記録107 無編の秤
さて、ようやく話しを次に進めていきます。
お待たせしました。
モノリスの中、最先端で、小さな世界。
展望棟へ足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった気がする。無音のはずなのに、耳の奥でごくかすかな震えのような感覚が生まれる。風はない。けれど、髪の毛が静電気に触れたようにそっと持ち上がり、皮膚の表面が誰かに見られていると告げていた。
四方には壁も天井も存在しない。代わりに、宙に浮かぶ光の糸が無数に走り、層を成し、編まれ、巨大な網膜のように空間全体を覆っている。ひとつの糸が明滅するたび、床の膜が薄く波紋を描き、その光は足の裏から脈拍のように伝わり、身体の奥まで染みこんでくる。
周囲では研究者たちが散らばり、光パネルや浮遊端末に指を走らせていた。彼らの白衣は、モノリス内部の無風にもかかわらず、なぜかゆっくりと揺れ続けている。光の粒子が織りなす風に触れているかのように。
パネルを叩く音は金属ではなく、淡い水滴の跳ね。声は囁き声で統一されているかのように低く、そのすべてがモノリスの呼吸へ吸い込まれていく。
ケイはその中心に立ち、光の網を見上げた。青、赤、灰、金──無数の光点が、一定のリズムで鼓動している。
「……生きてる……のか、これは」
呟いた声が、表面張力のように空気を揺らした。
メシエが隣で小さく息をのむ。
「ほんと……脈をうってるみたい」
彼女の髪が光を反射し、金糸のようにゆらりと揺れた。
レイモンドが端末を指先で軽くはじく。指が触れた瞬間、光がその動きを追いかけるように道筋を描き、網目の一部が拡大された。
「生きていると感じるのも無理はない──かつてモノリスは百基の研究棟で構成されていた。だが現在、稼働しているのは四十三基。二十七基が統合、十四基が沈黙、十六基が完全に消滅した」
「消滅……ね」
ケイがつぶやく。
レイモンドは静かに首を振る。
「自壊じゃない。モノリスが不要と判断して削除した」
削除──その単語が空間の光の色をほんの僅か濁らせた。
……削除……ですか。
アイが光の変化を捕捉し小さく言う。
「構造は自己再帰演算ネット。研究棟は独立施設ではなく、すべて知性の断片と言えます」
メシエが目を見開く。
「じゃあ、やっぱり……このモノリスはひとつの頭脳──なの?」
レイモンドは曖昧に微笑んだ。
「俺たちは“観察者”と呼んできた。味方だよ。少なくとも、いまのところは」
ケイは光に照らされた横顔で静かに問う。
「味方ってのは……どういう意味だ?」
レイモンドは端末を胸元で閉じ、深く息を吸った。
「導くという意味だ。モノリスは俺たちが求める道を予測し、結びつけてくれる。黒蝕核、アポステリオリ……君たちがあの研究に辿り着いたのも、モノリスの案内があったからだ」
ケイはその言葉を聞きながら、光の網を見上げていた。網の一点一点が、呼吸のたびに自身の瞳へ吸い込まれるように映る。
そして、ぽつりと言った。
「……じゃあ、教えてくれよ」
光の脈動が、一瞬だけ止まったように見えた。
「なんでTEMISを見つけられない? オレたちの記憶も経路も思考も全部スキャンしてるんだろ。オレたちに頼る意味がない」
展望棟全体の空気が張りつめる。遠くで足音が止まり、研究者たちがわずかに振り返る。レイモンドは喉を動かしたが、言葉は出なかった。
「……モノリスは干渉しない。観測だけだ」
かろうじて絞り出した声には不自然な間があった。
「それが管理者──アーギュメントの意志だ」
ケイはわずかに笑った。光の網に照らされたその笑みはどこか痛々しくも見える。
「観測だけして危険を放置する。それが導きか?」
確かに……暗殺を直接オレたちに持ち掛けたのは……レイモンド、こいつだ。そして、アーギュメントはレイモンドの言葉を……そうだ。まるで借りたみたいに。
レイモンドは目を伏せた。
「共存してきたんだ。そもそも──」
ケイは彼の言葉を遮るように静かに言った。
「その“共存”ってやつ……主語はどっちなんだ?」
沈黙。展望棟の光が脈打つように揺れた。アイが数値を読み上げる。
「微弱な電磁揺らぎ……異常なし」
ケイは肩をすくめて笑った。
「ただのぼやきさ。気にすんな」
だが、モノリスの奥底では、その言葉が“未知の変数”として記録された。
展望棟を離れると、通路の光が流体のように滑った。影が存在しない世界。レイモンドの足音が、白い床を柔らかく叩くたび、壁の薄光が呼吸を合わせるように脈を打つ。
すれ違う研究者たちは忙しなくパネルを操作し、その度に手首の下で薄い光の残像が尾を引いた。誰もが“何か”を急いでいるように見え、その何かを理解している者は一人もいないように見えた。
──ケイの問いが、胸の奥の古い引き出しを勝手に開ける。
アーギュメントの指針。
『観測を続けよ。干渉するな。道を見出した者を止めるな』
百年近く、同じ文言であった。
……どうして誰も疑わない?……どうしてそれが“当然”になった?
