記録75 翌朝の静謐
空白の時間をお楽しみください。
「止まれ、誰だッ!名を──名を名乗れ!」
夜の闇を切り裂く叫びが、シャルロット家本邸の正門に響いた。
槍を構えた門番たちが警戒の色を強める中、門前の影が一歩、また一歩と近づく。闇に包まれたフードの少女。その足取りはふらつきながらも、確かな意志を感じさせた。
その顔が灯火の下で露わになる。
「……なっ、まさか……! ま、メシエ様──ッ!!」
瞬間、門番たちの動きが止まる。
「メシエ様が……戻られました!!」
報告の声が、邸宅の中枢へ駆け上がるように響き渡る。
続いて、その背後から姿を現すのは──フードを深く被ったひとりの男、そして冷静な眼差しを浮かべた銀髪の女性。沈黙──だが確実に何かが動き始めていた。
シャルロット家本邸/離れの会議室
レオンが叫んだ。
「なに!? いまなんと──!?」
扉の向こうから衛兵の声が響く。
「メシエ様が、正門に! ただちに確認を──」
その言葉を最後まで聞くより早く、レオンは立ち上がっていた。
「開けろ……扉を開けろ!」
会議室の扉が音を立てて開いた。
そこに立っていたのは──ボロボロのドレスに身を包み、顔にかすかな傷と疲労の色を浮かべた少女、そして彼女の背後に立つ、寡黙な影と無機質な光を湛えた瞳。
「……メシエ……!!」
その名を呼ぶ声が親族の中から漏れる。
一瞬の沈黙。それは喜びか、驚きか、あるいは信じられぬ安堵か──次の瞬間、レオンの声が空気を斬った。
「お前は……いや、貴公らは……いったい何者だ?」
鋭い視線がケイを貫く。
ケイは無言のままフードを外す。その顔に刻まれた、吸い込まれそうになる程に暗い瞳、その闇に浮かぶ色鮮やかな髪に、誰もが言葉を失った。
その時かすかに震える声が割って入る。
「……彼が……助けてくれたの」
それはメシエの声だった。
「パパ……ママッ……」
彼女は走り寄り、両親の手前で崩れ落ちる。
レオンとメリサはメシエを抱きしめ、髪を撫で、涙を滲ませ、何度も何度もメシエの名を呼んだ。そこには先ほどまでの憤慨した男の姿は無く、親としての優しさに満ちた姿しかなかった。
震える手でレオンの袖を握りしめ、少女は嗚咽をこらえながら言った。
「わたし……怖かった……でも、彼が……」
言葉が途切れ、彼女はそのままレオンの胸に顔を埋めた。誰もがその場から動けずに見守っていた。
「……よかった」
「メシエ様」
親族から皆皆まで一様に安堵の声を漏らした。
──だがその沈黙をひとつの映像が破った。
「記録ログ、再生を提案します」
淡々とした声でアイが手元のホログラム端末を開いた。
空中に浮かび上がるのは──数時間前、あの施設の中で起きたすべての記録。画面が暗転し光が点る。真実が静かに語られ始める。
「パパ、ママ……コレをみて。きっとこの人たちを信じられるから」
──深夜、ルミナステーション地下/旧補給港下層エリア
金属の足場に濡れた音が響く。ケイは片腕にメシエを引き連れ、もう片手で逆手のナイフを握りしめたまま、闇を切り裂くように走っていた。
蒸気が漏れる配管の間をすり抜けながら、彼の眼は一瞬たりとも死角を許さない。先を走る小型球体型偵察ドローンBOLRの光が脈打ち、空中にホログラムの立体マップが投影される。
《ジャミング解除確認。施設の監視網、死角多数。今なら抜けられます》
ようやくアイの冷たく鋭い声が通る。
「──最初からそのつもりだ」
ケイの声は低く、乾いていた。
施設内では今まさに警報が鳴り止んだ直後。敵はノーメンの死、そして封鎖扉の強制開放によって騒然としていた。指揮系統は既に再編成に動いており、追手たちは施設全体に散らばりつつあった。
だが、ケイはそれを読み切っていた。
「アイ、南通路の反応は?」
《消失。あなたが排除した死体ですね。通過した跡のログと一致》
──そう。彼はすでに侵入時に複数の敵を殺していた。静かに、速やかに、躊躇なく。潜入の段階でケイの頭の中には“出口までのルート”が刻まれていた。そして、それを阻むものは全て切り捨て済みだった。
《敵の再配置は完了しつつあります。現在、私が確認できる追手は3部隊構成。中規模チーム、各6名。進行経路は検出可能です》
「……かえって好都合だ」
敵は複数名のチームで動いていた。だが、それは逆に彼らの隠密性を削ぐ結果となっていた。統率された動きは、逆に予測しやすい。
ケイにとって──それが何よりの利点だった。
《接触回避ルート、表示します》
アイの指示に従いケイはひとつ路地を曲がる。背後の暗闇には、足音すら感じさせない“プロの追跡者たち”が迫っていたが、ケイは既にその裏をかいていた。スニーキング──確実に動きを読み、確実に隠れ、そして必要なら確実に殺す──それが、ケイの“日常”だった。
