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記録73 世界が歪む時、現実の狭間で影は踊る

ついにケイはメシエの元に。

ケイは扉を前にしてその場に立ち尽くす。彼は扉に手をかざすと、袖に付着する血液が目に入った。

そして、無言で舞う。黒いレインコートの裾がふわりと空気を切った。

飛沫を浴びた布地から、乾きかけた血が弧を描いて舞い、壁を濡らし床を彩った。


「……は、気持ちわりぃ」


(くだらねー……殺しは殺しだろ。それ以上でも以下でもないだろ)


ケイはそう思いながら、無言で封鎖された扉に手を添える。ノーメンは鍵を持っていなかった──ならば、自分の力で開けるだけだ。

耳鳴りが脳を刺激し、シンセサイザーが心象を同期させる。両目の隈がジクジクと皮膚の下を這う無数の蛇の様に広がり鈍痛が響く。そして、手袋越しに扉へ掌を添え軽く肩を回す。それは無造作な動きだが次の瞬間──ギシリ、と内部構造が軋む音がした。

更に腕に力が込められる。筋肉が沈黙のうちに収束し、静かに、だが確実に機構が歪む。


「……開け」


呟きと共に、扉の隙間がわずかに押し広げられる。ギアが崩れ、電磁ロックの青白いスパークが迸る。


ガクン……


鋼鉄の扉が震え、セキュリティの軸が限界を迎えた。


ゴゴゴ……ギギギ……


低く唸るような音を立てながら、封鎖扉が左右にわずかにスライドした。冷気が一筋、内部から漏れ出す。


その直後。


「──誰!? ……来ないでっ!」


少女の声、その震えと恐れに満ちた声が、閉ざされた室内から漏れ聞こえた。


ケイは扉の隙間から室内を一瞥する。決して広くはない見室。壁の一角には監視用のカメラが据え付けられており、黄色い警告灯が点滅していた。

監視されている──それを示す電子音が、わずかにモスキート音のように空気を震わせている。


ケイはただ一度、そのカメラを見た。睨むでもなく破壊するでもなく、そこに意味を見出す気すらないように無言で前へ歩み出る。そして、ケイが見つめる先には黒髪の少女。きらびやかな衣装のまま、隅に立ち尽くしていた──まるで、舞台が終わった後も幕が下りずにいたかのように。……しかし、その顔は……。



誰かの足が暗闇から伸びてくる。

メシエは反射的に後退し、壁に背中をつけた。


「……っ!」


彼女はすべてを恐れていた。ここに視える全てが、鏡の中の世界の様で何ひとつ信用できなかった、

そして、黒いコート──その記憶が、胸を締めつける。ずっと見られていた……ただ……。


「あ、あの時の……やっぱりあなたが……」


わずかな沈黙。視線を落とす彼女は、小さな息を吞み込むと正面を向き、ケイの目を、瞳を見つめ返した。


「……ううん、違う。あなたは……わたしに抗えって……」


ケイは顎先を挙げ、一歩前に出る。そして無言のままフードを下ろした。


「あ……」


彼女の目に映る彼は、エメラルドの髪と色白の肌。深い隈のある両目と冷たい視線──同じ人間なのに、まるで違う生き物。でも、何か不思議な気持ちだった。


(何、このヒト……でも、何だろ……安心?……ううん……)


そう、それは恐怖ではなかった。その心臓が抉られたような衝撃、自分の顔がどう変わってしまったかなど、どうでもよくなるほどの動揺。

だが、ふいに現実に引き戻される。ケイがさらに一歩、また一歩と近づいたその時──背後にある鏡が視界に入り、自分の顔が映り込んだ。


「……! やめてぇっ! 近寄らないで……っ」


ケイは何も言わず静かに歩み寄り、三歩手前で足を止めた。


「メシエ……シャルロット・メシエ。お前を、ここから出してやる」

低く、片言のような声で囁いた。


「え……? あ……わたしのことが……?」

「……」


「わたしのことが、わかるの?」


「……何言ってる」

「だ、だって……」


「……ああ、その顔のことか? 目を見ればわかる。中身は変わっちゃいねえだろ」

「……なに言って……?」


「何だっていい。お前はメシエだな」

「は……はい」


「ふん……それは『擬態迷彩』だな」

「ぎ、たい……?」


「貸してみろ」


ケイは無言で手を伸ばす。メシエはその手が異常に巨大に見え、声にならない恐怖で言葉を詰まらせて両手で頭を隠した。だが、ケイの手のひらは彼女の首筋に優しく添えられる。

