記録74 世界はまだ、何も知らない
光と影が交錯し始める。
メシエが誘拐されてから約15時間が経過していた。
貴賓席ではジンマリウス家、そして貴族院の者たちが静まり返っていた。突如、席に備え付けられた情報端末が一斉に点灯し、惑星メリナの代表のみにAI音声が流れる。
《──お前達の隊員は始末した。シャルロット家に告ぐ。娘を救いたくばこれ以上の介入を即刻辞めろ。ジンマリウス家に告ぐ。セシルの明確な敗北を演出しろ。そうでなければ、メシエは死に、セシルはこちらで手を下す……そして》
ヴァイゼルはその音声を聞きながら、影の失敗を悟り額に汗を滲ませる。拳が震え手の甲が白く染まっていく。心の中で叫ぶ──
セシル……。
一方、シャルロット家の別室では、レオンが報告を受けテーブルを激しく叩いた。
「どういうことだ……!?これではすべてが……! ヴァイゼルはやはり娘を“諦めろ”と言いたかったのか……?これでは敵の思うつぼだ……」
怒りに震え、レオンの視線がモニター越しに貴賓席のヴァイゼルを貫く。そして背後に並ぶ王侯貴族の者たち。貴族社会の闇、汚された舞台。その怒りは頂点に達しようとしていた。
「く、所詮私は金のために……。私は……私は構わぬぞ!娘を救えれば他に何もいらん!お前達ッ、アレを準備しろ」
──それは、情報だった。
この一連の出来事、メシエ誘拐、セシルの墜落、そして外部勢力の圧力。それらすべてを証拠としてまとめ、オリンピア開催委員会および惑星政府へ提出する。
惑星メリナの威信は確実に傷つく。だが、レオンはそれでも構わないと決意していた。このまま黙って従えば、一人娘すら救えない。
「これが貴族社会の現実なら、我らは抗う。ただ、それだけだ……」
──同時刻、高度4,500メートル
すでに昼前、陽光は海面を照らす。大海を渡り視界に映る大陸の沿岸部。
轟音が宙を揺らす。複層構造の空中トラック、その最終セクション。空を斬り裂くレーサーたちのエンジン音が尾を引き、メリナ全土の観客席からは歓声が飛び交っていた。
上空の巨大ホログラムには、現在順位と各レーサーの顔、機体情報が映し出されている。その中で、一機──セシルの駆るエンヴァル・シグマは、深刻な損傷を抱えながらも空を舞っていた。
「……見えてきた……ゴール区間」
唇を噛みしめながら、セシルは操縦桿を握る両手に力を込めた。機体の左翼は既に変形し、軌道制御が満足に働いていない。
「頼む、あと数分でいい……」
背後では火花が散り、エンジンが悲鳴を上げる。視界に表示されるのは、限界点を越えたパーツの耐久情報。それでも、彼はアクセルを緩めなかった。今はただ、走りきることだけを考える。
だがその瞬間、目の前のホログラムスクリーンが切り替わる。
映し出されたのは黒髪の少女。
美しく着飾られた衣装。
その背後には舞台──そう、あの“仮面のメシエ”が、虚ろな目で踊っている姿だった。
「…………ふ……なんだ……メシエは無事じゃないかっ……いや、まてッ、まさか!!」
セシルの全身から血の気が引いた。
「メ……メシエ……? 違う……違う違う……そんなはず……そんな馬鹿な!」
鼓動が速まり、視界が揺れる。
「これは……誰かが……!嘘だ」
姿かたちはメシエだった、誰もがセシルを応援するヒロインの姿に感動し声援を送っていた。だが、セシルはその僅かな映像に気が付いてしまった。
(敵はコレを待っていたのか?こんな形で……くそっ……)
その瞬間、機体の右バランスブレードが限界に達し破砕音と共に脱落。
「しまっ──」
機体は急旋回からの横滑りで空中を逸脱。バランスを崩しながら、セシルは必死に制御を試みるが間に合わない。エンヴァル・シグマは、空中ゴールラインの手前でスピンしながら通過し、そのまま地上へと急降下した。
「くっ……う、わあああああああっ!!」
光が弾け、爆発音と共に観客席がざわめきに包まれる。
ホログラムには〈ゴール判定・保留〉の赤文字が踊った。
【実況】
《じ、事故か!?ジンマリウス・セシル・アルジェント、ゴールラインは通過したが──……墜落だ!墜落しました!!》
実況はまさかの展開に声を震わせる。
《いったい、一体何が起きたというのでしょうか?機体は損傷していましたが、彼の技術と最新鋭の機体……信じられません……》
言葉を詰まらせる。
衝撃の中で、セシルは朦朧とした意識の中で呟いた。
「……あれは……メシエじゃ……ない、あんな姿を……僕は、僕は何か誤ったのか……」
彼の意識が、闇の中へ沈んでいった。
だが、その直前──メシエのことだけではない、様々な顔が脳裏に浮かんだ。
父さん、厳格ででも誇り高くあろうとしたその背中。
母さん、時折寂しげにけれど優しく微笑んでくれたその姿。
そして……誓ったはずだ、この勝利の意味。
──負けるのか?
