記録49 12日目の標本
自然VS海賊
雲行きが怪しくなってきた、それぞれの道。
自然の猛威に勝てるのか?
──ノーデンスの森・南方湿地帯
霧は変わらず濃く、距離も音も曖昧なままだった。だが確かに採取班は進んでいた。湿地の底がぐずぐずと鳴き、足を取られながらもヴェルヴェットの面々は一歩ずつ前へと進む。
「……やっぱり空間感覚が崩れてる。地形の記録が昨日と微妙に違う」
オダコンがスキャナを睨みながら低く言った。
「違わねえ。……こっちのログでも、昨日見たはずのシダの位置が変わってる」
ジャックが腰のデータパッドを叩き、地面に膝をつく。霧を掻き分け、ぬかるみの奥に埋もれかけた青白い苔を手袋越しに探り当てる。
──そこにあった。
「……ルミナル・モス。けど……」
彼は端末に接続された記録パネルを確認した。その苔と同じ形状・成分・光波長のサンプルが、すでに記録されている。
「この座標……すでに昨日、記録済みになってる。だが、採取記録がない」
彼の眉がわずかに動いた。
霧の中にいる全員の表情がどこかぎこちなくなっていた。バードマンは額に汗を浮かべ、目元を拭うしぐさを無意識に繰り返している。シークレットは小さく舌打ちしながら、ナイフの柄を指先で撫で続けていた。シェーネでさえ、片眉をわずかにひそめたまま、目の焦点が合っていない時間がある。
ぬかるみに沈む足元。じゅぶりと泥が吸い付き、引き剥がすたびに皮膚のような音が霧にこだまする。
その背後――ずる、ずる、と音がした。
それとは別に足元を這う無数の細長い影が視界の端を横切る。ミミズに似た軟体の生物たちだった。だがそれは単に這うのではない。
ぐるり、ぐるりと身体を半回転させながら地面をうねり、時にはまるで何かに操られるように、意味の分からない角度で跳ね身を捩じらせる。
まるで見えない何かの糸に操られ、踊らされているようだった。
一匹が奇妙な弧を描いて転がると、他の数匹が追うように同じ軌道を模倣する。その様は悪夢に酔った人形劇のようで、誰もが視線を逸らしたくなる。
「……こいつら、踊ってやがる……何もいねぇ空間で……」
バードマンがかすれた声で呟いた。
それらが踏み潰される音すら泥と同化して消えていく。ぬかるみに沈む足音、霧に吸い込まれる吐息、そして周囲の生物たちの歪んだ行動。それらすべてが、この森の意志であるかのようにまとわりついていた。
何かが這っていた。枝葉の下で、湿った音を立てて何かが滑っている。枯れた根の間を潜るように、長く、細く、複数の肢を蠢かせながら。
誰もそれに目を向けない。だが、全員がその気配を感じていた。自然の一部のように、音を、臭いを、熱を、彼らの背中に押しつけてくる。
この湿地では、沈黙すらが警告なのかもしれない。
「……妙に汗が止まらねえ。なんだよ、こりゃぁ……」
バードマンが首筋を拭いながら吐き捨てるように言う。
「体温調整が狂ってる。幻覚が脳の自律神経系まで侵してきてるかもしれない。お前らマスクしろよ」
ジャックが低く答える。手元のデバイスにはわずかに揺れるサイン波のような生体値の乱れ。
遠くでぴちょんと雫が落ちた。
だが水たまりのはずのそこから、何かの触手のようなものがひとつ、のたりと浮かび、泥に溶けて消えていく。
霧の奥では、食虫植物の花弁がゆっくりと開き、震えた。獲物を待つ舌のようにじりじり……。
「おい、誰かこの地点で記録した覚えあるか?」
シェーネ、バードマン、シークレット、誰もが首を振る。
「……冗談はよせよ。そもそも俺たち、昨日はこの座標まで来てねぇだろ?」
だがパッドの記録は確かにそこにある。ジャックのIDで、12日目の朝、採取ログが残されていた。筆跡も自分のもの。なのに、彼の記憶にはない。
「まさか……夢の中で、俺の手帳が勝手に記録を始めたんだとでも?」
冗談めいた言葉だったが、その場の誰も笑わなかった。
──数歩先、霧が微かに変わる。
「……空気の組成が少し変わったわ。湿気に混じってる……何か違う“揮発性の芳香物質”がある」
シェーネがつぶやくと、ジャックが匂いを確かめた。
「……甘い、けど泥と混じったような……腐葉土? いや、もう少し複雑だ」
バードマンが高所から滑り降り、鼻をひくつかせる。
「……鼻にくるな。植物の匂いじゃない。獣の死骸みてぇな臭さが混じってる」
隊の歩みが次第に慎重になる。霧の奥から漂ってくる匂いが、どこか妙に心を引きつける。それは腐敗と生のはざまにあるような香りで、確かに不快なはずなのになぜか鼻を離れない。思考の片隅にひっかかり、遠い記憶の扉をこじ開けるような――そんな感覚だ。
