記録50 花を喰らう影
極濃の霧の中で幻覚に襲われるヴェルヴェット。
幻覚に打ち勝ち現実を踏みしめることが出来るのか?
――ノーデンスの森・湿地帯深部
皆が近くに寄り添い、隊列を組んで周囲を警戒しながらメルフェノラの一つへ近づく。
先ほどの巨影はもう見えない。まるで最初から存在しなかったかのように、霧は沈黙し濃度を保ったまま辺りを包み込んでいた。
──あれは錯覚だったのか?
誰も言葉にしない。
確かにそこに何かがいたはずなのに。だが、見えないのも事実。そうであるならば、気にしても仕方がない。今はただ、目の前の任務を完遂することが最優先だった。
この死骸の大地――動植物が腐り落ち、骨と泥が層を成した肥沃とも呪われたとも言える地。その地に根を張る、発光するシダ──メルフェノラ。
ジャックは無言で膝をつき、手袋を二重にしながら根茎部に慎重に手を伸ばした。
「……スキャン一致。根の中心部、アルカロイド濃度高……採取する」
彼の声は、まるで自身に言い聞かせるようだった。
小型の抽出具を取り出し、手際よく地表の柔らかな腐葉層を押しのける。根の一部が露出する。そこはじっとりとした湿気を帯び、内側からわずかに光を放っていた。
周囲では、誰もが一歩引いた距離を保ちつつも、武器を構え警戒態勢を崩していなかった。
「船長、あと30秒……」
ジャックの指先が震えている。
それは恐怖ではないが、さっき見たものが幻だったとしても、脳裏に残る不快な影は拭えない。まるで皮膚の内側に何かが入り込んだような、名状しがたい違和感が彼の全神経を逆撫でしていた。
シークレットは視線を周囲に走らせていたが、時折何もない空間を鋭く睨んでいる。
バードマンもいつもの軽口はなく、マッピングデバイスを手に持ちながらも、羽根の隙間から汗を落としていた。
その空気の中、ジャックはふと視界の隅にもう一本のメルフェノラを見つける。
それは他と比べて明らかに色が濃く、根の周囲に微細な光が揺れていた。
(……二本目も採取するか?いや、欲を出すな。まずは安全に……)
だが、空気が一変する。霧が後退し音が鳴った。
地面の奥から、低い鼓動のような振動。
ジャックが思わず顔を上げる。
「……またか? 気のせい……じゃ、ない……」
彼の目が霧の向こうへと吸い寄せられる――そこに何かがいる。
霧の奥、黒ずんだ大地の窪みで、苔むしたような節のある巨体がゆっくりと蠢いていた。まるで岩の一部かと錯覚するような質感の皮膚。幾層にも重なった苔や腐葉が体表に貼り付き、風もないのに全体がぞわりと震えていた。
それは、メルフェノラの根を掘り返していた。
粘着質の舌のような器官で、植物の根を慎重に引き剥がし、静かに、しかし、貪欲に食していた。
「おいおい……うそだろ……?」
ジャックの声が霧に吸い込まれる。
その瞬間、そいつの動きが止まった。
メルフェノラの根を咥えたまま、ぴたりと動きを止め、音も立てずにこちらを見た。目はない。ただ、幾つかの節の隙間に空いた穴のような部位が、まるで空間そのものを観察しているかのように向けられた。
――敵意を……感じた……。
その場にいた全員が、そう直感した。
それはメルフェノラを奪い去ろうとするヴェルヴェットを敵と認識した。
ゆっくりと身を起こしたその全長は数十メートルもの巨体。その上層部はまるで甲殻のように節くれだつ外殻、その隙間に腹部と思しき部位が垂れ下がっている。
そこはうっすらと青白く発光していた。
半透明の膜の奥に蠢く臓器が鼓動に合わせて波打っている。消化中のメルフェノラの断片が発光し、内側から照らし出しているのだ。
