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記録69 明白な暗転

レースの雲行きは徐々に怪しくなってきた。

日が暮れる。

闇の住人たちが動き始める時間だ。

惑星メリナ上空——第一チェックポイント目前。

スカイラント・レースの航路に設けられた最大の難所、それが“転位装置”による空間転送セクションだった。小型のタキオンホールを応用したこの装置は、惑星間輸送で使われる公共仕様のものとは根本的に異なる。


各チームが自ら設定した次元座標を用い、入出時の重力制御や気圧、温度、空間密度といった環境因子の調整を行いながら転位を実行する必要がある。装置と機体の挙動がわずかでもずれれば、転送先での座標誤差や機体損壊といった重大事故が即座に発生する。


だが、それでもこのチェックポイントを利用すれば、通常航路に対して約3,000キロの大幅な短縮が可能。任意選択とはいえ、使わなければレース展開から大きく後れを取ることは避けられない。

技術と胆力、そして仲間との連携。空を駆けるすべてが試される試練の扉——それが、“転位装置”だった。


その瞬間、観客たちは一様に息を呑んだ。


夕陽はすでに地平の向こうへと沈み、空には星々が微かに瞬いている。メリナの大気が静まり返るなか、上空を舞う機体の装甲が淡い光を反射し、軌道を描きながら黒紺の空に浮かび上がっていた。


転位装置もまた、青白く脈動しながら空間の裂け目を露わにしていた。その光が夜の海面に揺れ落ち、波間に浮かぶような幻影となって瞬いている。

天空と海面、上と下に映る幻想的な輝き。まるでこの世界の両端が、今日この時だけ、ひとつの祈りに繋がれているかのようだった。



【実況】

《ついに夜空が降りてきました!星の光が海を照らすなか——現在、先頭を走るのはジンマリウス・セシル・アルジェント! そのすぐ後方には“亡翼”ガルム・ヴォルグが『スレイ・ナイト』を駆ってぴたりと張りつく!》


《三番手には“流星の魔女”サーシャ・リュミエール! 小柄な体躯を活かした軌道で『リュシオール』が宙を跳ねる!》


《そしてきた!『レゾナンス・ソネット』とともに空を奏でる“超光速の詩人”カルディナ・サレフ! 空間そのものを感じ取る飛行士の鋭敏な機動!》


《さらに“空の処刑人”ヨアン・マルストロムが高空を旋回し、『ヴァルキュリア・レイジ』で狙いを定めている!》


《“孤高の貴公子”タリオ・ノヴァも僅差で追走!彼の『シルフィード・アルテミス』は、まさに孤高の航跡を描いています!》


《数多のレースを制覇してきた歴戦の強者たちが、今まさに激突! 先頭集団はひしめき合い、転位装置への進入ラインを争っているッ!!》


《——そして……見えてまいりました!青白く輝きながら宙に現れたのは、今回のスカイラント・レースで初導入された“転位装置”だ!》


【解説】

《簡単に言えば小型のタキオンホールですね。ただしこれは、公共仕様のように整備されたものではありません。各チームが独自に座標制御や環境調整を行う必要があるという、高難度仕様です》


【実況】

《つまり、転位の成否はチーム全体の実力にかかっている! 機体制御、時空演算、連携力——すべてが試される“空の試練”!》


【解説】

《さらに今回は、転位成功によって“技術点”や“チーム連携評価”も加算されるルールが導入されています。純粋な順位だけでなく、総合力が問われるわけです》


【実況】

《何が起きるかは誰にもわからない! 転位先の気象、重力、空間密度……どれも不確定要素! まさに、レーサーたちは未知へ飛び込む覚悟が求められているんです!》


空中に設置された透明なゲートリング。その内周には青白い光が収束し、中心には歪んだ空間が揺らいでいる。転位先は高度差2,000メートル、局所気象と空間密度の急変域。


《――注意:転位環境マージン 4.2%——安全閾値を下回っています》


《――通常航法を推奨。転位航法は損壊リスクを伴います》


セシルの視界に赤色の警告ラインが踊る。


(……こんな数値、あり得ない……このまま突っ込むのは……仲間との通信が十分じゃない以上――だが、これまでの訓練で培った僕たちのチーム力を信じるんだ)


本来ならば即時航路変更すべき事態。だが、今の彼にとって引き返すという選択肢はなかった。この航路の危険性は、訓練やシミュレーションで幾度も叩き込まれていた。それでも——いや、それだからこそ、彼はこの瞬間に賭けていた。


もし今、引き返せば二度とこの空には戻れない。

メシエのこと、父のこと、自分の中に宿る無数の声が、彼をこの一点に押し出していた。


たとえ誰にも届かなくても。

たとえこの空が罠だとしても。

この空だけは、裏切ってはならないと思った。


(信じる……この空は、僕のものだ)


