記録99 航路開拓
手がかりとその先へ。
黒いカードは分析台に置かれ、静かな唸りと共に光を走らせていた。ナノスキャナーが表層をなぞり、幾何学模様のホログラムが空間に浮かび上がる。ケイは無言でそれを睨み、アイは冷静に数列を展開する。その横でメシエは膝に置いた手を固く握りしめ、息が乱れぬよう必死に抑えていた。目の前の光景は未知の学術的驚異でありながら、同時に恐ろしくもあり、心臓の鼓動は止まる気配を見せない。
「……異常な挙動。これは……こちらの管理コードを読んでいます」
艦内の照明が一瞬だけ明滅する。BOLRが低く鳴り、外部からの微弱な信号を報告した。金属の壁面にかすかな共振が走り、耳の奥に薄い圧迫感が残る。メシエは肩を震わせ、不安が背骨を這い上がるのを感じた。
「逆探知……覗かれています」
思わず振り返るメシエ。その動揺を横目に、ケイは鼻を鳴らし低く吐き捨てる。
「面白くなってきたな」
数列は収束し、結び直される。その中心に、淡い光を放つ単語が浮かんだ。
『MONOLITH』
空気がひやりと冷え、艦内の心臓部が一拍遅れるような錯覚が走る。メシエの心臓が跳ね、口元がかすかに開いた。不安と恐怖と、抗えない好奇心がないまぜになり、彼女は視線を逸らせない。
アイは無表情に目を細めた。
「……漂流衛星は確かに存在していた」
やがて浮かび上がったのは断片的な座標データ。光の糸が織られるように収束し、一点を示して停止した。
アイは即座に読み取り、唇を引き結ぶ。
「仲介者の位置情報……ここで会え、ということです」
メシエは思わず声を漏らしかけたが、ケイの冷え切った視線に遮られる。その突き放すような静けさが、逆に彼女の背を押した。
そして再び闇市の奥へ。群衆に揉まれて歩く途中、メシエの心は妙に落ち着いていた。それは二度目の訪問だからか、あるいは“モノリス”という次なる目的地が示されたことで、気持ちが前を向いているからかもしれない。浅はかな自信かもしれない。だが、何かが確かに動き出したのを直感していた。心のざわめきが不安を塗りつぶし、まるで戦いを終えた直後のようにアドレナリンが脳を奮い立たせる。
前を行くケイとアイは一度も振り返らず、一定の歩調を崩さない。メシエは急ぎ足でついて行きながら、更に前に出たい気持ちを抑え、二人の動きに目を配った。
電子幕の帳をくぐると、湿った匂いと微弱なオゾンの香りが漂った。壁に刻まれた古い落書きが青白い照明に照らされ、異様な影を生んでいる。そこで待っていたのは、細身の両性種の男。外套の奥から覗く目は濁っているようで、その奥に冷たい澄明さを隠していた。
ケイは静かに視線を送り、外套の隙間から黒いカードを覗かせる。ブローカーはその仕草を確認すると小さく頷き、指先で周囲の装置を操作した。室内の空気がわずかに変質し、外部への音漏れが遮断される。
「いいだろう……ここに訪れたという事は、カードを解析する技術を持ち合わせている様だな」
その声にはどこか余裕があった。獲物を値踏みするような視線がケイたちに注がれ、メシエの背筋を冷たい汗が伝う。恐怖と興味のはざまで身体が震えるが、同時に不可解な期待も胸を押し広げていた。アイは沈黙を守り、わずかに瞼を閉じる。
ケイは外套の内側から、小さな黒い結晶『黒蝕核』を掌に転がした。
それは石とも金属ともつかず、光を吸い込みながらも内奥で僅かに揺らめいていた。惑星ノクス・ヴェルムでジョーカーを殺した後に手元に残った、黒蝕の成れの果て。
それを見た瞬間、空気の温度が歪み、電子幕の端にノイズが走る。メシエは頭の奥が疼き、視界が揺らぐのを感じ、思わず視線を逸らした。アイの瞳には微かな異常光が走り、彼女もまた観測者として無言で記録する。
そして、ブローカーの瞳がかすかに揺れた。
「……なんだ、それは……」
声は問いとも呟きともつかぬ。未知の存在を前にした本能が、距離を取らせていた。ケイは結晶を懐に戻し、淡々と告げる。
「通してもらえるなら、話してやる。これがオレ達がモノリスを探す理由だ」
「なるほど……」
ブローカーは冷笑を浮かべ、長く息を吐く。
その余裕の奥に微かな恐れが滲んでいた。彼は外套の奥から小さな黒いキューブ型の端末を差し出した。表面は光を吸い込むように艶やかで、欠けた一面がカードの形状にぴたりと合う溝になっている。それは未完成の立方体のように見え、黒いカードを差し込むことで初めて完全な形を成すのだと直感できた。
「……これが“キー”だ。カードを接合すれば進むべき道が示される。……到着したら、お前たちの疑問に答えよう。さぁ、行くがいい」
そして、アマデウス艦内。黒いカードが端末に差し込まれると同時に、天井一面に星図が立ち上がる。数えきれぬ点の海の中から、ひとつだけ異様に脈動する光が現れた。それはまるで呼吸するかのように明滅し、座標として固定される。
メシエの瞳が見開かれる。彼女の胸には説明できない奇妙な期待が芽生えていた。息を止めながらも、目はその光に釘付けになる。
アイは淡々と告げた。
「これが……漂流衛星モノリスへの道」
ケイは操縦席に腰を下ろし、パネルを軽く叩く。スラスターの駆動音が低く船体を震わせた。
「向かうぞ」
外壁に貼りついていた闇市の灯りが遠ざかり、漆黒の宇宙が視界を満たす。小さな船体はやがて星の海に溶け込み、ただ一つの座標を目指して進み始めた。
その姿に胸が締めつけられ、不安と恐怖に塗りつぶされていた心に、別の感情が芽生える。——自分は新しいものを見ている、知られざる宇宙の扉が開こうとしているのだ、と。
震える指先を握り直し、彼女は深く息を吸った。アドレナリンがまだ血を駆け巡っている。だがその昂ぶりは、もはや闇市で感じた恐怖ではなく、未知への高揚に近かった。前を行くケイとアイの背中は揺るぎなく、彼女はその背を見失わぬように、ただ目を凝らし続けた。
ついに、次なる目的地へと。
漂流衛星モノリス、科学者の吹き溜まり。
そこで、ケイは秘密裏に黒蝕核の正体を探るつもりだ。




