記録100 黒夢
モノリス編、ついに突入。
ここでの出会いと、出来事は彼らに何を与えるのでしょうか。
アマデウスは減速を開始した。慣性の揺り返しはない。外部座標が、モノリス内の内部値へ置換されていく。
星図が一枚ずつ剥がれるように消え、航法アルゴリズムが再計算に入り、警告は点灯しないまま抑制される。外部カメラに映るのは黒一色の背景と、その中で同期する微細な光点群だけだ。塵ではない。波形解析をかけると、黄金比、π比、無限級数の断片が低輝度で反復している。
「外空間が閉じていくように見える」
メシエの声に、アイが即答する。
「外周の重力子波形が収束。周囲の時空が、ドック内部の座標系へ吸収・再定義されています。圧縮ではありません。座標再構成です」
ケイは計器に目を走らせ、短く呟いた。
「内部で空間が確立している。……タキオンとは別系統だな」
艦体は静止に近いまま前進する。外部構造は動かず、内部の参照座標だけがアマデウスを取り込む。光子の反射は極端に少ない。艦外にある黒色面は、金属でも岩でもなく、反射特性をほぼゼロに近づけた演算材だ。表面では目視困難なレベルで数式が走っている。肉眼では僅かな揺らぎとしてしか捉えられない。アイの視覚インターフェースにのみ、行列式の帯が鮮明に流れ続けていた。
「……内部輝度、最低限。音響反響、限界近傍。空気成分は標準域。菌相反応なし」
アイの報告が続く。アマデウスは自動誘導に従い、ドック面へ着床した。同時に艦内慣性情報が切り替わる。床は揺れないが、重力ベクトルだけが瞬時に差し替わる。乗員の三半規管は異常を検知しない。空間制御システムの切り替えが完璧だったからだ。
「降りるぞ」
ハッチが開く。横一線に白色レーザーが走り、次いで球状の浮遊機が四体、音もなく整列した。表面は滑らかな灰色。四方に微小スラスター、正面には可変式銃口。装飾はない。
《案内プロトコル同期開始。歩行経路を配布》
音声ではない。脳内へ直接データパケットが届く。同期は即完了。視界の隅に経路データが半透明で重畳表示される。地図ではなく、動的に更新される行列式だ。矢印も線も存在せず、数値列の変化が正しい方向を示す。
通路は直線的だが、重力の向きは初期値から十七度右斜め上に切り替わっている。足を出せば、身体は自然にその方向へ落ちる。ケイが一歩踏み込むと、床との接地感は地表と変わらない。見た目の傾斜は存在しない。数歩ごとに重力ベクトルが微調整され、進行方向は常に「前」になる。
初日はそのまま部屋に案内され一日を終える。
ケイたちはそれぞれの個室に案内され、隔離された。部屋は白一色で、壁面が滑らかなニューロ複合材で構成されている。必要な家具や寝具は自動的に形成され、空調や照明は思考入力に同期して変化する。誰も話しかけない。外の音も、機械の駆動音も存在しない。
AIの監視は常時行われ、各々その夜を隔離室で迎えた。光は夜と昼の区別を持たず、壁の白が明滅を繰り返す。天井からは微粒子状の光が漂い、数式や演算コードが霧のように流れている。
アイだけがそれを明確に読み取り、「マトリックス状の可視化データ……演算そのものが空間構造に織り込まれていますね」と呟いた。
メシエはベッドに腰を下ろし、目を見開いてその光景を見つめるしかなかった。
「……まるで、宇宙そのものがここに閉じ込められてるみたい……」
ケイは黙って壁に手をあてた。温度も感触もないのに、そこには確かな存在感がある。
「数値の牢獄。科学の粋、ってやつか……」
アイはわずかに微笑み、視線を動かすたびに空間の構成が微かに変化するのを確認した。食事は無音のまま投影され、シャワーや睡眠まで規定のリズムで制御されていた。情報端末は無効化され、時間の概念すら曖昧になる。彼らの動作、生理反応、脳波の変化がすべて観測され、外部との通信は完全に遮断されている。唯一の音は自身の鼓動と呼吸音だけだった。
やがて壁面が柔らかく発光し、再び浮遊機が現れる。
《第三来訪者、入棟を許可》
(第三……か)
ケイの視線は鋭さを増し、呼吸のリズムはしなやかになる。
