室内の空気は張りつめ、焦りがにじむ。
《惑星メリナは失墜したはずだ──》以前、ノーメンがそう断じた言葉が、今や虚ろな響きとなって返ってくる。
「メシエまでも……あの娘を拘束する意味は、もはやない。ならば──直接、セシルを堕とすしかない」
別の影が唇を歪めて応じる。目の奥には冷ややかな焦燥が宿っていた。足先で床を小刻みに打ち鳴らす音が静かに響く。
「再びあのイレギュラーが邪魔立てするようであれば──我々が全力をもって潰す」
一瞬の沈黙。そして、低く鋭い命令が放たれた。
「多少手荒な真似をしても構わん。我らのレーサーに伝えろ──なんとしてもセシルを堕とし、優勝せよと」
通信端末の奥で微かに笑う声。ヴィータ・ヌーダ──その名を持つ影たちが、再び牙を研ぎ澄ましていた。
ついにケイはセシルとして表舞台の空へと羽ばたく。
空の戦いと地上の闘いの火蓋が切られた。