心の底から湧き上がる問いと共に、最後に浮かんだのはどこかで震えているメシエの姿だった。
「皆を……守りたかった……だけなのに……」
──その光景を、遠く時計塔の上から見ていた者がいた。
アイはアマデウスを駆り、ゴール地点まで赴いていた。静かにその事実を確認しながら、情報の一部を抑えたまま黙して言葉を発しなかった。
そして、会場。
快晴の空に流れる白雲、ただ観客たちは一様に息を呑み、貴賓席も沈黙に包まれていた。
王の席では、統治者としての面影を湛えた男が目を細め、無言でモニターを見つめる。その傍ら、ジンマリウス・ヴァイゼルは愕然とし、拳を震わせていた。シャルロット家の席では、重々しい沈黙が広がる中、貴族院の高官たちも顔を見合わせ言葉を失っていた。
この大会を中継で見守っていたメリナ各地の民も、思わず声を失い、誰もが動揺していた。
誰もが見ていた。
仮面のヒロインが舞う中、英雄が墜ちたその瞬間を──。
溜め息が漏れ、不安が走り、そして、どこかで誰かが、何かが壊れ始めていた。そして、視線が一つの人物に集中する──ジンマリウス・ヴァイゼル。
貴賓席の沈黙の中、確かに彼はそれを感じ取っていた。王の視線が静かにこちらへ向けられ、貴族院の一部の者たちは互いに囁き合いながら、誰かが王の耳元に何かを告げている。
視界の端に映るその仕草に、ヴァイゼルはわずかに息を呑んだ。誰も口には出さないが、すでに空気は変わっていた。まるで、敗北という事実を前に“責任の所在”を探し始めたかのように。
彼の背中に、無言の冷気がまとわりつく──英雄が墜ちた。その重みがジンマリウス家をゆっくりと呑み込もうとしていた。
──静寂。
あらゆる音が遠ざかっていく。
歓声も、風の音も、意識も。すべてが薄らいでいく中で、ただひとつ──誰かの泣き声だけが耳に残っていた。レースの終了を告げるホログラムが空に浮かび、地上では次々と応急処置班が動き出す。
そして、ひときわ大きな衝撃があった地点に一機の医療艇が降下した。
オルテンシアは叫びながら駆け寄る。
「セシル!!」
セシルは担架の上で意識を失っていた。左脚は異常な方向に曲がり、ヘルメットは割れ、血が頬を伝っていた。だが、それでも生きていた。
「……なんて無茶を……!」
オルテンシアはその頬に触れながら涙を堪える。ドクターたちが冷静に、だが急ぎ足で処置を施し、担架をそのまま医療艇へと運び込む。
その光景を遠巻きに見つめる観客たち──そして、モニター越しの全銀河が凍りついたように沈黙していた。
──それから数時間後。
ジンマリウス家の屋敷、最高会議室には重苦しい空気が漂っていた。
円形の長卓を囲むのは、ジンマリウス・ヴァイゼル、そして貴族院からの代表者数名。
無言のうちにホログラムの資料が再生される。セシルの墜落、仮面のメシエ、そしてヴィータ・ヌーダからのAI音声による通達の記録。
「……このような形で、息子が“敗北”させられるとは……」
ヴァイゼルは低く呟いた。
目を伏せ、組んだ掌が小さく震えていた。
「オルテンシア様は、どちらへ?」
ひとりの高官が、声を潜めて尋ねた。
「……世間へは“セシルは軽傷”という報告を通してある。今頃、どこのメディアもその話題で溢れているはずだ」
ヴァイゼルはゆっくりと目を閉じた。
「オルテンシアは……セシルのもとへ、病院にいる」
室内の空気が、いっそう重く沈んだ。
だが──この敗北に、終わりはまだ来ていない。
そう、誰も知らないだけで。
情報操作はすでに済んでいる。だが、オルテンシアから通信が入った。
《あなた、セシルは……全てのために、何故こんなことに?!……どうしてぇッ!そこまでして守らなければならないの? あの子たちに、こんな役割を。あまりにも酷すぎるわ……》
「セシルは?」
《……何とか呼吸器で……でももう飛べない。飛べるわけないでしょう? あの高度と速度で落ちたのよ? 情報操作? どうするの? 次のレースをどうするつもり?!》
