記録29 黒の胎動、炎に抗して
ほしのです。
いつもありがとうございます。
改稿し、記録29 完全版になります。
お楽しみください。
湿度がさらに高まっているのを、ケイは防護服越しにも感じ取っていた。
スーツの内部は適切な温度と気圧を保っているが、循環ユニットの作動音が次第に大きくなる。 酸素の消費量も上がっており、残量インジケーターが静かに点滅し始めていた。
「……エネルギーの消耗が加速しているな」
ケイが呟き、ディスプレイを確認する。
「はい。推定耐用時間、あと152分。探索範囲を広げるなら……歩調を早めるべきです」
アイが冷静に応じた。
その時だった。
――空間の密度が、また変わった。
黒蝕の這う道を抜けたその先、ふいに風が通る。
「……これは?」
「いえ……開けた空間の可能性が高いです。構造物の気配も――」
そして二人がその通路を抜けた瞬間、目の前に広がったのは、まるで時間に取り残された廃坑。あちこちに旧式の採掘機器や崩れたコンベアが無造作に転がり、床には黒い砂のような粉塵が厚く積もっている。 それは、ただの土ではなかった。
「……黒蝕の死骸だな」
ケイがしゃがみ込み、素手では触れずに酸素ランタンの光で照らしながら目を細める。
「一部は菌糸類が活性化して、新たな芽を出しています。この坑道は……育っている」
アイの声は静かだったが、確実な警告を孕んでいた。
天井からは水滴が落ち、ひび割れた鉄骨が吊るされている。いつ崩れてもおかしくない構造。空間のあちこちに空洞化した地層が見られ、通路の端では地面が抜け落ち、深い裂け目をのぞかせていた。
「よく、こんな場所がまだ保ってるもんだな……」
ケイが皮肉混じりに言う。
「酸素供給圏外です。ランタン、追加設置を」
アイが淡々と酸素ランタンを起動し、壁際に設置する。青白い光が広がり、黒蝕の粒子が少しだけ後退した。
「……この坑道はウムブライト採掘用の?」
「えぇ。ここは、地層深部の調査と掘削作業用……かつての採掘記録に一致する可能性がありますが、正確なマップには記載がありません。おそらく封印された廃坑でしょう」
「封印、ね……理由はまさに黒蝕の暴走か……」
二人は慎重に足を進めた。 金属の床板がひしゃげ、腐食した機械が呻くように軋む。その空間には、誰の気配もなかった。 だが、何かが“ずっと見ている”ような錯覚がケイの背を撫でた。彼は火炎放射器のノズルを少し持ち上げ、目を細めた。
「……アイ」
「ええ、私も感じます」
――気配がある。
生体反応ではない。 だが、この坑道そのものが呼吸しているような感覚。
「行こう。ここは……まだ生きている」
そう言って、ケイはゆっくりと朽ちた通路の奥へと進んでいった。
廃坑を歩く二人の足音だけが、湿った坑道に微かに反響していた。酸素ランタンの光は頼りなく、黒蝕の胞子が漂うこの空間では、光すら飲まれるようだった。
数分――何も起きなかった。 ただ、重く、深く、静かだった。
だが――。
ケイが足を止める。
「……アイ、感じるか?」
「……ええ。空気が――揺れています」
地殻変動のような振動ではない。もっと、生き物の鼓動のような、熱を孕んだ、重い蠢き。
「この先で……何かが、動いてる」
その瞬間、二人のHUDに酸素濃度の警告が再び点滅する。
《酸素濃度:1.2%――警告:酸素環境崩壊――即時防護モード継続》
アイが小声で呟く。
「……黒蝕が、活性化しています。どこかで、増殖を始めた」
「退路は?」
「……唯一は、あの縦穴を……駆け上がるしかありません」
つまり、もう後戻りはできない。
ケイは火炎放射器のノズルをゆっくりと前へ構える。アイも無言でそれに倣う。二人の視線が交錯し、軽く頷いた。
――その時だ。
《警告:300m先に未確認構造物》
BOLRのディスプレイが明滅したかと思うと、ノイズが走る。
《ザザ――……ザザザ……》
「なんだ……?」
ケイが眉を寄せたその時。
アイが鋭く叫ぶ。
「ケイ!前方、来ます!!」
照明が、沈むように消えた。
まるで闇が飲み込んだかのように、周囲の光が次々と黒に染まっていく。
「っ……黒蝕の群だ!!」
岩の割れ目、崩れかけた鉄骨の隙間、廃坑の至る所から、黒い触手のようなモノが、這い出してくる。粘液質の触手、煙のような霧、砂のように崩れて形を変える黒蝕。それらが、波のように押し寄せる。
地を這う音、壁を這い上がる音、視界の隅で蠢く手のような塊。
それは“狩り”に来た。
「来いよ……」
ケイが低く呟き、火炎放射器のトリガーに指をかける。
アイが後方をカバーしながら囁く。
「攻撃時は、酸素管理を忘れずに。撃ちすぎれば、死にます」
「分かってるよ……酸素は命だろ?」
――吐息が白く散る。
次の瞬間、トリガーが引かれた。
――!!