その先に、叶えたい未来がある。


「僕は……すべてを叶えてみせる!」


エンヴァル・シグマは微かに震えながら、リングへ向けて角度を調整していく。


そのとき、不意に通信が割り込んだ。


《……セシル、止まれ!転位先が崩れている——》


思わず反応しそうになった彼の指が、スロットルから離れかける。

だが、次の瞬間に警告ログが更新される。


《――模倣音声検出。通信元:不明》


《――警告:心理誘導の可能性あり》


「……やっぱり来たか」


ジャミング、心理誘導、転位環境の異常。

これは偶然ではない。誰かが彼を“事故”に見せかけて消そうとしている。


だが、セシルは進む。


転位ゲートに突入する直前、空気が一瞬、音を失った。周囲が引きちぎられるような力場に包まれ、機体がきしむ——そして——視界が焼ける。光が爆ぜるようにあふれ出し、網膜を突き刺す。

セシルは思わず目を細めた。コクピットの内側までも透けるような、白熱の閃光。


しかし――

(なんだっ……?)


セシルの目の前を何かが横切った。彼が転位装置に突入する直前、機体の鼻先を掠めるように転位装置に飛び込む影をみた。そしてほぼ同時に、彼の意識は光の奔流に呑まれ、エンヴァル・シグマと共に光の中へ消えた。





――ゼルグラードの根跡/スタート地点バックステージ

祭典の熱狂がピークに達する中、裏では静かに、しかし確実に異変が進行していた。


「メシエさん、少しだけよろしいですか?」


控室の扉をノックしたのは、普段見かけないスタッフだった。


「ご友人の方が面会を希望されています。今日は特別に運営が許可を出したそうで……少しだけですが、ご案内します」


メシエはわずかに首をかしげた。友人たちはすでにステージ脇にいるはずだ。それでも、不審に思われたくなかった彼女は、静かに頷いた。


「わかりました。……少しだけ、ですね」


他のレースクイーンたちはステージに向けて衣装を整え、順に呼び出されていく。メシエはスタッフの後を追い、関係者専用のラウンジへと向かう──その途中、彼女はふと、レース開始直後の出来事を思い出していた。


あの黒いコートの男。観客席の一角に紛れるようにしていた彼と目が合った。


(あの人はほんのわずかに首を振った。何かを知っているんだ)


それは『見ているぞ』とも『気をつけろ』とも、受け取れた。そしてもっと深くに何か。


その視線の真剣さに、メシエの胸は強く締めつけられた。


(わたしが疑うべきは、身近なもの。たとえそれが普通に見えても。あれがなければ、もっと無防備だったかもしれない……)


(……それでも)


「ご友人が……」と聞いたとき、ほんの一瞬、肩の力が抜けてしまったのだ。友人たちは信じられる――そう思ってしまった。だが――その小部屋に入った瞬間、空気が変わった。


「……あら?」


扉が静かに閉じられる。部屋の中には、見覚えのあるはずの女性たちが三人。たしかに彼女たちは、さっきレース開始直前に舞台袖にいた友人たちに見えた。だが、その目は違っていた。表情に温もりがない。仕草が機械的で、どこか演じているようだった。


「……誰っ?」


次の瞬間、室内の空気が揺らぎ、彼女たちの輪郭が微かに歪んだ。


──なにかが、おかしい。


「残念ね、メシエさん」

一人が言った。

「あなたには大した価値はないわ……でも、我らにはそれが丁度いい」


逃げようとする暇もなく、メシエの視界が暗転する。視界が歪み、強い麻酔のような感覚が襲う、立っていられない……。


静寂――そして、メシエが最後に見たのは、まるで自分そっくりに笑うもう一人の自分だった。……けれど、そこにあった自分の笑顔は、どこか歪んでいた。確かに顔かたちは同じはずなのに、表情の筋肉の動かし方、目元の揺らぎ――こんな顔、私は知らない――背筋が凍るような感覚。心拍だけがやけに速くなり、手足の感覚が遠のいていく。


――それでも目を逸らせなかった。そこにいたのは“わたし”だった。けれど、絶対に“わたし”ではなかった。その偽の“わたし”は、微笑を崩さぬまま、ぽつりと呟いた。


「誰も、本当のあなたなんて求めてないのよ。あなたがあなたでなくても、誰も気づきはしない……人形でも、代用品でも、笑ってさえいれば、それで充分」


その偽の“わたし”は、まるで完璧に作られた笑顔を貼り付けたように、まばたきもせず立っていた。

そして、それの言葉はなぜかメシエの奥深くを抉った――こんなにも悲しく、冷たい声を、自分の顔で聞くなんて――それでも声は出ず、意識は闇に沈んでいった。






――意識が、浮上する。

まず鼻を刺したのは、錆びついた鉄と古びた油のニオイだった。湿気を帯びた空気が肌にまとわりつき、喉の奥にざらついた味が残る。冷たい床に頬を押しつけたまま、メシエはわずかに眉をひそめた。

