記録58 時よ、鳴れ
鎮座するアリアを動かすことが出来るか?
深淵の嵐は絶えず渦巻いていた。
磁気圧が重力を歪ませ、風が時間を削るように吹き荒れる中――3人の影が、アリアの不動の巨体に取りすがっていた。
「……まるで、まるで死んだ艦体の遺影みたいね」
シェーネは目の前に鎮座する巨大な艦影を見上げつぶやく。
そこは、時が存在していないかのような静寂が広がっていた。アリアは地表に沈んだまま、まるで凍りついた記憶のように微動だにしない。
「外部接続端子は上層部、だったわね。ジークの予測だとブリッジ側……」
「その通りだな。航空型の艦は上方補給が前提……地上用アクセスは省かれてる。つまり、歩いても届かねえ」
オダコンが装備を調整し、艦壁へ張り付くようにして上を見上げる。
「……オダコン、そっちは任せた。あたしは別ルートを探るわ」
シェーネが艦の逆側へ回り込む。
磁力フックが鳴り、シークレットは垂直の鋼鉄壁面を器用に上がり、観測窓をのぞいていた。
「うーん、こっちはただの通信バンクっぽい。中枢系統じゃなさそう」
《こちらオダコン。見つけた……恐らくブリッジの下縁、装甲の合わせ目にあった。外部メンテナンス用端子だ》
ジークからの音声が応じる。
《こちらヴェルヴェット。その位置だ、間違いない。開放しろ、ストリングスを繋いでくれ》
「了解……開放作業、開始する」
オダコンが金属製のパネルを慎重にこじ開ける。
防磁パッキンの裏に現れたのは、複数のスロット、そして一つだけ深く刻まれた高密度コネクタ。
「……こいつが弦を挿す穴ってわけか」
艦内から延びる一本のケーブル――ギャルティスが放ったストリングスの末端を、ヴェルヴェット号から自動リールで引き出し、オダコンの手元へ運ばれる。
「……じゃあ、奏でようか。第九の指揮者として」
ストリングスが、アリアへと接続された瞬間――指揮と共に刻まれる時間。
《――接続確認》
ジークの声がブリッジに響いた。
《共鳴、安定……次段階へ移行する》
指を走らせ、接続ノードを操作する。
――雲よりも高く、雷光が走る成層圏
ギャルティスの二人はモーターヘッドの特殊計器で微細な空気の震えを解析しながら音を発していた。
「──出すぜ、フルスペクトラムの共鳴波」
ギャルとティスは頭部の送波機構を調整しながら唱を奏でた。
共振波――それは、音の形をした時間の揺らぎ。
巨大な弦楽器のような低く太い波が、音としてではなく空間の肌触りとして降りてゆく。
「……あ?……おいおい、下のヤツらにこの音、ちゃんと届いてんのかね……?」
ティスの疑問に応えるように、ヴェルヴェット号の通信が走る。
《……ジークだ。磁気干渉が……くそ、俺たちの声は……ザザッ……届い……か?》
ノイズ混じりの音声。
一瞬、通信が断ち切られかける。
――ヴェルヴェット号/ブリッジ
乱れまくる電磁圏、波打つストリングス。
バードマンの前に並ぶ計器が、警告音を何度も発していた。
「……チィ、こっちも限界ギリギリだぜ」
船体が風に揺さぶられるたび、ホバリングを維持するバードマンの指先が震えた。
「DD!風、来るぞ!」
「わかっとるわい!」
DDはコンソールを睨みつけ、震えるように船体のノードを補正する。
その背後で各種調整ユニットが風を読む。
激しく艦体を揺らし、モーターヘッドのストリングスを巻き込む。
――ガクンッと引き込まれるモータヘッドは寸でのところで姿勢を保つ。
《くぁっあぶね!……おおい!大丈夫かぁ!!》
「すまねえ!風がッええ!――お前らこそ大丈夫か!?」
《何とか大丈夫だ、けど……このままじゃぁ、ストリングスが持たねえぞ!》
――ッゴ――!