それはまるで悪夢を孕んだランタンのようにも見えた。
そして、霧が一段と濃くなり押し寄せてきた。
「後退!」
シェーネの短い号令で、隊列が即座に崩れず再整列する。
各自が互いの肩や腕に触れ位置を確認しあう。
だが、足元の腐葉土が不意に沈み込んだ。
「っ、滑るぞ!底が崩れ――っ!」
オダコンの声がかき消されるように地面がずぶりと沈み込む。
膝までの深さの泥が足をすくい動きを鈍らせる。
「――おわっ!!」
バードマンの羽が木の枝に寄生する肉食性植物の罠にかかりバランスを崩したが、シークレットはすぐに彼の腕を掴んで支えた。
「すまねえ!」
「うん!」
「おい、ジャック!こっちか!? まだいるか!?!」
「ここだ……っ」
通信機が一瞬、ノイズを吐きながら回復する。
DDの冷静な声がキャンプから届く。
《こちらキャンプ。状況を報告せよ。何が見える?》
「会敵。霧の中にメルフェノラを食す巨蟲発見、現在後退中」
《幻覚じゃないってことか?》
ジークの声が重なる。
《位置座標送信を――こちらのマッピングと照合する。……こちらも通信ラグが発生しておる。時間感覚にズレがあるようじゃ。互いの認識のすり合わせを怠る出ないぞ!》
「……お前らヤツは見えるか?光が重なってわからねぇ!」
「皆ッ下がれッ!!……こっちは……あ?いや、違うアレは木か……」
「ダメだ……光と樹木、そしてこのニオイと霧……五感が侵される感じだ」
「ちっ……あんな巨体でどこに行きやがった?」
《慌てるなっ!ちゃんと聴こえている――……しっかりしろ、霧に惑わされるな!》
そして、シェーネが静かに吐息をついた。滲む汗を拭い、応答する。
「えぇ……助かるわ二人とも――!!」
彼らは霧の中、互いの声を繋ぎ、足をすくう泥の感触に神経を張り巡らせながら、確実に距離を保つ。
「……あぁ、わかってるが……気配も掴めねぇぜ」
バードマンが腰を低くし身構える中、背後から強烈な悪寒を感じた。
彼らが後退していたはずのその背後から突如として気配が迫る。
「――っ!?」
振り向きざま目の前に現れたのは、闇の中から這い出た巨大な口。
甲殻に覆われた節足の顎が音もなく開き、鋭利な内歯を並べた裂け目がジャックに向かって押し出される。
霧の中、その形だけがはっきりと浮かび上がった。
「ジャァック、伏せるんだッ!!」
間一髪、オダコンの腕が素早く伸びる。
彼の伸縮する腕がジャックの足をつかみ、強引に後方へ引き倒す。
「ぐっ……!」
ジャックの体が泥に滑り込むように転がった直後、空を切る音が彼のすぐ頭上を裂いた。
巨大な顎が開閉し、彼がいた場所を抉るように叩き潰した。地面が砕け、泥と腐葉が吹き飛ぶ。
「首が……吹っ飛ぶところだった……!」
ジャックは息を呑み、震える指先で胸元の試薬ポーチを押さえながら歯を食いしばった。
――霧の中で、敵の全貌は見えない。だがその存在感だけは確実に幻覚の域を超え迫りくる。
ジャックは立ち上がりざまに霧をにらみつけながら息を整えた。彼の目にはあの青白く発光する腹が、霧の中でかすかに揺れては消える。
「そうか……あれだ。お前ら見てたか?……弱点はあの腹だ!」
「アレが弱点って?!冗談でしょ!!どうやってあそこに行くっての??!」
シークレットが無数の脚に囲まれて浮かぶ光る揺りかごを見上げて叫ぶ。
「……あの腹……外殻が薄い……。この腐葉土、腹の中で揺れるメルフェノラの光に誘われてきた小動物が奴に喰われ、死骸と糞便が肥しとなってメルフェノラを育む土壌となっている。あいつらは共生関係にある――」
