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記録105 第三の視点

それぞれの存在理由。

誰もが生きる中で、一度は考える事でしょう。

モノリスの照明が、わずかに波長を変えた。

それがこの場所で言う朝だった。太陽は昇らず、かわりに光子の密度が静かに上昇する。白が青を帯び、金属の床が淡い息を吐くように光った。遠くで、重力や空気密度を調整しているのだろうか、絶え間なく低い唸りが続いている。


その音の中で、ケイは静かに目を開けた。

瞬きをするよりも滑らかに、すうっと。瞳孔が光を捉えるまでの一瞬、世界はまだ夢の中にある。まぶたの裏に微かなノイズ。脳の深部がチリ、と電気を走らせ、神経が目覚めていく。隈は消えることは無い。


彼はゆっくりと手を握り指を開く。

掌から肘、肩、首へ。

そして足の指先まで、感覚が連鎖して戻るのを確かめた。


深く息を吐く。

身体は冷たいが思考は妙に冴えている。眠れたのかどうか、本人にもわからない。



身体を反らせ、ストレッチをすると部屋を後にした。夜と朝の境界を裂くように扉が静かに開くと、人工灯の光が細い筋を描いて流れ込み床に散る。廊下に出ると空調の風が頬を撫でた。その向こうから規則的な足音。


アイもタイミングを計ったように部屋から出てきた。白光を背に受けた彼女の輪郭はまるでガラスに封じ込められた光そのもののようだった。


「……眠れましたか?」


ケイは薄い笑みを浮かべ、短く息を吐く。

「そうだな……肩が凝って仕方がない。あと、久しぶりに夢を見た」


その声に、少し遅れてメシエが現れる。仮眠をとった彼女は寝癖のまま髪をまとめ、まだ半分夢の中のような顔。

「夢? どんなの?」


ケイは壁に背を預けたまま、視線を上げた。

「星と星が結びつき、一つの生命を形づくっていた。動物なのか何なのかはわからない。でも、それは……オレたちの身体の一部だった気がする。……ッは。何いってんだか」


言葉の途中で、彼の瞳が微かに光を反射する。アイが小さくデータを記録し、メシエは目を細めた。今まで見たことのない彼の表情。迷いでもなければ、恐怖でもない。観られることを嫌っていた彼が、何かを探している。


「……良い夢なのか、怖い夢なのかわからないね……」


「夢なんてそんなもんだ」


「ですが、きっと意味があるのでしょう」


一拍の呼吸の後、ケイが呟く。


「お前が抽象的なことを言ってどうする」


「私にも理解できないことばかりですから。ケイの事ですら、わかっているようで解らない。私自身の事もです……ここに来たのであれば、少しでも理解を深めたいものです」


「……そうだな」

ケイはそれだけ言って歩き出す。


アイとメシエが後を追う。

三人の足音が、廊下に沈み込み、マトリックスが彼らの足元を照らした。


「ケイ、観測棟から呼び出しです」


アイの報告にケイが短く頷く。

「行くか」


「私も同行せよと。あなたの観測と記録をサポートすることになりそうです」


「そうか」


ケイは無造作に上着を羽織り、無言で通路に出た。遠くの方で誰かが短い言葉を交わす。その声が、翻訳装置を介して幾重にも重なり合い、一瞬、音の意味を失う。

メシエは二人の背を見送りながら、この小さくも大きな構造体の時間を実感していた。

ただ観測だけが続いている。そして今日から本当の観測が始まるのだ。





メシエは朝食をとりに食堂へ足を運んだ。そこは広くも狭くもなく、それ自体が何か臓器や器官のように見える構造をしていた。壁は灰銀の金属光沢を保ちながら有機的な脈動をしている。


内部を流れるのは空気ではなく、栄養循環の流体らしい。金属と有機の境界が曖昧で、呼吸のたびに床がわずかに震える。まるで一人一人をスキャンしているかのよう。


長いテーブルがいくつも並び、その周囲に多様な種族が静かに座っていた。

ヒト科の科学者、鳥人属(ガルーダ)陸性頭足類(スレイプニル)妖精属(アールヴ)、そして人工皮膚で覆われた改造体。種族ごとに呼吸のテンポも体温も違う。それでもこの場所ではすべてが同じリズムで動いていた。


メシエはトレーを手に、列に並ぶ。

空調のせいなのか、無駄な香りはほとんどない。しかし、マニュアルのように並ぶ特徴的な形状の食材は、見るだけでも味が理解できる気がした。甘味、塩味、酸味、旨味――それぞれが数学のように整っている。