「おわッ!!やっべ……」
「むううっ……っく」
計器を読み、風を捉え、帆船の如く舵を取るバードマンとDD。
それに呼応するかのように、巨大な波を乗りこなすモーターヘッド。
「……このままじゃジリ貧だぜ!」
《――っ、見えたぜ!!竜の巣がよ――いまだ!!》
「いまじゃ、調律じゃあっ──!」
「おおっ!!」
ジークが即座に応じ、ストリングスへの負荷を調整、バードマンは風と閃光の合間を縫い、鈍重な艦は空を駆ける。伸びきる寸前の弦は、ギリギリで張り裂けるのを避けた。
そして――その弦の震えは、アリアへと伝わっていく。ただの物理ケーブルではない、時を奏でる音の道筋。ギャルティスの響きが、それを介して流れ込む。
「来てる来てる!聞こえてるよ……骨の髄まで響いてくる……!」
シークレットが詠うように声を張る。
彼女の瞳は真ん丸でそして深く輝きを放ち、この絶対零度のような空間で希望を見た。
「ええ、届いてる」
シェーネの目も、どこか焦点を結ばないまま、艦を、アリアの中を見つめていた。
強風の中で、まるでそこだけが開けていくかの様に、何かが降り注いでいるかのように、何故か輝きを感じた。
「……この船の記憶が……目を覚ますぞ」
オダコンがそっと囁くと、接続端子の周囲で微かに光が滲んだ。
ストリングスが空を裂いて地に伸びる。
シェーネ、オダコン、シークレットの三人は空を見上げ、そして、アリアに接続したストリングスの根元を見つめていた。
静寂――答えのない沈黙。
「……反応が……ない」
そう呟いたその刹那。
《おい、聞いてんのかよ!アリア!!》
遥か上空から降り注ぐ声――ティスの叫びが、振動としてストリングスを駆け抜ける。
《目ぇ覚ませよ!――いい加減、夢の途中だろうがッ!!》
その瞬間、アリアの艦体全体に低く太い振動が走った。
ゴゥ……ン……ゴオオオ……
「答えた……!?」
シェーネ、オダコン、シークレットが目を見開く。
シークレットとオダコンは頬を外壁に当て、アリアの駆動音に耳を傾けた。
まるで魂のビートを思い出すように――ジークは機関室で目を細め、操船するバードマンとDDはリズムを感じ取り――
ラボで独り作業を続けるジャックで不意に天を仰ぎ見た。
「お~お~……まるで、あの子煩い悪ガキか?背中を叩かれたみたいだな」
苦笑いと共に、立ち上がる。
「……くっく、よーやく第3楽章ってとこか?」
そして、また腰かけると、眼鏡をかけ直し、黙々と作業に移る。
その目の前には、大気をクトゥリウムの第7帯域、ノーデンスの森に等しい質に保つプラントボックス。中には淡い青色に発光するメルフェノラが――。
その時――アリア艦内では、
「……起きて……」
微睡の中、誰かの心が囁き、熱を帯びる。
聴こえるか?
おまえは、まだ終わっていないだろ?
「う……ま、まだ……」
エルナの瞼が震え、カタリ…と指が重なる。
彼女たちは――時の牢獄に囚われていた。意識だけは確かにあったのだ、思考は微かに波打ち記憶の海を漂っていた。だが……身体は動かない、声も出ない。命の形だけを保ったまま――生きたまま、化石となっていた。
「……帰ろう……」
誰の声かはわからない。
けれどそれは、静寂の海に波紋を生んだ。
心地よい死のような沈黙に、心の奥底にあった、まだ名もない衝動――。
「行かなきゃ……」
ゴン……ゴオオ……アリアが、艦体そのものが鳴動し始めた。
そして、クルーの身体の隅々へと伝播していく。
感覚を思い出す。手の感触、喉の乾き、胸の鼓動……そして、記憶。
誰かが、呼んでいる。寒い、熱い、うるさい――でも、眩しい――それが今という現実の灯。
「……行かなきゃ……」
身体はまだ動かない。
思考が、熱を帯びて再び流れ始める。
“バルゴ”という名が、頭の中をよぎった。
――君に、この艦を任せる。
「私……は……」
エルナの全身が震え、開くことのできなかった瞼が急激に軽くなるのを感じた。
止まっていたはずの機器のランプが、ほんの僅かに瞬いた。
そして、その気配は連鎖した。
他の者たちの瞳にも焦点が戻っていく。まるで――止まっていた時計の針が、再び動き出したかのように。
立ち尽くしていた男が、ふと肩を揺らす。
通信端末を握ったままの技術者が、呼吸を取り戻すように手を動かした。
艦内に灯りが戻り、沈黙の霧がわずかに晴れていく。
「……なに……この唄は……」
クルーの誰かが呟く。
エルナがふらつきながら扉に手をかけ、ゆっくりと開く。
金属の軋みと共に、艦の外――第9帯域の嵐の空がその姿を覗かせた。
耳を打つ、強烈な、惑星の声――その後ろから背中を押すように、身体の真に響く波打つ音。
その音と共に、脚を踏み出せば、浮かび上がる3つの影。
「あ、あなたたち、どうやって……?」
スーツに身を包み、ストリングスを纏った3人の影が嵐の中に立っていた。
彼女たちは天を指さす。
空を見上げたエルナは、艦の上空へと繋がれたか細い弦。
それを見上げたエルナの耳に、再びあの声が降り注いだ。
《うぉっほう!!よ~やく目ぇ覚ましたかい!!》
《さぁて、改めて紹介してやろう!》
ギャルティスの二人が交互に吠える。
《ヴェルヴェット号のキャプテン、シェーネ・フラウと――その一行だぁ!!》
《――ちな~、俺たちゃ「ギャル!」&「ティス!」だ!聞こえてっかアリア!今夜の演奏は俺たちから始まるぜぇぇ!》
ギャルティスのモーターヘッドが上空で派手にターンし、成層圏を裂くように轟く**共鳴音**を絶え間なく放つ。
その音は、確かにアリアの者たち全員の心臓を打った。まるで――魂のビートを思い出させるかのように。
時の牢獄からの解放、円柱艦アリア――起動せよ。
アリアに時間をとどけることができた。
地下の遺構に潜ったバルゴ達はいったいどうなっているのか?
そして、この盆地から脱出できるのか?
彼らを待つものは……