「……なんだろうなこの匂い。くせになるってわけじゃねぇけど……気になって仕方ねぇ」
バードマンが漏らす。
やがて霧の中から、地形がうっすらと変化を見せ始める。足元のぬかるみがより柔らかく、腐敗した葉が溜まる層が広がっていた。枯れた木の根元には小さな獣の骨が散乱している。干からびているのにどこか新しい。
「……何かが死んでる。……いや、死んでいってる……のか?」
ジャックがつぶやきながら近づくと、土の上には倒れた小動物の亡骸がいくつも見つかった。
獣、人型に近い生物、虫、羽根を持つ種族もいた。そのどれもが、霧に包まれたまま静かに眠るように崩れていた。
「やべえな……この一帯、死体が吸い込まれてるみたいだ。視界も悪りぃ……」
バードマンが低く言う。
だがその異様な腐敗臭の中に、何か甘い、懐かしいような香りが混じっていることに、誰もが気づいていた。嗅いでいるうちに、確かに気持ち悪いはずなのに、なぜか懐かしく思えてくる。不安と安心が同居するような匂い。それが、じわじわと彼らの中に染み込んでいく。
霧は濃く、だが光がある。
隊がさらに進むと、ついにそれが現れた。
──メルフェノラ。
低い茎から扇のように広がる葉。裏には無数の光る球体、まるでカエルの卵のような胞子嚢。それが、ゆっくりと開閉していた。呼吸するように。
「……見つけた」
シェーネの声が、静かに霧に溶けた。
ジャックが手早くスキャナを回し、数値を読み取る。
「芳香塩基性物質検出。ここが震源だ。間違いないな。……これがメルフェノラ……」
光は青白く、だがまばたくたびに色調を変える。見る者の視神経を揺さぶり、そこに何かを映そうとする。
「……やべぇ……視界に誰か……」
バードマンが息を呑んだ。
「違う……待て……そこには誰もいないはずだ……」
「ジャック、急いで。長居は危険だわ」
「あぁ……根茎部を採取する……」
霧の中、腐敗と夢が渦巻く場所にて、彼らはようやく目的の標本に辿り着いた。だがそれはまだ、入り口に過ぎない。
──霧は息づいている。死と夢を循環させる星の呼吸が、彼らの背中に囁いていた。
そのとき、通信機から小さな音が割れるように鳴った。
《……こちらキャンプ、わしじゃ。全員すぐにフィルターの切り替えを確認せよ》
ジークの声も続く。
《感覚の乱れが報告されている。ジャック、現地の揮発反応データを即時送信してくれ。そちらで何が起きているか解析にかける》
「こっちでも、匂いのせいか脳がざわついてる。やばいと思う前に深呼吸してる……」
ジャックが送信操作をしながら霧を睨んだ。
《霧に含まれる芳香塩基性物質の一部に、ドーパミン様作用の疑いあり。快楽中枢を刺激する揮発性アルカロイドじゃ》
《……それと、こちらも少し妙な兆候がある。10日ごろから徐々に気圧の変化が激しくなってきた。今もなお気圧が落ち続けているし、上層の大気に重さが出てきた。嵐かもしれん……俺たちは一旦船内に戻る。全データを引き継ぎながらそっちの支援は続ける――》
DDの声に続き、ジークの渋い一言が入る。
《……そういえば、他の馬鹿どもは無事かの?》
DDの老いた声が静かに霧の向こうへ問いかけるように響いた。
ジークの声は低く、だが落ち着いていた。
《どうだろうな?……お前たち、呼吸を整え互いの声を絶やすな……現実を手放すなよ》
『……夢を見てる連中の後ろで、現実を拾ってやろうぜ』
バードマンが誰ともなく呟いたことを思い出していた。
その言葉に誰も応じなかったが、確かに、彼らの足はなんとか地についていた。
霧の中にあってまだ歩けていた。
──そんな確信もつかのまのこと。
「やめてよ……!耳元で、ささやかないでってば!」
シークレットが突如、霧の中で跳ねるように飛び退いた。
瞳が一瞬見開かれ虚空にナイフを振り抜く。その軌道は正確すぎるほど鋭く、まるでそこに“誰か”がいるかのようだった。
「おいっ!?落ち着け、シークレット!」
ジャックが駆け寄ろうとするが、彼女は振り返りもせずに呟いた。
「……女の子の声がしたの。わたしの名前を、ずっと呼んでて……でも、知らない声だった」
ナイフを握る手が、震えていた。
その背後、別の方向でバードマンが顔をしかめて立ち止まった。
「……待て、なあ、おかしくねぇか。おい、あれ見ろよ」
彼が指差した先、霧の向こうに――ヴェルヴェット号のシルエットがあった。
「どういうことだ……?戻ってきちまったのか?俺たち、さっき着陸したばかりじゃねえか……なのに……」
「バード、それは違う、見えてるだけだ。錯覚だ!」
オダコンが声を張るが、バードマンは一歩、そちらに足を向けようとしていた。