メシエが、ハッと目を開けた次の瞬間、ナイフが一閃。


「……っ!」


彼女の首元が一瞬ざわついた。何かが浮き上がるような、粘膜のような違和感。メシエは目を閉じて仰け反り、しりもちをついた。


ハラリと落ちたのは──肌のうるおいを模した、薄膜のような擬似皮膚。


「な、に、コレ?」

「……どうだっていい。早くここを出るぞ」


「な、なんで、だ……誰なの?」


「知りたいなら、まずはここを出ろ。話はそれからだ」

「……っ、う、うん」


「ついてこい」


しかし、部屋を出ると、そこにはノーメンの遺体があった。血飛沫が辺り一面に飛び散っている。

静かに、だが激しく絶命している。


「っ!!あ、あ……」


メシエは大きく目を見開き、瞳孔が拡大する。見たことの無い光景に言葉を失い息を詰まらせる。

ケイは脚を止め振り返ると、コートの裾が煽られ、腰に下がるナイフが一瞬だけ覗いた。


彼女の表情が強張る。

「それ……これ……殺したの?」

「ああ……それより急げ、怖がってる暇はない」


ケイはメシエの目を見据え、冷ややかな声で繰り返す。

「……いいから走れ」





──その時、警告灯が黄色から赤へ、そして点滅速度が一段と速くなる。高周波のアラートが施設全体に響き渡った。


「……警報がっ」


メシエが思わず立ち止まり、ケイは振り返ることなく答える。


「気にするな。追っては来ない」

「えっ?」


ケイは足を止めず、薄暗い廊下を進みながら続けた。

「ここはただの裏通り、見栄も脚本も関係ねぇ。お前らが見ている世界の外れだ。ただ、誰がどこで刺すかってだけの話だ」


ケイは目を伏せ、誰にも届かぬ問いを胸の中で呟いた。

──そして、刺されるのは……お前か?……いや、違うな。シャルロット家か、ジンマリウス家か、はたまた、この星そのものか──あるいは、セシルか。


どこの世界も同じだ。誰かが誰かを貶める。手を差し伸べるふりをしてその背を刺す。刺されるのは……信じた側だ──


「おい、お前……覚悟はしておけ」

「どういう……こと?」


「シャルロット家、ジンマリウス家、そして──あの影の組織。誰がここを制するか……誰が、自分の“象徴”を持ち帰るか、だ。……娘、星の威信、任務の完遂──三者三様の欲と焦燥が交錯してる。それが今のこの静寂だ。お前はただ見ている事しかできないだろうが……覚悟は必要だ」


メシエの足がまた止まりかける。だがケイは振り返らず、冷たく言い放った。


「生きたければ、歩け」


その言葉に押されるように、メシエは再び走り出す。





その頃、別の通路──煙がわずかに漂う死角の廊下で、数名の兵が崩れ伏していた。

左腕に太陽の紋章を刻んだシャルロット家の精鋭──『Ordre(オルドル)de ()l’Aube(ローブ)』、黎明の騎士団。

そして、黒衣に王冠の影を背負うジンマリウス家の切り札──『L’Ombre(ロンブル)Couronnée(クラネ)』、戴冠の影。


本来ならば、どちらも名家を支える最強の尖兵だったはずの者たち。不確かな情報の中、互いに殺し合い、罠に嵌り、血を流し、もはや戦う意思すら残っていない者たち。


そして、薄れゆく意識の中、戴冠の影の隊員が気が付く。

《……あ……くっ、き、貴様ら……『ヴィータ・ヌーダ』……か……》

その小さな吐息程の言葉を吐いて絶命した。


その中を、黒装束の影が一歩、また一歩と進んでいく。ノーメンと同じようにそれぞれが瞳の無い沈黙の微笑を浮かべた仮面を被る。黒いナノ繊維のスーツが身体に密着し、関節部には人工筋肉が組み込まれていた。その輪郭は人の形をしていながら、わずかに“ズレ”たような違和感をまとっている。仮面に覆われた顔、その仮面の下には緻密なバイザーが仕込まれ、熱感知・音響補足すべてを統合する。動くたびに装甲の接合部がわずかに動き、音もなく軋む。


