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記録48 霧中に滑り落ちた朗唱ーFalling Recitativo

何かが動き始めた。

――成層圏上層/ザルヴァト商会 円柱艦アリア・ブリッジ

バルゴ・サリムは、無骨な観測席に深く腰を沈めていた。目の前の半球型ホログラフには、青白く光る惑星クトゥリウムの全域が立体投影されており、その上空を周回する自艦アリアの位置が、小さく点滅していた。


表示された時間はノーシス標準時間との換算値であり、《滞在12日目》と記されている。


「……もう12日か。いや、この惑星じゃ倍以上に感じますね」

彼の独白は誰に向けられたものでもない。


ターミナルのログウィンドウには、複数の海賊船に設置したビーコン信号と経路ログが自動記録されている。だが数日前から、いくつかの帯域でビーコンは断続的にしか反応せず、動きの軌跡も曖昧になってきていた。どのログも少しずつ時計の針がズレている。

艦内の環境は静まり返っていた。副官たちはそれぞれの席で黙々とセンサーパネルに向かい、記録係やドローン制御担当も変わらず任務を続けていた。


時折、誰かが軽くため息をつきながらターミナルを再起動する。その動作は、まるで習慣のように自然で、だからこそ誰一人として、その異常を口にする者はいなかった

それは、異変があることを、異変と認識できないのか、僅かな認識のずれがあってもそれを訂正することまで理解が追い付かないのか。


バルゴは椅子を回転させ、後方のブリーフィングスペースを一瞥した。数名の戦術分析官が立体地図の前で議論を交わしていたが、彼の目にはその光景すらも何度も繰り返されているように見えた。

「この惑星……時間が滑るように流れてく感覚。いや、淀んでるのか……」


バルゴはホログラフに映る惑星の第7帯域、霧に沈む原生林ノーデンスへと吸い寄せられる。各帯域には複数の小型艦が降下していたが、その多くが既に沈黙しつつある。


第2帯域・イレム砂漠へと突入したギャルティス隊の動きは、5日目を最後に完全に消えていた。


「ふん──やつらも所詮はBランクか」

口元がわずかに歪んだが、その視線は冷たく霧を貫いていた。

「重力圏は広く、質量もある。成長も早い。……時間の感覚が狂うのも当然か」

彼はブリッジにいる誰にも語りかけず、独り言のように呟いた。



……そして、いつからか、ホログラフ右上に赤い点が灯るようになった。


「帯域5……帯域6……そして8」

副官が低く告げる。バルゴは頷きすぐに命じた。

「確認ドローンを再投入。探査レベルはB。反応が持続するようなら、小型艇を準備させてください」


誰も異を唱えない。

だがその瞬間、艦内の空気がわずかに重くなったことに、バルゴだけが気づかなかった。この惑星クトゥリウム――その成層圏から俯瞰する観測者たちは、まだ夢を見ていなかった。だが、その夢の輪郭は、静かに艦内に侵入しつつあった。


ホログラフには再び《滞在12日目》の文字が浮かぶ。何かを確かめるように。


分析官の一人が、発信されたビーコンログの時間表示に小さなズレを見つけていた。だがそれは、処理遅延の一言で片づけられ、報告すらされなかった。



そして、バルゴの目が、ある一点にとまる。

――ヴェルヴェット号。第7帯域・ノーデンスの森に降りてからすでに10日。キャンプは残されていたが、彼らはすでにそこを離れ、奥地へ進んだらしい。数日前からは、その足跡さえも確認できていない。


「ヴェルヴェットのキャンプ……今はもう、無人みたいですね」

副官の呟きにバルゴは答えなかった。


そのすぐ近くで、別の乗員が何かを言いかけて口を閉じた。手元のターミナルに映ったログに一瞬だけ眉をひそめたが、結局報告には至らなかった。むしろ、違和感を覚えぬまま受け入れていた。

キャンプが無人であるという事実が、何かを発見したか、あるいは幽霊を追って森の奥地へと進んだ結果、何かに呑まれた――その可能性として処理された。


ただ静かに、ホログラフに映る第7帯域の濃霧を見つめていた。





――第7帯域/ノーデンスの森・ヴェルヴェット号キャンプ地

ノーシス標準時間で滞在12日目のこと。

霧の密度は初日と比べてほとんど変わらず、湿度だけが少しずつ骨に染みるように増していた。

ヴェルヴェット号のキャンプはくぼ地に着陸した艦から最寄りに設営された半円型の仮設拠点。濃霧に溶け込むように配置された防音膜と熱遮断フィールドにより、外界からはほとんど感知されない。


その中で、唯一電子音を発していたのはDDの管理端末だった。


「……内部温度、安定。フィールド維持良好。通信接続は……まだ問題ないのう」

DDはごくわずかに眉根を寄せながらも、手元のタブレットを指先で滑らせる。

「……船だけで済むなら楽じゃがな。この星の霧は、センサーの通気口にまで染み込んできとる。密閉空間ばかりに頼っとったら、気づかぬうちに感覚のズレが生まれるかもしれん」