通路を進むこと数百歩の後、空気の密度が変化した。温度がわずかに下がり、視界が開ける。そこは管理棟のホールだった。
天井は高いが、見上げても終端が判別できない。淡い自発光が面全体から均等に出ているため、影が発生しない。支柱や梁は構造材であると同時に演算材で、表面に低輝度の数式がグリッド状に流れている。四方の壁面には縦方向の演算柱が並び、それぞれが異なる波形を保持していた。
ホール中央には、来訪者たちが数組集まっていた。人間種、鳥人属、魚人属、妖精属、そして分類不能の存在。彼らは静かに待機しており、順に面会を許可されているようだった。ホール全体が観測され、すべての動きが記録されている。数式の帯がホール全体に走り、まるで見えない目に無限に監視されている感覚があった。
やがて浮遊機の一体がケイたちの前に出る。
《第三来訪者、面会を許可》
淡い光が足元を照らす。通路が開きその先へ導かれる。途中、透明な区画を抜けると、先に彼らをこの場へ案内したブローカーの姿があった。
「よっ、再会だな」
闇市での見すぼらしい姿ではなく、白と灰のエンジニアコートに身を包み、床面と同期するシューズが滑るように足を進めている。
「改めて自己紹介だ。俺はレイモンド。君たち同様、元賞金稼ぎだ。俺は運よくここの案内人としての職に就いた。第二の人生としてな」
彼は軽く顎を引いた。
「君たちには、俺が艦内の案内兼相談係として付くことになっている」
「あんたが、か」
ケイが応じる。
「監視役でもあるわけだ」
レイモンドの口元に微笑が浮かぶ。
「まあ、そう睨みなさんな。この場所での区別は曖昧だ。俺たちはここに観察される側でもあり、観測する側でもある」
彼は短く笑い、扉を指した。
「さて、行こう。管理者様がお待ちだ」
扉が開き、無機質な面談室に三人が通される。部屋は真円で、壁面全体が半透明の演算材。中心には一人の人影が立っていた。シルエットはヒト科の女性だが、肉体の気配は希薄。顔は光に覆われ、細部が分からない。
「ようこそ、外来の観測者たち」
声は中性的で、機械の共鳴を帯びていた。
「私はモノリスの管理者アーギュメント。あなたたちは選別の上でここに招かれました」
沈黙が落ちる。アイだけがその構造を把握していた。この存在は完全なヒト型人工知能のモデル──外見は仮想体で、本当の姿をまだ見せていない。
「なぜだ?……オレたち以外にも、複数招かれたみたいだが」
ケイが問う。
「単純な理由です」
アーギュメントの声が均一に響く。
「技術の進化は止まりません。宙域探索の精度が上がり、ここモノリスが発見されるのは時間の問題なのです。そして、あなたたちの持ち込んだ結晶──そのデータこそが、我々の観測対象と一致したのです」
「……どういうことだ?」
「我々の研究テーマの一つに、かの惑星****が含まれていました」
アーギュメントは即答するが、その地の名が聴き取れない。
メシエが理解できずポカンとした表情でアーギュメントを見ていた。確かに口元は動いており、何かを発語しようとしているのは理解できる。だが、音にならないのだ。知らない言葉を紡ごうとしているかのように。
それをみてアイが小さく呟く。
「アポステリオリの影響ですか」
「……そうです。ふふ、申し訳ありません。私の口からは、まだそれ発することが許されていません。よろしければその名を教えていただけませんか?──そして、その名を口にするということは、その渦中にいたということ」
アイは悟り、その名を口にする。
「確かに、私たちはノクス・ヴェルムにいました」
アーギュメントは均一な笑い声を響かせる。高くも低くも、抑揚のない笑い声。しかし、その中に感情の揺らぎを感じさせた。
「ふふふ……素晴らしい。ありがとうございます。そうです『惑星ノクス・ヴェルム』……そんな名でしたか」
ケイは静かに目を細め、息を吐く。
「ち……話をすり替えるな……本当の目的はそうじゃないだろ。オレたちは三組目の訪問者。つまり他にも複数のグループが招かれている。順に面談しているのは、それぞれに別々の意図と意志を刷り込むためだ。違うか?」