「ハア!?まじかよ……メルフェノラで餌を釣ってやがるってことかよ!」
バードマンが息を呑んだ。
ジャックは光を見据えて続ける。
「ここまででかい相手に……あり得ないように見えるが、考えようによっちゃチャンスでもある」
オダコンが淡々と答えた。
「この原生林のスケールでは、あれでも中型程度の個体にすぎない。故に、更に巨大な外敵から身を守るために背面の防御構造が強固だが、懐から襲われることがほとんどないんだろう。我々のように足元に群がる小動物は幻覚でどうにでもできるわけだな――」
「つまり、うちらは……想定外の存在ってことね」
シークレットがにやりと笑う。
シェーネは頷き静かに言った。
「幻覚に呑まれない連携。私たちなら切り抜けられるわ。任務に必要なものは知性と覚悟。これが現実なら――仕留めるまでよ」
その言葉に応じるように、霧の中で再び腹が光った。
シェーネは一歩前に出て全員を見渡す。
「このままじゃ、メルフェノラは手に入らない。あの蟲を排除しない限りこの地の植物も私たちも奴の餌よ」
沈黙の中ジャックが静かに答える。
「あぁ……こんな薬草採取で立ち止まってるわけにはいかないよな?」
「なら、やるわよ」
シェーネは全員に声を送りながら、まるで自身に言い聞かせるように繋ぐ。
「こいつを倒して、採取して帰るわよ」
そして、彼女の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「……ケイとアイちゃんに笑われるわよ。こんなことでビビってたら」
全員の目つきが変わる。
「あぁ!」「だねっ!」「くくっ」「ふむ」
《そうだな》《そうじゃ!》
そして、その霧の中ムートが前方に滑り出た。青いセンサーが光り敵の動きを捕捉する。霧に惑わされぬその機械の動きが隊にとって視認できる現実の指標となる。
「ムートを見ろ。あれは幻覚を受けていないぜ」
ジャックが声を張る。
「バイタルモニター、異常なし。今のところ皆正気だ。DD、ジーク、突入する。支援を頼む!」
《了解。サポート体制を維持する。全員、音を絶やすな。声が意識の導き手になる》
シェーネが右手を掲げた。
「バード、位置取って。後方からの援護を。私は側面から撃つ。オダコン、シークレット、あんたたちは前へ。腹の光を狙って接近して」
「了解」
オダコンの短い返答と共に、シークレットがナイフを抜いた。
「幻覚と現実を切り裂く。行くよ――」
声が重なり、皆が動き出す。ムートのセンサーが新たに点滅し敵の動きを軌跡として描き出す。
予期せぬ小さき者の抵抗に、巨蟲が長い手脚をうねらせ巨木の間を滑るように迫ってくる。節足の一撃が地面を穿ち、泥と枝葉を巻き上げる。
「予想以上に動きが速ぇッ!」
バードマンの声に、ムートがすかさず前進し内蔵されたロックアームで近くの倒木を引き抜く。
キャタピラの駆動音とともに一本の巨木を引きずるように動かすと、ムートはその幹を巨蟲の進行方向へと滑らせた。
「……っ、やるじゃんムート!」
幹が転がり泥地を塞ぐように滑っていく。その一瞬、巨蟲が脚を止めた。倒木に接触しその動きがわずかに鈍る。その隙に、全員が分散する。互いの声、光源の揺らぎ、ムートとの距離を一定に保ち視界に収めて動く。
互いの声、そして絆が彼らを現実に繋ぎとめていた。
シェーネが左に跳び、バードマンは背後の枝に飛び乗って狙撃体勢をとった。
「オダコン、右から回り込め!」
「了解。遮蔽物を活かす」