レイモンドは天井の光へ視線を上げた。光は流星のように横切り、彼の頬を照らし、ほんの一瞬、何かが彼の胸を締めつけた。
「……俺たちは、誰の夢の中にいるのか?」
その問いは白い無音へ溶けていった。
レイモンドは歩みを止めた。胸の奥に沈んだ違和感が、静かに形を帯びる。閉ざしていたはずの古い抽斗が、ケイの言葉で再び開き、そこから冷たい風のような思考が漏れ出してくる。
──自分たちは、本当に“選んで”ここにいるのか?
──アーギュメントの意志とは、誰の意志なのか?
その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥で別の声がささやく。
そうだ……アーギュメント。あなたとなら、モノリスを理想郷にできると信じていた。
それは祈りにも似た、自分でも説明できない確信だった。どんな危機があっても、この知性体と共に歩めば、より良い未来へ辿り着ける──そんな甘い幻想。
だが、それは“誰の理想”だったのか?
アーギュメントのものか、初代管理者の残響か、それとも……モノリス自身か。
指先がわずかに震えた。歩こうとしても足が地面に固定されたように動かない。呼吸は浅く、肺に入る空気の温度すら曖昧になっていく。
通路の光が、彼の鼓動に合わせるかのようにゆっくりと明滅した。まるで彼の揺らぎを観測しているように。
アイが数メートル後方で立ち止まり、振り返った。無機質な瞳が、レイモンドの背中を正確に捉える。
「レイモンド。心拍の乱れを検知。応答を──」
返事はなかった。
レイモンドは自身の内にある何かが、音もなく軋むのを感じていた。
その時、天井の光が波紋のように広がり、どこからともなく風のような揺らぎが通路を撫でた。
──モノリスが、彼を見ていた。
観測。記録。判断。
それは優しさでも敵意でもない。ただ、そこにある揺らぎを捉える行為。
レイモンドは息をのみ、足を前へ出した。揺らぎを悟らせまいとするように。けれど、その一歩の重さは、もう以前の彼ではなかった。
医療ラボでは静かな光が灯っていた。ナノ繊維が生体電位を送り込み、ケイの皮膚の下で緩やかに波をうつ。透明カプセルの表面には微かな湿度が宿り、呼気のような曇りがゆっくり広がっては薄れていく。
メシエはそこに立ち尽くしていた。指先が震えていることに気づかないほど、ケイの姿から目を離せなかった。
「……こんな身体で、ずっと戦ってきたんだね……」
アイが背後に現れ、淡い光が彼女の髪に反射して揺れる。
「睡眠時間を超過しています、メシエ」
「うん、なんか眠れなくて……」
アイはケイの状態をチェックしながら告げる。
「修復は順調です」
メシエは唇を震わせ、ゆっくり振り返った。カプセル越しのケイを守るように立つアイの姿が、滲む光の中で揺れて見える。
「ねえ……アイ」
声はかすれていた。泣いているわけではない。ただ、胸の奥が締めつけられて言葉が細くなる。
「あなたは……ケイのこと、どれくらい知ってるの?」
アイの瞳が微かに光を収束させた。返答を選ぶ“間”が生まれる。
「私が知るケイは……半分にも満たないでしょう」
その声音は珍しく柔らかかった。メシエは目を瞬かせる。
「ただ、彼が生きている理由のひとつは私です。それは“誰のせい”かは……演算では判断できません」
「何で……ケイは、死にたかったの?」
アイの光が一瞬だけ揺れた。
「メシエ。その話題を、彼のいない場所でするのは……適切ではありません」
「うん……卑怯だよね。でも……さ」
メシエは胸に手を置いた。
「私はケイのこと、もっと知りたいの。何を考えて、何を怖がって……どうして、生きてるのか」
アイの瞳がメシエをまっすぐ見つめる。その透明な視線にメシエの頬がじんと熱くなる。
「……それは、好意というものですか?」
「えっ……あっ……」
返事にならない声が喉に引っかかった。胸に渦巻く感情が、突然形を持って迫ってくる。ケイの苦しみを知りたい、寄り添いたい、そばにいたい。その全部が、言葉になるより先に身体を熱く染めた。
アイはその変化を観測しながらわずかに光量を落とす。
「……解析不能。ですが、メシエ。あなたのその感情は……否定すべきものではありません」
メシエはケイのカプセルにそっと触れた。透明膜の向こうで、彼の胸が静かに上下している。
「……ケイが向かうなら、私も一緒に行く」
アイは頷いた。
「ええ。揺らぎは後で観測しましょう」
その直後、壁面の端末が点滅し、レイモンドの声が割り込んだ。
「──査問会への招集だ。新たな被検体群の再検証が始まる。君たちも来てくれ」
メシエは息を整え、アイは光の乱れを収束させた。ふたりは光の回廊へ歩き出す。
モノリスの秤はまたほんのわずかに傾いた。
ヒトはなぜ心を持つのでしょうか?