「いや……間違いねぇんだ。あそこに俺のハットが……あれ、俺の忘れ物だ。俺、船内に置いてきた……のに……」
「バード、見るな!そいつはお前にだけ見えてる」
ジャックが叫んだ。だがその声さえも、彼の耳には遠くに感じられていた。
その時、ムートのセンサーが警告音を発した。
《霧密度上昇──》
オダコンがバードマンに飛びかかり背を乱暴に叩いた。
「戻れ!幻覚だ、息を吸うな!」
バードマンの身体がビクリと震え、ようやく自分のブーツがぬかるみに深く沈み込んでいたことに気づいた。
「……ちくしょう……今、オレ……夢ん中だったのか……」
その直後、ジャックが腰から素早くペン型注射器を取り出した。
「悪いなバード。これで一旦リセットするぞ」
シュッという音とともに、薬液が首筋に注入される。続けてもう一本。
「……うっ……眠……」
バードマンの目がとろりと閉じかけた、その刹那――
「寝るな、こっちへ戻ってこい」
ジャックは即座に別のアンプルを取り出し、対抗剤を打ち込む。
「っああ……ちょ、眩しっ……!な、何だこれ」
「神経伝達の錯乱を強制的にリセットした。少し吐き気がするかもな。幻覚の中にいた奴には特に」
同じくシークレットにも素早く接近し、同様に処置を施す。彼女はうっすらと目を開け、唇を震わせた。
「声……聞こえない……静かになった……」
「もう大丈夫だ。けどこの先は、一人でも油断したら全滅する。次に幻を見たら、躊躇なく報告しろ」
ジャックの声には、いつになく鋭い響きがあった。
──そのときだった。霧の奥から、風でもないのに一瞬だけ空気がざわめいた。
誰もが前を向いていたはずなのに、ジャックが唐突に後ろを振り返った。
「く……次は俺か……今、見えた。あそこに……何か、立ってた気がするが……」
彼は幻覚に苛まれ、震える手で注射器を準備する。
胸の奥では焦燥が渦巻いていたが、それを押し殺すように手を動かした。ここで呑まれるわけにはいかない――彼には仲間を守る使命があった。
しかし、全員が同じように振り返り言葉を呑む。霧の奥、その濃淡の向こうに一瞬だけ黒い何かが浮かんでいたように見えた。
「え?……えぇ、確かに何か、あれは?皆も見えてる?」
シェーネも同様に何かを見つけ、そして全員が同じものを見ていた。
「……あそこに何か見た気がする。いや……あの先に、あれは墓標か……?」
「墓標?」
「そう、石柱だ。が……何か文字が刻まれてた。言葉じゃない。形……名前のような……いや、誰かの痕跡か?」
ジャックの額に冷や汗が流れた。
「その隣に……メルフェノラがあった。それにしても、あれは石碑か……?」
「記憶の干渉?いや、違うか……全員が同じものを見るなんて幻覚の域を超えてる。何を見せられている……」
オダコンの声が低く響く。
シェーネは決意したように霧の向こうを見据えた。
「──早く採取してこのエリアから一刻も早く出ましょう。メルフェノラ以外にも何かが眠っている気がするわ」
その言葉を聞いていたジャックの視界が、ふと揺れた。
一瞬だけ、彼の瞳に映る世界が色を変える。霧の奥、ゆっくりと姿を現したのは、まるで大樹そのものが呼吸しているような巨影――。
地を這うように、無数の脚。背には苔むした甲殻と、光を鈍く反射する外骨格。体高は樹々をも越え、目に見えない音の波を発しているかのようだった。
「……なんだ、あれは……? 見たことが……ない……。お前ら見えるか?」
「……いや、俺たちには見えないぜ」
「ち……次は……」
視界の端が揺れ、世界が崩れていくような錯覚に陥る。
指が震える――すぐにペン型注射器を取り出し、己の首筋に素早く刺す。
シュッという音。
視界が一度ブラックアウトする。眠気と共に沈む意識の底で、ジャックはさらにもう一本の注射を迷いなく自らに打ち込んだ。
「……くそ……厄介だな。フィルターを通しても無駄か」
彼は息を吐き、額の汗を拭いながら立ち上がった。
「……ヤバいぞ。幻覚が深くなってる。現実か幻覚か、狭間がわからない。DD、ジーク!断続的に通信してくれ、お前らの声が必要だ――それにしても、さっきの影はあまりにもリアルすぎる……きな臭くなってきやがったな。……船長……!慎重にいこう――」
彼の背後では、霧がまるで何かを隠しきれずに震えているかのようだった。
──その巨影の存在は、まだ名前も概念も持たぬもの。彼の脳はそれを何かに分類しようとしたが、どこにも当てはまらなかった。それでも、確かにそこに何かがいたという感覚だけが、皮膚の裏に残っていた。
メルフェノラの植生地までついに辿り着いた。
しかし強烈な幻覚に襲われてしまう。
無事に採取できるのか?