オダコンは巨木の根元を回るように進み、シークレットは低く跳ねて泥の中を滑るように前進する。
その間にも、ムートはさらに一本、木を引き倒す。キャタピラで強引に押し出しまるでバリケードのように次の障害を築き、巨蟲の進路を操作するように動く。
その動きに導かれるように、巨蟲の脚が滑りバランスを崩した。
そこへ、シークレットが一気に距離を詰め脚の節を駆け上がる。巨蟲が咄嗟にその方向へ噛みつこうとするが彼女は紙一重でその顎をかわし、逆手に構えたナイフを高く振り上げた。
「捉えたッ!!」
だが、刃は外殻に弾かれ、わずかに火花を散らしただけで通らなかった。
「くっ……外側は岩みたい……!」
同時に、オダコンは霧の向こうから襲いくる別の手脚の動きを察する。彼の背後に迫る殺気を感じ取ると、すかさず体をひねり伸縮する腕を活かして木の根の陰へ滑り込んだ。
「危ないところだったな……」
シェーネとバードマンが携行するビームランチャーが霧を切り裂いて炸裂する。しかし、巨蟲の節くれだった外殻は想像以上に硬く、ビームは表面を焦がすのみで弾かれてしまう。
「はぁっ?効いてねぇぞ……!」
バードマンが舌打ちし、次の装填に移る。
その隙を縫うように、ムートが滑るように前進。キャタピラを泥に潜らせながら、敵の側面へ回り込み、突き出したミニガンで関節の隙間を狙い、中心のバレルから徹甲弾を発射した。
ドンッという音と共に外殻に亀裂が走る。
「貫通した!あそこだ、狙えっ!」
ジャックの叫びと同時に、シェーネが焦げ目の入った外殻の隙間へ狙いを定めて再びビームを放つ。
「っし!!」
高熱の光線が徹甲弾の破断面を貫き内部まで焼き裂いた。
巨蟲が低く震え、長い手脚の一部を落とした。姿勢が崩れバランスを失うようにぐらりと傾き、崩れ落ちちると腹部がむき出しになった。
「今だ、挟めッ!」
オダコンが霧の中を滑るように前進し、伸縮する腕を利用して一気に巨蟲の右脇へ。シークレットは、左側の木の幹から飛び込むように接近し一閃。
二人の動きが重なり、巨蟲の腹を一気に裂いた。青白く光る腹膜が破れ、中から黄色い体液が勢いよく噴き出す。
――ぎしゃああああああああっ!!
凄まじい断末魔が、霧の中を震わせた。巨体がもがき痙攣し、やがて動きを止める。崩れ落ちたそれは、地に伏しながらもなお光を帯びていたが、やがて淡くなり完全に沈黙した。
「……仕留めた、か……」
バードマンが息を吐き、シェーネは小さく頷いた。
ジャックはゆっくりと歩み寄り、腹の奥から零れ落ちた未消化のメルフェノラを手に取る。
「……採取完了。これで……帰れるな。こりゃすげぇ……この濃度、今までの比じゃないぞ」
その言葉に、誰かが苦笑した。だが、誰もその場を動こうとはしなかった。巨蟲の死骸が静かに蒸気を吐きながら横たわる。
その背後――霧の切れ間のその奥に。
「……見えるか?」
ジャックが、泥まみれのブーツで一歩踏み出した。
腐葉土の向こう巨蟲の影に隠れるように、石碑が一つ立っていた。
わずかに傾いたその石は、あの幻覚で全員が見たそれとまったく同じ形だった。
「……幻じゃなかった……」
誰かが呟き、誰かが沈黙した。
シェーネは煙草の火をつけようとしてやめた。
「……まだ、終わってないわね。何かがここに眠ってる……」
巨蟲の体液がじわりと地面に染み込み、霧が再び色を深める。
そして、夢が現実に続いているなら――それでも、行くしかない。
自然の罠に打ち勝ち、メルフェノラを採取することができた。
しかし、夢はまだ続いているのか?
そして、他の海賊たちは?