アーギュメントは拍手し、ケイを讃える。
「素晴らしい洞察力ですね……流石、レイモンドが一目置くだけはあります」
ここで一拍置くように、室内の光が微かに脈動する。
アイがわずかに視線を動かし、レイモンドとアーギュメントの関係性を測るように観察する。メシエは沈黙し、環状の壁面を走る数式の変化を見つめていた。その合間に、機械音のような低い共鳴が流れた。
レイモンドは再び歩み出て、一礼しながら語り始めた。
「ケイ、アイ、メシエ……俺から目的を説明しよう。ここで研究開発されているものは、そのほぼすべてが世界の常識を変えるほどの技術や知識だ。ここを求め探す者が後を絶たない。だから隠れ忍んできたんだ。……だが、ついに見つかってしまった。大銀河連盟(ロウ)の宇宙刑事警察機構『TEMIS』によってな──」
レイモンドが言葉を区切ると、空間中央にホログラムが展開された。光の粒子が集まり、モノリスの断面構造や各棟の配置図、そしてTEMISの艦影が浮かび上がる。淡い音を伴って回転し、室内に立体的な奥行きを生み出す。
メシエが息を呑む。
「……これ、全部……」
「そうだ。これが我々の“現状”だ。TEMISは我々を探している。奴らもはまだこの宇宙を彷徨っているだけで、その全てが脅威ではないがね」
レイモンドは重く頷いた。
「我々はここで生まれた技術、成功を私欲のために使おうとは考えてはいません。その全てを開発者の望む形で処分しています。それら全てが世のためになるとは限りません。世に解き放つものもあれば、封印すべき技術も多いのです。我々の研究のその先に存在する、科学に生きる者たちの夢──それは純に宇宙の真理を知ることなのです」
ホログラムの光が静かに減衰し、壁面の演算光が揺らぐ。数式が滑る音が一瞬響き、あえて呼吸を与える静寂が訪れる。
アーギュメントは視線を宙に向ける。そこには浮かびあがったのは、大銀河連盟、銀河帝国、独立星団の三大銀河圏の巨大星図。そして、現在モノリスが航行する宙域を示していた。
「世界は円環しています。技術、知識、進化、退化、時間ですら。その環を崩すことも、回すことも……可能です」
彼女が指をなぞると、空間が淡く輝きロウの本部がある『惑星ノーシス』がズームアップされる。そこに映るのはグレーとピンク、そしてホワイトのマーブルカラーが特徴的な巨大惑星だった。
レイモンドはノーシスを指さし、再び語る。
「しかし、ここすべてを我が物としようとする者たちがいる。それがロウだ──俺たちはそう考えている。そして、宇宙海賊や賞金稼ぎ、奴らもまた己の欲のためにここを探している」
……。
アーギュメントが再び星図に触れると、マトリックスが波打ち、星図が散らばり星屑となって空間を満たす。その光景に皆の視線が宙を仰ぐ。タイミングを計ったかのように静かに語る。
「我々の目的は一つ、暗殺です。今回招待した者たちの中に、すでにTEMISの諜報員、その他危険分子が紛れ込んでいるとみています。秘密裏にその処理を任せたいのです」
「暗殺か……」
「……何故そなたたちに白羽の矢を立てたか? それは言うまでもありません。ここにたどり着くまでの道程、その端々に垣間見えた優れた力。そして何より、目的が我々の技術そのものではなく、その先にあると理解できたからです」
ケイは深く呼吸し、冷静に返す。
「回りくどいなことを」
「ええ。ここへの鍵、あのキューブは外部との連絡手段を断つ機能を持ちます。彼らもまた、ここに来るためにはそれを受け入れざるを得ません」
「なるほど、要はここを発見した者たちの中から、危険分子を、その芽を確実に摘みたいってことか」
「はい、仰るとおりです」
ケイは目を閉じ、静かに呼吸を整える。
「アイ、メシエ。厄介な依頼だが、いいな?」
アイは表情を変えることなく答える。
「はい、TEMISと絡むことは避けたかったですが、それも時間の問題でしたからね」
「……私も、ケイがいいなら望むところだよ」
メシエの声も、静かでありながら強い決意を感じさせた。
モノリス、やはり一筋縄ではいかない。
世界が絡む出来事へと進み始める。