「……それは今、考えている」
拳を握る音がわずかに響いた。唇を噛み締め、ヴァイゼルの口元から血が滲む。
(レオン……貴様が余計な真似をせねば──)
「……今後の方針はいかがいたしますか?」
高官のひとりが慎重に口を開いた。
「……それについては、追って整理する」
その声音にはどこか政治的な気配が滲んでいた。
そしてまた、会議に参加する数名から同じような声が上がる。
「責任を追及する声は避けられません」
「ジンマリウス家としての対応を貴族院は早急に求めています。どうか、手立てはないのでしょうか?」
重ねられる言葉にヴァイゼルはただ黙して耐えるしかなかった。
──同時刻、シャルロット家本邸/離れの会議室。
シャルロット・レオンは円卓に親族と信頼の置ける部下を集めていた。
「……我らは惑星の秩序よりも、大切なものを見誤ってはならん。メシエの命を失えば、すべてが瓦解する」
テーブル上には“アレ”──すなわち提出予定の内部記録データ。 メシエの中継元の解析ログ、脅迫音声、複数の通信痕跡ログ、全てが整えられている。
「これを提出すれば、惑星メリナの威信は確実に損なわれるだろう。しかし──」
レオンは周囲を見渡し、そして静かに言い切った。
「我らシャルロット家は“正しき怒り”を持って動く。黙して見過ごす者たちの中で、我々だけは、抗わねばならん!」
誰もがその言葉にうなずいた。
「……そうだろう?」
──そして、全く異なる場所でそれぞれの妻が同じ言葉を吐いた。
「どうしてこのようなことに……。私たちはよき家族、よきパートナーであったはずでは?」
そして、またそれぞれの主人であるヴァイゼル、そしてレオンも、偶然か必然か全く同じ言葉で周囲を、己を諭した。
「……過ぎたことを、何を言ってももう遅い。それよりも守るべきものを守らねばならん!──第2レースは3日後だ」
それぞれがそれぞれの守るべきもののために。
街では、そして世界では、この出来事が瞬く間に拡散され、大きなニュースとして報じられていた──ジンマリウス・セシル・アルジェント。若き貴公子、期待のエースパイロット。そのまさかの墜落劇に、メディアは一斉にその名を取り上げる。
惑星メリナが掲げていた、オリンピア本戦の開催権──その獲得の可能性は、わずかに二割にも満たないとされていた。だが、それでもメリナ政府は莫大な資金を投じ、大規模な会場と厳重な警備体制を敷いていたことに違いはない。
評論家たちは語る《前代未聞の事故だが、システムの不備ではない》と──何も知らずに。
この裏で、何が進行していたのか誰も知る由もない。
やがて、非難の矛先は一人の男に集中してゆく──ヨアン・マルストロム。彼が引き起こした混乱、その後の衝突。すべての元凶が彼であるという論調が世間の口を覆い尽くしていた。だが、それもまた仕組まれた情報の一部にすぎなかった。
影はまだ潜んでいる。
その者は、密やかに通信を開く。
《──セシルの件、完了しました。墜落は既成事実に。生死は問われておりません。これでレースの障害はひとつ消えました。あとは……優勝するだけです》
重ねて、通信の向こうへ報告する声が続く。
《……ただ、ひとつだけ、イレギュラーが潜入。目的は不明ですが、シャルロット・メシエを奪われ、ノーメンの一人を失いました。我々は対処に移ります。ご安心を、惑星メリナはもはや脅威ではありません。レースの方は……お任せします》
《……それでは──我々は“イレギュラー”を仕留めに参ります》
そして通信が音もなく遮断された。
名を持たぬ影たちが、静かに、だが確実に舞台裏を掌握してゆく。誰も知らぬその水面下で“真の開幕”が静かに始まろうとしていた。
優勝候補筆頭、セシル。
全てが彼の中で爆ぜた。
事故、そして敗北。
歯車は大きく狂う。




