記録72 殺意の在処
ケイの闘いが始まる。
──静寂。
扉に触れたケイの指先が、わずかに震えたのは、気配の波が背後から忍び寄っていたからではない。
それは殺し屋の呼吸だった。声でも音でもない。純粋な殺戮を糧に生きている者だけが発する律動が、確かに背後の空気を震わせていた。
「……ようやく会えたなイレギュラー」
低く、仮面の奥から響く声。
ケイが振り返るより早く、ネオンの残滓を帯びた薄闇から白い仮面が浮かび上がる。口元には僅かに笑みの曲線。だが瞳は描かれてすらいない。まるで誰でもない何かがそこに立っていた。
「ここまで辿り着いた奴は初めてだよ。俺の部下たちは、誰一人、声を上げる間もなかった。……お前、名前は?」
ケイは答えない。
「まあ、いい。俺たちの流儀で語り合おうか」
ノーメンはゆっくりと仮面を傾け構えた。両手は空。武器は見えない──だが、ケイの目は見逃さない。
わずかに緊張した肩の線。重心の位置。膝の角度。戦場で磨かれた殺しの技術。
静寂が空間を包む、まるで密室に入ったかのような無音を運ぶ緊張……。
そして──爆ぜた。
瞬間、ノーメンが前に出た。無音の一歩、ケイもそれに応じるように前へ。
互いの間合いに一気に突入する、刹那の世界。
ケイの逆手ナイフが閃く。
ノーメンは身体を捻って刃を避け、そのまま肘を回しこむ。
だがケイはすでに逆足で地面を蹴っていた。
床板が軋む音すら、ふたりの耳には届かない。互いの意識が、ただ生き残ることに全集中していた。
「──いい。やはりお前は、本物だ」
ノーメンは笑っていた。口だけが。
だがその動きは鬼神じみていた。踏み込み、関節、体軸、すべてが研ぎ澄まされている。
ケイは、それを一手ごとに解体していく。
見切るのではなく──削ぐ。
拳とナイフが交錯するたび、互いの急所を正確に狙い、わずかな隙を殺意で埋める。
息継ぎの暇もない。眼にすら映らぬ速度で火花が散り、打撃と刃撃が絶え間なく繰り出される。
それは、技巧と本能、理と殺意のぶつかり合い──純粋な“殺し”の格闘術。
ノーメンの動きから、最短で急所を外し、呼吸を奪い、型そのものを潰していく。
──刃が交差する。
──拳が骨に当たる。
──沈黙の中で命が擦れる。
ノーメンが後退した。それは初めての後退だった。
左肩が僅かに下がっている。ケイのナイフが肉を裂いていたのだ。
ナイフから滴る赤い血液…………。
「……くっ、なるほど。演目は、もう終わりか」
彼の仮面に細いひびが走っていた。
だが仮面の奥で彼の瞳は満たされていた。
「なあ、お前も分かるだろ?……この空気、この静けさ……これが俺たちの会話だ」
ケイは言葉を返さず、ただ呼吸を整えた。
──呼吸……。
ノーメンのソレはわずかに乱れていた。
でも、笑っている。死と向き合い生きていると感じ、恍惚、狂気を得ていた。
「……お前も同じ生身か……。それでも、ここまで生きてきた。殺して……殺して、殺してようやくこの場所に立った」
ノーメンの動きが変わる。
その切っ先がケイのフードをわずかに掠めた。
殺意ではなかった──初めて興味で触れた一撃。
その一瞬、フードの隙間から覗いたのは──エメラルドに染まる髪。
色白の肌に整った輪郭。
「お前……まさか……?」
言葉の奥に、確信と恐怖と快楽がない交ぜになっていた。
「人間種……?そんなことがあり得るのか……だがこのフィジカル、この殺意、この技術……いったい、どうやって……そんなものが……」
ノーメンが驚くのも無理はなかった。
人間種は、この銀河においてすべてのフィジカル属性において最下層に位置する。基礎体力、筋力、反射神経──どれを取っても、他の種族に劣っていた。彼らが宇宙で生き延びてきたのは、知性と適応力によるものだ。
だが、目の前のこの男は違う。
ここ人間種が住まう惑星メリナの特殊部隊と対峙する部下たちすら、この星での任務を取るに足らないと見なしていた。実際に恐怖の欠片すらなかった。
だが──その認識は、すべて誤りだったかもしれない。
まさに、イレギュラー……紛れ込んだ外部惑星の暗殺者。そして今、コイツはまさか伝説上の存在──K──噂では人間種だったと……くく、くっくっく、ハハハハハッ!……たまらないな、この高揚感!!
ノーメンの目が一瞬、刃の軌道とケイの腰の捻り方を追い、確信する。
「……ふ、くく……なるほど……その踏み込み、重心移動、間合いの潰し方……。お前のその技の端々に感じる……それは、バハラッド式格闘術だな?……あの惑星の生まれか?間違いない、まったく面白い。政の影で、伝説と相まみえようとは」
ノーメンの切っ先が翻りその足が壁を蹴る。爆発的な加速と共に空中へと跳ねた。
刃と刃が空中でぶつかり合い、火花が散る。
彼らの戦いはすでに常人の限界を越えていた。空間を裂くような速さで踏み込み、骨ごと砕く重さの打撃。
「ッ──化け物め……!」
ノーメンが呻く。だがその声音には恐怖ではなく、歓喜が混ざっていた。
「まさか……まさか、こんなところで会えるとは……ッ!貴様……Kかッ!!?」
ケイの足が動く。低く静かに。だがそれは確実に殺すための軌道。
ノーメンの動きが鈍る。ケイはわずかな隙を見逃さずナイフを振るう。
大腿部内側──動脈。
腋窩、腕の付け根──動脈。
ふた筋の鮮血が弧を描き、ノーメンの身体がぐるりと回転する。
仮面に亀裂が走り半分が崩れ落ちた。
露わになった口元は沈黙の笑みを湛えていたが──次の瞬間、少年のような純粋な歓喜がそこに浮かぶ。
「……おお、神よ……すばらしい。私にすら、これほどの甘美な死を与えてくれると言うのですか?」
ノーメンは微笑みながら、最後にケイの目を見る。
──銀河世紀史上、最も謎に包まれた殺し屋。まさか、本当に存在していたとはな……。
その瞳に何かを残したかったのだろう。
だが、ケイはそれを見つめ返すことなく静かに一歩踏み込む。
その刹那、ナイフが首筋を正確に横一閃──ノーメンの頸動脈が裂け、血潮が辺りを染める。
彼の身体が崩れ落ちる……笑ったまま、声もなく、完全な静寂のなかで。
ケイは仮面の破片を見下ろすが、その奥にあった男の正体を知ろうともしない。彼にとっても、己の技術を試すことができる本物かどうかだけが重要だった。
──演目の一つはここで幕を閉じた。
だがその奥、封鎖扉の向こうに生きている者の呼吸がまだ残っていた──メシエ──彼女の瞳が脳裏をよぎる。ケイは顔を上げ、その息吹だけを指標に扉の前に立つ。
ケイとノーメン、刹那の戦闘は幕を降ろす。
暗部組織隊長は自らの死を探していたのだろうか?
それは殺し続けてきたものにしかわからない。
そして、ケイは人間でありながら尋常ならざる強靭なフィジカルでノーメンを狩った。
彼は一体……。