どこかで聞こえる、低く唸るような機械音。空調の音ではない、もっと粗雑で古い――まるで、何かが無理やり動かされているような不穏な振動。


目蓋を持ち上げると、薄闇に覆われた天井が見えた。無機質で、白くも灰色でもなく、まるで世界から色を奪ったような空間。

そしてゆっくりと上半身を起こす。だが、身体は鉛のように重く、足元は不確かだった。指を動かすたび、細かいノイズのような違和感が肌を走る。


「……ここは……?」

声が震えていた。自分の声なのに、どこか遠くの誰かのように響いた。


室内には鏡が一枚、壁に埋め込まれるように存在していた。

ふらつきながらも、メシエはそれに近づく。


鏡に映る自分――その表情に、ぞっとする。たしかにそこにあるのは自分の顔。だけど、全く違う。目元、頬の筋肉、わずかな揺らぎ――。


(……この顔、私じゃないっ!)


そんなはずはないのに、皮膚の下に別の何かが潜んでいるような錯覚。

そのとき、不意に部屋のスピーカーから音声が流れた。


《状態確認:意識回復、血圧上昇、呼吸促拍――》


人工音声。それは誰かではなく、機械の声だった。


《質問、記録。応答は不要》


(どういうこと……?)


理解が追いつかないまま、メシエは鏡の前から後ずさった。


「誰なの……?何を……何をしようとしてるの!?」

(……拉致……?)


再び、冷たい沈黙……メシエは頭を抱え込んだ。記憶が混濁する。


(さっき……舞台裏で……わたし……そうだ、もう一人のわたし……。…………さっき?)


そのとき、メシエは自分の顔に手を伸ばした。

冷たく、滑らかで、異質な感触。


「やだ……いや……なにこれ……!何コレぇっっ!!」


両手でぐしゃぐしゃに顔を覆い、思いきりひっかく――だが、その顔は崩れることはない。


(違う、違う、わたしじゃない――!)

「わああああああああああぁぁぁ”っ!!」


喉の奥から噴き上がった悲鳴は、声にならなかった。ただ空気を裂くだけの、かすれた絶叫。

鏡の中のそれは、そんな彼女を見て、わずかに口元を吊り上げて笑った。冷たい、感情のない微笑はまるでこう言っているようだった。


――あなたなんて、誰でもよかったのよ。誰でも成り代われる。あなたじゃなくても……。だからこそ、あなたである必要がなかったの――。


「うそ……やめて……お願い……」


メシエは床に崩れ落ち、壁にもたれながら、胸を押さえた。


ドッドッドッドッ……


呼吸がうまくできない。心拍が乱れ、涙が頬を伝って落ちた。


「はっ……、はぁっ……は……はっ……」

(何でこんなことに……?わたしが何をしたっていうの……)


両手で顔を抑えて、指の隙間から鏡を覗く。でも、何も変わらない現実がそこにはあった。


(この顔で、この声で、ただ普通に生きてきた。貴族とか社会とか、関係なく自由に生きて来ただけなのに……それがダメだったの?)


そのすべてが、たった一枚の“顔”にすり替えられてしまうなんて。


部屋の照明がひとつ、淡く点灯する。そのとき、スピーカーから再び声が流れる。監視されていた。


《事が済むまで、お前はここで監視される。たとえ開放されたとしても、元の生活に戻れると思うな》


その台詞に、メシエは悟ってしまった。冷静いられるはずの無いこの状況下で、誰もそんなこと考えられるはずがないはずなのに。


ドク…ドク…ドク…

(あ、でも、きっと……きっと殺されることはない……)


だが、それは安堵ではなかった。静かに忍び寄る、深い孤独。

拉致されてどれほど時間が経ったのかもわからない。

けれど――彼らは、油断した。


あの黒い男――街で視線を交わした、舞台で何かを囁いていたあの顔が、ふと脳裏をよぎる。

あのとき確かにあの人はわたしを()ていた。


『警戒しろ』


きっと、その瞳の奥に、もうひとつの意味があったのかもしれない。


『――抗ってみろ』

トクン…トクン…トクン…

彼の冷たい視線が、メシエの胸の中に薄い膜を作る。


(そうだ……まだ事は済んでいないんだ。そんなに時間は経ってないはず)


だったら、この顔も、きっと……どうにかできる。


(敵は侮ってる、わたしのことを子どもだと思って)


……ドクン

闇の中で、メシエはわずかに拳を握った。


セシルとメシエ、同時に2人は闇の中に落ちていくのか?

どうなる。

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