焼ける音。悲鳴のような音。黒蝕の触手が一気に炭化し、蒸発する。だが、焼いても焼いても、その数は減らない。
「数が多すぎます!進路確保、急いでください!!」
アイが手にしたデコイを放る。
赤い光が点滅しながら熱源を撒き散らし、黒蝕の群れが一斉にそちらへ引き寄せられる。
「今ですケイ!ルートBへ移動!」
「了解ッ!」
二人は乱れた空気を切り裂きながら、深部へと駆け出した。
彼らの背後では、朽ちた坑道の壁がまるで肉のように波打ち、黒蝕が咆哮のようにうねっていた。
――この星の、最も深い闇が目覚め始めていた。
迫りくる黒蝕の群れは、まるで生きた波のようだった。いや、それは渦だった。四方八方、地上から、壁面から、天井から、あらゆる方向から、あの黒い触手が伸びてくる。
「ケイ、後方塞がれました!」
「くっ――」
ケイは酸素ランタンを一つ、滑らせるように前方へ投げた。
シューッ……という音とともに、広がる青白い酸素の光。その中心だけ、わずかに黒蝕が怯み、踏み込みを躊躇う。
「今のうちに――!」
しかし、黒蝕は怯んでなどいなかった。一瞬退いたかに見せて、霧状の粒子へと変化し、酸素の隙間を縫うように侵食を始めてきた。上方から、ずるりと音を立てて、触手が降りてくる。
「上だッ!!」
ケイが即座に火炎放射のノズルを振り上げ、閃光を放つ。
焼ける煙、蒸散する霧、燃える黒蝕の塊が地面に崩れ落ちる。
「死んだ……か?」
だが、次の瞬間、灰の中から黒い液体が滲み――細胞が蠢き、数秒で元通りの触手へと再構築される。
「く……! 切りがない!」
「再生速度が上がってます!残存細胞片からの超再生反応、明らかに異常です!」
それは、まるでこの坑道自体が黒蝕に“学習”されているかのようだった。
「このままだと、圧死か酸欠か焼死だな」
ケイが毒づくように言いながら、腰から新しい酸素ランタンを取り出して起動。
再び、酸素の光が広がり、空間に一瞬の隙を作る。
その隙間から――
BOLRが、明滅する。
《接近:未確認構造物まで180m――警告:周囲、黒蝕濃度臨界突破》
酸素ランタンの灯りでわずかに怯むが、次の瞬間にはすぐに巻き返す。黒蝕霧が揺れ、足場が見えなくなっていく。
「……まずいな……!」
ケイの声が吐き捨てるように響く。
しかし、突如、黒蝕の波がぴたりと動きを止めた。
「……止まった?」
静まり返る坑道。沈黙の中、空気がざわつく――その異様な気配。ずるずると這い進んでくる影の中、明らかに異質な輪郭が浮かび上がってくる。
「……あれは……」
ライトが照らした先――そこにいたのは、クアドリスの形を模した何かだった。
だがその動きは、本物のクアドリスとはかけ離れていた。四肢を異様に伸ばし、関節を歪め、獣のように地を駆けてくる。
「擬態……? まさか、黒蝕が……」
ケイの呟きに応えるように、続いて現れたのは――かつてこの惑星にいたであろう、異星種の“模造体”たち。
節足を持つもの、巨大な吸盤を持つもの、甲殻を模したもの。だがその全ては、ただの模倣でしかなかった。歪んだ記憶の集合体。命のなり損ない。
「完全なヒトの形にはなっていない……けど、学習してる……!」
バケモノたちは、統率された動きで、二人を“誘導”するように包囲してくる。
背後を取られる――ケイが気付いた瞬間、火炎放射器を掴む“手”が伸びていた。
「チッ――!!」
咄嗟に飛び退く。
引き金を引いた火炎放射器から、炎が爆ぜるように辺りを焼いた。
焼かれた黒蝕の影――それはまるで本当の生命のように、のたうち回り、叫ぶように崩れていった。黒く焦げた断片が、灰となって散っていく。
「物量で敵いません!」
アイのHUDには、酸素残量とエネルギー残量が危険域に達していた。
「このままここに居れば、オレたちも……いずれ餌だ」
ケイは腰のポーチに手をかざしBOLRを展開、狭域スキャンモードへと切り替える。
レーザー格子が数メートル四方に展開され、周囲の地形が緻密に可視化されていく。
「周囲の岩盤、深層構造を捕捉。――一部、自然裂溝あり。そこが抜け道に……!」
ケイはわずかに光るスキャン像を睨みつけ、即座に判断を下した。
「アイ!前方30m、角度右32度、縦73度の裂溝! そこに酸素ランタンを投げろ!」