「……これ、食事というより、計算式だね」


思わずこぼすと、後ろにいた研究者が笑った。


「はっはは! 面白い。そう、栄養素は完璧ですよ。昆虫由来タンパク、鉱物抽出糖質、光合成培養の脂質。外部供給は不要です。そこらへんにある宇宙食よりも緻密で芸術的と言えます」


「へえ……美味しいの?」


「味は脳が判断するものですから」

冗談のような言葉だったが、男の声には笑いの温度はなく作業的にも見える。


トレーの上に置かれたのは、淡く発光する立方体の食材。フォークで刺すとゼリーのように震え、内部から色が変わる。噛んだ瞬間、冷気と熱が交互に広がり、計算されつくした情報が脳を直撃した。


「……不思議な感覚」


「適応しますよ、そのうち。経過と共に身体が再構築されていきます。より健康体になり、普通の食事が耐えられなくなる」


メシエは顔を上げる。

「それって……怖くない? というか、うーん。ツマラナイ……」


「怖い? 怖いとは何でしょう」

ガルーダの研究者が首を傾げる。

「脳が最適化するんです。味覚神経を削除しても、満足度は上昇する。興味深い現象ですよね?」


メシエはフォークを止めた。

「でも……ちょっと見た目が、ね」


隣の研究者が目を細める。

「そうですね。ものの見た目は大切です。でも、その見た目に惑わされないことも大切なんですよ。我々にとってこれは、視野を広く保つための訓練でもあります――この食事はね、認識の実験なんです」


「訓練……?」


「ええ。ヒトは美しさや醜さで物事を分けたがる。でも、科学はその境界を取り払ってこそ進む。味も形も、全部、思考の一部なんです」


メシエは少し困ったように笑い、フォークを手に取った。

「私は……楽しむってことが一番大切だと思うんだけど」


研究者は穏やかに微笑んだ。

「ふふふ、それはそうですよね。でも、私たちはこれが楽しいんです。よければ——あなたも試してみてください」


メシエはためらいながらその立方体を口に入れた。瞬間、舌の上で冷気と熱が交錯し、視界の端が白く揺れた。

「……うん、結構……ううん。かなりおいしいかも」


そう言って笑う彼女に、研究者は満足げに頷いた。


「でもな~、やっぱり見た目も大事だよ。だって料理人やパティシエが活躍してるくらいなんだからさ! それは一種の芸術なんだからっ!」


「ええ、そうですね」

研究者は微笑みながら、端末に軽く指を走らせた。

「あなたのその反応も、実に素晴らしい」


笑顔の裏でデータはもう収集されている。その事実に気づいた瞬間、メシエの背筋を冷たいものが通り抜けた。


――食事を終えたあとメシエは廊下を歩きながら深く息を吐いた。光が交差する通路は無臭で、時間の流れさえ感じられない。


「……けっこう疲れるな」

小さく呟き、肩を回す。

それでも、別にどこか悪い気分ではなかった。


(こうやって、変化していくんだな……)


小さなことでも、疑問に思って、小さなことから少しずつ確かめていく。この場所にいても、自分にできることはある。メシエはそう思いながら足を止めた。滑らかな壁に映る自分の影が、ほんの一拍遅れて動いたように見えた。


「よし——次は、私が見ていく番だ」

彼女は小さく笑い、光の通路をまっすぐに歩き出した。





観測棟の実験室はヒトが感じる感覚を吸収する性質があるようだ。

壁は金属に見えて、触れると微かに脈打つように振動している。神経のように走る光が、室内の呼吸と同調して明滅する。


中央のプラットフォームにケイは座っていた。肩と額に小型のセンサーが取り付けられ、脳波と神経信号が幾つものホログラムに展開されている。今回は外部機器であるシンセサイザーは外されている。


純粋に――彼自身の脳の構造を観測するための実験だ。


《測定開始。外部磁場、遮断完了》


小人種(ピクシー)の女性研究者が呟いた。

彼女の声は厚いガラス越しに響き、低い反響を伴って消える。


ケイは目を閉じる。瞼の下で、眼球がわずかに動く。閉じた目の奥に何かを視ているように。筋肉が微かに収縮し、動いていないはずの指が震える。髪が静電に逆らうように立ち上がり、皮膚の表面が波を打つ。