それは、誰に向けたわけでもない独り言だったが、ジークの耳にはしっかり届いていた。老体のように見えても、彼の操作は迷いがなく、沈黙がキャンプに馴染んでいた。


反対側では、ジークがブラスターを分解整備していた。武器と無線機を交互に見ながら、キャンプ周辺の監視ログを確認し、空白の時間帯に手動記録を打ち込んでいく。

「……異常なし。だが、どこか変だな。小動物の動きが今朝はやけに少ない」


「風が通りすぎた後の静けさかもしれんのう。自然というのは、そういうもんじゃ」

ジークは小さく頷いたが、視線は端末から外さなかった。



その頃、ヴェルヴェット号の採取班は、今朝の時点でキャンプを出発し南方の湿地エリアへと向かっていた。

目指すは、メルフェノラの植生地。発光個体の確認はまだされていないが、湿度・土壌・生物分布の条件は合致している。10日の探索を経て得たデータは、地に足をつけて歩むからこその現実である。


「……12日目か。探索から10日。そろそろ何か反応があってもよさそうなもんだがな」

ジークの呟きに、DDは「ふむ」と小さく笑った。

「焦ることはない。夢というのは、そう簡単に形にはならんよ」


その言葉の意味を、ジークは問わなかった。





――第7帯域/ノーデンスの森・南方湿地エリア

キャンプを発ってから10日目のこと。

シェーネ・フラウ率いる採取班は、白霧に沈む原生林を慎重に踏破しながら、目的地であるメルフェノラの植生エリアに徐々に近づいていた。

霧は相変わらず濃く、空間そのものが曖昧になる瞬間がある。踏みしめた足音がすぐに吸い込まれ、反響も距離感も不確かだ。


「音が、遠い。……いや、深いって言うべきかしらね」

シェーネは足元のぬかるみを避けつつ、腰の戦術モニターに触れた。


画面には地形の等高線が不鮮明に映っている。視界と同じく、データにも霧がかかっているようだった。

ムートが前方を警戒しながらキャタピラを進め、ぬかるみに沈みながらも、軋むような音を小さく響かせていた。


何かが遠くで揺れた。


「生体反応確認。中型獣、だが非攻撃性か。こちらを警戒し、すぐに離れたみたいだな」

オダコンが低く告げる。手にしたスキャナが青と緑に交互に瞬いた。

「……この空気の密度、植物だけじゃなくて音そのものが歪むような感覚がある」


「うちはここ好き?っていうか、何か気楽だな」

と、シークレットが笑う。彼女は泥の跳ねをものともせず、軽やかに歩いていた。

「なんか、ぜーんぶが自然じゃん。優しいっていうか、荒んでない感じ。――あ!ほらっあそこ。苔、光ってない??」


シェーネが振り返る。

ジャックが駆け寄りその光をそっと手に取るが、

「メルフェノラじゃない。こ・れ・は~……ルミナル・モスだな。光の周波数が違う、そもそも情報と形状も違うな」

そう言って、手元のホログラフからターゲットの詳細情報に目を通していた。


シェーネは即座に補足するようにうなずいた。

「それでも近い位置には来てるはずよ。でも、光が集まる場所には似たような生態が集まるはず。この辺りにメルフェノラ隠れているかもしれないわ」


「あぁ、了解。記録しとくぜ。地形座標、ポイントS97‐1追加」

バードマンが高所の枝にとまったまま、マッピングデバイスを展開した。


その羽根が微かに揺れた。


「……なぁ、キャプテン。気のせいかもしれないけど、さっきから森の鳴き声が一つ減ってねえか?」


誰もすぐには返事をしなかった。だが、確かに静かすぎるという感覚は、誰の胸にも同時に宿っていた。


「進みましょう。今は……音じゃなくて光を探しましょう」

シェーネの声は冷静だった。


その背後で、ムートの警戒センサーがもう一度、淡く光った。

あまたの生物が、霧の奥で気配を放っていた。採取班は索敵と隠密行動を繰り返しながら、ひとつひとつの危険を丁寧に回避してきた。


小型の跳躍虫や飛行獣が突如として現れては、ムートの自動迎撃システムによって撃退される。泥の水面を割って姿を見せた細長い節足の捕食種も、事前のセンサー感知で進路を逸らされていた。

この巨大な原生林の中で、人型種である彼女たちはまるでアリのような存在だった。それでも彼女たちは、現実を踏みしめながら着々と前へ進んでいた。


だが、湿地の奥へ進むにつれて、霧はさらに深くなっていく。まるで視界のすべてが曇りガラスの向こうにあるかのように、光も音も、距離も曖昧になっていく。


耳に届く鳥獣の鳴き声が、どれも遠く、くぐもっていた。

仲間の声すらも、少しだけ遠くに聞こえるような錯覚。


「……キャプテン?」

誰かの声が、わずかに間延びして届く。


シェーネは振り返ったが、そこにいたはずのオダコンが一瞬、視界から消えていた。


「……気のせい……かしらね?」

そう思った矢先、ジャックが立ち止まり、スキャナを睨んだ。


「待て。空気の構成比が微妙に変化してる……霧の成分……これは塩基性物質が混在している。神経伝達物質と相互作用してもおかしくない?お前ら互いの声をよく聴いて進むんだ……異常があれば知らせてくれ」

彼の指が、素早く試薬ケースに伸びた。

「せめともの……吸入式フィルター、切り替えとけ、忘れるなよ。この霧はマズイ――」


小さな命令が、霧の中に滑り落ちていった。応答もなく、音すらも戻ってこなかった

全く違う場所でそれぞれに何か違和感が起きている?

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