メシエはただひたすらに、必死に彼の後を追いかけるだけだった。何かを発することもできない。動きが早すぎるのだ。
そしてこの夜、彼を止められる者はいなかった。
──その頃、中央管制棟
副隊長は無線機を手にし静かに呟いた。
《……私が、次のノーメンとなる》
その眼には決意と憎悪の光が宿っていた。
《全ての経路を遮断せよ。たとえ内部の者が巻き込まれようと構わん。あのイレギュラーを逃がすな》
その命令とともに、施設各地の脱出口に鋼鉄のシェルター壁が降り始めた。
ケイが出口目前の通路に差しかかったそのときだった。
──カシィン──
耳をつんざくような金属音。
前方に三枚あるシャッターのうち、第一、第二が駆け抜けた直後に閉鎖。だが、三枚目の厚い扉が目前で音を立てて降りてきた。
「……あっ……」
メシエが壁を叩いた。
「……っ、ダメ!どこにも、隙間もないよ」
ケイは静かにメシエを振り返り、片手で“下がれ”と示した。そして扉の前に立ち、呼吸を整える。
シンセサイザーが周囲の音を消し、彼のシステムと同期する──神経系が活性化し、ケイの目の下の隈がさらに濃く、深く、広がった。
彼は、何も触れずに、扉の前で“開ける”という仕草をした。
メシエには、何が起きているのか理解できなかった。だが、うなじの産毛がざわめき、皮膚が波打つような生理的な感覚が襲った。彼女は直感する──目の前で、“特別なこと”が起こっている。
祈るように、彼女はケイの肩に手を伸ばした。
「……っ、邪魔するな」
低い声に制される。
「ふ……ん……」
扉は重かった。
シリンダーがロックし、複数の機械構造が閉ざしている。その質量は数トンに達する、だが……。
──ゴゴゴゴゴ……──
音が鈍く震えながら空間に響く。扉がゆっくりと、だが確かに開き始めた。
メシエはもう、祈ることしかできなかった。「扉よ開け」と、ただそう願いながら背後で彼を見つめることしかできなかった。
──グンッ!!
音が跳ね、ケイの腕が震え血管が浮き上がる。隈が波打ち、何かを強引にこじ開けるような圧が発せられた。重々しい金属の音を最後に、扉が一気に開ききった。
ケイはその場で小さく息を吐き、汗を拭いながら、ゆっくりと手のひらを見つめていた。
──数分後
再び静けさを取り戻した通路に、複数の足音が重なる。降りきったはずの扉の前に、副隊長と数名の部下が立ち尽くしていた。無残に歪んだ装甲、ロック機構を強引に捻じ曲げられた扉の痕跡。
《……ほお……どうやってこんなことを?》
ノーメンが呟く。その眼差しは鋭く、そしてどこか愉しげですらあった。
《強化人間か? それとも──》
ノーメンを殺し、メシエを奪い、音も気配も残さず、そしてこの扉を開ける。
《こいつは……単独行動、スニーキング、暗殺能力に、このパワー……》
ノーメンは視線を前方へ向けたまま、かすかに笑みを浮かべる。
《……必ず、見つけ出す》
……それから更に数時間
ケイはメシエを連れ、人目を避けて身を潜めアイとの合流を待つ。
すでに陽は昇り、レース事故の騒動と各陣営の混乱が拡大していたが、ケイはそれすら遠い出来事のように感じていた。
そしてようやく、通信音と共に地下通路の奥からひとつの影が姿を現す。
「合流完了。こちらもデータ収集はおおむね完了しました」
それはアイだった。一般人の装いのまま、周囲を慎重に確認しながらケイとメシエに近づく。
「南方区画の空き家に偽装経路を通しておきました。一般人に紛れて、元々用意していた宿まで戻りましょう」
ケイは頷く。
「……ああ、ここで足を止めるわけにはいかない」
──やがて、宿の一室
日差しが薄く射し込む簡素な部屋で、メシエはベッドに腰掛けていた。外の光を見つめながら、ぼんやりとした表情を浮かべている。
「……そう……あっ!ねえ……どれくらい……時間が経ったの……?」
呟きは、自分でも気づかないほどにか細かった。
その手が窓枠に触れたとき、不意に目が見開かれる。
「……パパ……ママ……」
そして、名を呼ぶ。
「……セシル……っ」
しばし沈黙のあと、はっとしたように振り返る。
「そうだ、レースは!? レースはどうなったの……!?」
ケイが静かに答える。
「……事故があった。セシルは──墜落したらしい」
それ以上の詳細は語られない。だが、たった一言でメシエの心に、再び波が立つ。
──もう“元には戻れない”と知るには、十分すぎる言葉だった。
メシエにより語られる昨晩の逃走。
彼女の言葉はシャルロット家に届く?
ケイとアイはシャルロット家で何を成す?