《心拍、変動。だが同期していない……》


《うむ……。全身の筋繊維が独立して活動しているな……》


《これは反射ではありません。意識下の反応ですね》


数人の研究員が端末に目を落とす。ホログラム上では脳波がリズムを失い、代わりに有機的な呼吸のような波が広がっていた。


《あ、どうされましたか? 何かあれば申し出てくださいね》


ケイの唇がわずかに動く。

「あぁ……。聞こえる」


《何が?》

小人種が問い返す。


「風か? いや……擦れる音。それに、誰かが壁の向こうで話してるか?」


研究者たちは互いに視線を交わす。

誰も声を出していない。それでも空気が震え、音のない声が壁を通して響くように感じられた。


ケイの髪がふっと浮いた。風など吹いていない。だが、彼の周囲に明らかに流れが生まれている。彼の感覚が拡張していくたび、空間が一秒遅れて形を取り戻す。


《脳波、位相反転確認――!》


《待て、まだ安定してない!》


研究者の声が重なった瞬間、ケイの瞼が開いた。瞳孔が収束し遠くの点を捉える。視界が圧縮され、世界の輪郭が物理的に捉えることのできない情報として変換されていく。


「またか……っ」


その言葉と同時に照明が一斉に明滅した。ホログラムの光が螺旋を描き、床の粒子が逆流する。時間が膨張し誰も動けない。ケイの周囲に微細な波紋が広がる。


——そして、静寂……。


呼吸音だけが戻る。ケイは息を吐き軽く笑う。

「……終わったか?」


小人種が頷く。

《はい。ただ……あなたの脳はまだ音叉のように反響しています。無理しないでください。今、何が見えたのですか?》


「……さぁな。ただ」

ケイは指先を見つめた。

動いていないのにまだ微かに震えている。その震えが、世界と繋がっているように感じられた。


《……ただ?》


「ここに来てから、全てが針を刺すみたいに刺激的でな」

ケイはほくそ笑む。

ただ、それは不満ではなく前向きな刺激だと捉えた。


そして、彼が立ち上がると室内の光がわずかに明滅した。





同時刻、モノリスの別区画では別の実験が進んでいた。

半透明の壁面に囲まれた分析室。中央の台座の上に、無機質な純白の礫——心象統合器(シンセサイザー)が浮かんでいる。低温の気流が流れ、光の粒子が宙に漂っていた。


「うーむ……驚いてもキリがないな。これもまた、未知の構造体ですね……彼らは一体何者なのですか?」

主任研究員である、猫種(フェリシア)の女性が記録端末を覗き込む。


「分子構造観測不能。外郭は不透明、いえ不均一。流動しているようで、結晶のように均一にも見える」

隣の鳥人属(ガルーダ)の技師が腕を組む。


「動きで表すなら、意志のある磁性流体でしょうか。観測を試みると装置の方がノイズを吐く。外部からの干渉を拒んでいるようです」


「——観測を拒む構造体か。主任の目に一瞬、畏怖と興奮が交錯した。未知の構造体に触れてしまった者だけが見せる、恐れと歓喜が混ざる光だった」

主任が苦く笑う。


「破壊して内部を覗いてみたいところですが、この外殻自体が構造を支えているなら、壊した瞬間に研究が終わる。困りましたね……」

彼女は慎重に手を伸ばす。

指先が光に触れた瞬間、表面が波紋のように揺れ、微かな音を立てて弾いた。


「まず、外からの観測で解りえるのは、この中心には核のような物質がある。それに――通常のイヤホンのようにも音を通す構造です。まったく、おそろしい技術……これが彼のためだけに造られたものだとすれば? いったい誰が、どのようにして――」


沈黙……。


主任は端末を閉じ低く呟いた。

「……これ自体が、人造生命体なのかもしれません」


「生命体?」


「わかりません。私たちの知識では測りかねます。物質と呼ぶには、あまりに意志的です。黒蝕といい、超能力といい、そしてあのアンドロイド……」


そのとき、扉が音もなく開いた。

「――分解してくれるなよ。悪いが、あれは一組しかないんだからな」


ケイだ。彼は白衣の群れを無言で見渡し、台座の上のシンセサイザーに目を落とした。


「ケイさん……これを装着した状態で、再度調べさせていただけますか?」

主任が声を潜めて尋ねる。


ケイは肩をすくめて答える。

「まぁいいだろう、好きにしろ。ただし壊すな」


主任は小さく笑った。

「善処します」


その笑みの奥で記録装置のランプがひとつ灯る。無音のまま観測は続いていた。





その頃、モノリス外部ではこの巨大構造体が星々の影を縫うように静かに漂っていた。航行灯も信号もない。ただ、宇宙の闇を吸い込みながら、誰の目にも映らぬまま進んでいく。重力の波を裂くように、巨大な衛星の影が通り過ぎる。その内部で、ヒトビトは宇宙を観測し、モノリスが全体を俯瞰する。宇宙が――全てを観測していた。


観測の終わりに残るのは沈黙ではなく、かすかな震えだった。時間と重力が擦れ合うその境界で、光が微細に揺らぎ、誰にも見えぬ「波」として空へ消えていく。

それぞれの観測は少しずつ、ここモノリスですら計り知れない技術を持つシンセサイザー。ケイは一体何者なのか?

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