「なるほど、あの岩盤の形状っ!了解です!」
アイが即座にランタンを構え、裂溝に向けて全身で投擲。
「アイ、ランタンごと撃て!!奴らごと――爆ぜさせる!!」
飛翔するランタンが青白く光り、重力に従って落下していく。闇に突き刺さるように、酸素が広がったその瞬間――それは、まるで青白い光の導火線のようだった。
アイの火炎放射器が火を噴き、ランタンに命中。
次の瞬間、大爆発が起こった。爆圧で坑道の空気が一気に逆流する。黒蝕の群れは吹き飛び、周囲の岩盤まで崩れ落ちていく。
「やったか……?」
轟音と共に、前方の坑道がひとつ、大きく開いた。崩れ落ちた岩が、一部の黒蝕を封じ込めるように落下していく。
「……このまま逃げ切るぞ!!」
二人は爆煙の中を駆け抜ける。
だが、まだ奴らは生きている。黒蝕霧が、再び地を這い始める。そこで――ケイは、超能力を発動させた。
「ッ……いけるか……!」
伸ばした片手が、死骸と化した黒蝕の塊――黒蝕霧の断片を纏め上げ、壁のように組み上げていく。
ズズズ……と音を立てて、黒い霧の壁が崩落の隙間を塞いでいく。
「……これで、しばらくは入ってこれないだろ……新しいのが湧いてこなきゃな……」
しかし、周囲の岩盤が不穏な音を立てて揺れ始めた。
「崩れるぞ!急げッ!!」
轟音と共に岩盤が崩れ落ちる中、二人は割れ目を飛び越え、剥き出しの鉄骨を踏みつけ、次の空間へ――直後、背後の通路が完全に崩落する。粉塵が舞い、黒蝕の影は、ようやくその姿を消した。
――静寂。
あの狂気のような黒蝕の波から、わずかに逃げ切った先で、二人は荒い息を整える。
「……なんとか、たどり着いたな」
ケイがゴーグル越しに辺りを見渡す。
そこは、確かに――人工的な空間だった。圧倒的な壁面の硬度。不明瞭な合金構造。旧式のシェルターとも違う、何かの設計思想に基づいて造られた建築。
「ここは……採掘場か?いや、何か違う……」
アイが、酸素再充填のためのセンサーを作動させながら、静かに頷いた。
「黒蝕を振り切った以上、今度はこいつの正体を……暴く番ですね」
目の前には、まるで巨大な装甲のような扉が鎮座していた。その表面には、風化した金属と異星文字のような刻印が残っており、おそらくは数十年以上開かれていないのかもしれなかった。
「……これは、なんだ……?」
ケイが手をかざし、金属の表面をなぞる。
「炭素合金に似ていますが……これ、尋常じゃない密度です」
アイが素早くスキャンをかけるが、解析は難航していた。
「この素材、通常のツールじゃ開けられませんね……でも」
アイが指の掛かる場所を見つけると、力を振り絞り強制的に開く。
硬い岩盤に足がめり込み、構造物自体がきしむ音を響かせる。
「……ふ……んッ!!」
圧倒的力で扉が開かれていく。
「ケイ、先に入ってください!」
そう言うと、二人は飛び込む様にして構造物内に入ると、鈍重な扉は再び封印されるように隙間なく閉じた。
そして――中は、まるで別の世界だった。
古びてはいるが、強固な素材で築かれた廃シェルターの一部。天井には腐食しかけた照明。足元には、粉塵とともに朽ちた作業装置や棚が散乱していた。空気は淀んでいるが、黒蝕の気配は感じられない。
「ここなら……しばらく身を隠せるかもしれません」
アイが酸素センサーを確認しながら言った。
「酸素濃度、2.4%。外よりは……マシだな」
ケイが防護マスクを軽く叩きながら、壁に背を預けて座り込む。
背中に、ようやく重力を感じる安堵――戦いの最中にはなかった“呼吸の余裕”が、二人の間にわずかに生まれていた。
「ここを、一時的な拠点にしよう。ボンベのチェックと、デバイスの充電……あとは、マッピングの再構築だ」
「ええ。BOLRもかなり消耗しています。しばらくは静かにしておいた方が……」
アイが機材を丁寧に並べ、小さな仮設キャンプのようなものを展開していく。
ケイは視線を奥へと向けた。
――この先に、まだ何かがある気がする。
「黒蝕が追ってこないのは、ここを聖域として避けてるのか、それとも――まだここに先客がいるのか」
二人の短い休息が、やがて再び動き出す探索の序章になることを、
この時、まだ彼らは知らなかった。
ついに地の底に到達したのか?
ここには一体何が待つ?