対価は──血、手応え、命の燃焼感、それだけだ。

無言のまま、その者は倒れた兵たちの間をゆっくりと歩く。呼吸の震え、喉のかすれ、わずかに動く指──生きている者がまだ残っていた。


影は止まり、刃を振るう。

血が飛び、息が止まる。

一歩、まだ死にきっていない者がいる。

息の気配を読み、鼓動があれば迷わず刺す。


それが、彼らにとっての“後処理”であり、役割だった。

かつて各惑星国家の戦渦をくぐり抜け、影の存在として潜入任務を生き延びた者たち。任務のために命を賭けることを当然としながら、やがて任務そのものよりも、“殺し”にこそ生の実感を見出した者たちがいた。

彼らは正規の部隊を脱し、追われる身となりながらも、誰にも捉えられることなく集い始めた。実力と思想を唯一の絆とし、種族も性別も関係なく、ただ“強さ”のみが価値を持つ者たち──それがヴィータ・ヌーダだった。

宇宙をまたぐ遠隔任務、表に出ない殲滅作戦、惑星国家の面子を守るための秘密工作。その全てを、彼らは引き受ける。


その最後尾にいた副隊長が、誰に向けるでもなく小さく呟いた。

《……弱すぎるな》


喉奥で言葉を潰すようにして、仮面越しに命令を投げる。

《もう息のある者はいないか? 生体反応を確認しろ……念のため、だ》


短い間があったのち、隊員の一人が頷く。

《……いないか》


副隊長は、わずかに首を傾けた。

《拍子抜けだな。メリナの最大国家の影が、聞いて呆れる……皮肉なものだな。お前たちの歪みが、世界の歪みが、我らを活かす──》


副隊長は静かに手を挙げると、ジャミングの解除信号を発した。

副隊長が無線を拾い、音声変換AIユニットを通じて一つの命令を送り出した。


《──お前達の隊員は始末した。シャルロット家に告ぐ。娘を救いたくばこれ以上の介入を即刻辞めろ。ジンマリウス家に告ぐ。セシルの明確な敗北を演出しろ。そうでなければ、メシエは死に、セシルはこちらで手を下す……そして》


《……シャルロット・レオン、ジンマリウス・ヴァイゼル、貴族院の者たちよ。互いに、余計な真似はするな。お前たちは何も理解していない。この光景を世間に公表することもできる。オリンピアの下で貴族同士の争いがあったことを、世間はどう思うだろうな?》


副隊長はゆっくりと歩き、転がる騎士の頭を蹴り、割れたヘルメットから死に顔を見る。

《もとより、お前たちは我らの指示に従うほかなかったのだ。何故なら、我々はいつでもお前達を殺すことが出来る。ただ、それをしなかっただけなのだからな》


《我々の条件を呑めば、命まで失うこともない。このスカイラントレース、模擬戦でも十分な惑星国家への栄誉と富は得られただろう?》


無線の向こう、それぞれの貴族たちが何も発する事もできず、ただ誰かもわからない敵の、この男の声を聴くことしかできなかった。


《メリナにとってのオリンピアは非常に重要であることが明白。だが、今回のオリンピア本戦──アストラルレース開催権は我らの依頼主がもらい受ける。それだけのことよ》


無線を切り、手信号で死体を片付ける様に指示する副隊長。しかし、無線が切れると同時に施設全体に再び警報が鳴り響いた。端末を確認すると、異常反応のトリガーは──


《どうした……封鎖扉の強制開放?》


視線が一瞬で鋭さを増す。


《どういうことだ……?》


すぐさまノーメンへ通信を繋ぐ。

《――――…………》

が、応答はない。


副隊長は口元を固め、生体センサーの確認を指示。

《ノーメン……死亡を確認……》


その場の空気が一瞬止まった。


《全員、配置転換。警備に回れ!現場へは俺が行く》


副隊長は最小限の命令だけを残し、数名の部下を従えて静かに走り出す。廊下の影にその身を溶け込ませて消えた──。

ケイはメシエに何を見せるのか?

そして、圧倒的な力で各隊を抹殺した、暗殺部隊ヴィータ・ヌーダ。

しかし、ケイはその隊長を圧倒しすでに殺している。

イレギュラー、脚本は変わりつつある。

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