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記録98 黒の招待状

闘いの余韻はまだ続いている。

──メシエの心にはまだ戦いの余熱がまとわりついていた。血の匂い、裂けた衣服、鼓動の速さ。全てが数刻前の格闘を思い出させ、意識を否応なく過去へ引き戻す。だが、雑踏の渦に身を投じるしかなかった。


一般市場の奥地、闇市の深部──欲望と残骸で構成された暗渠。


足元の床は金属板と無数のコードが継ぎ接ぎされ、油と酒と血で黒く光っている。頭上には規則性のない光源が乱れ飛んでいた。壊れかけのホログラム広告が宙を彷徨い、崩れた配管からは青白い冷却剤が蒸気のように漏れ出す。その下で、異種属が入り乱れ、笑い、叫び、取引している。


臓器屋台では培養槽が泡を吐き、人工心臓が赤黒く脈打っている。客が試しに指を触れると、表面に数値が浮かび上がり〈適合率73%〉の表示が閃いた。歓声と罵声が同時に上がる。

義肢屋では磁場に浮かぶ金属の腕が勝手に動き、客の肩を叩いた。店主はタコ足義肢を器用に操り、笑いながら油を塗り込んでいる。


「ほら見ろ、まだ擦り切れてない。前の持ち主は、若くして死んだか……」


路地の奥では修理屋が客を床に寝かせ、頭蓋をこじ開けケーブルを差し替えていた。火花が散るたび、野次馬の子どもたちが拍手をする。修理屋は無表情のまま、「保証なし」とだけ呟いた。

さらに奥のテントからは紫の光が漏れ、嬌声と呻きが交じり合っていた。


「天国直通! 1回100クレジット!」と声が響き、首筋に脳チップを刺す音まで聞こえてくる。


そこを抜ければ獣人の露店、鳥人の芸人が羽を燃やして火を灯す見世物、廃材を組み合わせた即席メカを売りさばく技術屋。未来的なデバイスと原始的な欲望が隣り合い、腐臭と香辛料の匂いが入り混じって息苦しい。そのさらに奥には水槽を並べた魚人属の商人が、光る鱗をもつ幼魚を売っている。買い手はその場で脳に接続コードを差し込み、味覚シミュレーションを確かめていた。人工的な味覚の奔流がその場の空気をさらに異様にしていた。


また、空間そのものを切り売りする店もあった。透明なキューブに区切られた狭小なスペースが並び、客はそこで数分間だけ完全な静寂や無重力を体験できる。欲望と技術の奇妙な融合が、闇市の異質さをさらに際立たせていた。


だがその群衆の一部は、三人組の外套姿を見てあからさまに道を空けた。背丈の低い異種族が小声で何かを囁き、目を逸らす。


数刻前の騒ぎの噂が、もう闇市全体に広がっているのだ。血と煙を纏った影は、触れてはならない火種のように避けられていた。


メシエは歩みを止めそうになり、息を詰めた。

「……凄い所だね」


彼女の目には、悪夢のような光景が現実として刻まれていく。家柄の庇護の下で過ごしてきた記憶と、この地獄じみた日常のギャップが、胸を焼いた。怖気は止まらない。それでも、ケイとアイの背中を見失うまいと必死で足を動かす。


ケイはフードの奥で目を細めた。視線は前を向いている。だが意識は周囲すべてに伸び、群衆を切り裂いていく。かつて散々見てきた修羅場に比べれば、これはまだただの市場。ヒトの欲望が剥き出しなだけ、命を削り合う戦場よりは余白がある。


ただ、その中で何かに視られている、値踏みされている違和感が拭えない。


アイの肩越しに浮かぶBOLRが低く唸った。

「索敵信号を複数確認。発信源は散在……呼吸リズム安定、心拍68、体温は平均より高め。両性種(アンフィビアン)です。追随を継続中」


ケイの背筋がわずかに粟立つ。またか……──感じる視線。

数値化されたデータは冷徹な情報だ。だが自らの肌が、勘が、それを裏付けていた。おそらくは人間種じゃない──人混みに紛れるその姿は掴めない。だが確かに、こちらを見ている。


「……どうしたの……?」


メシエが震える声を漏らす。


ケイは返さない。ただ歩を止めない。必要以上に視線を返すのことはない。ここでは皆が背後を気にしている。だから、それでいい。


雑踏は濁流のように押し寄せ、肩と肩がぶつかり合う。喧騒にまぎれた視線が、確実に彼らを追っていた。露店の呼び声、異種族の鳴き声、電子広告の断末魔のようなノイズが一斉に重なり、耳が痺れる。

メシエは一瞬立ち止まりかけ、ケイの外套を掴んで踏みとどまる。


人混みの中で様々な視線が絡みついてくる。欲望に満ちた商人の目、獲物を値踏みする傭兵の目、ただ虚ろに笑う薬物中毒者の目。そのすべてを振り払おうとした瞬間、群衆の波が押し寄せる。


そして、群衆に押される一瞬、メシエの懐へ冷たい金属片が滑り込む。誰が差し込んだのか判別もできないほどの一瞬。振り返っても、そこには無数の顔、無数の笑み、無数の沈黙だけがあった。


何っ……!?


メシエが声を発しかけたその時、ケイは静かに外套の裾でメシエの手元を周囲の視線から外した。


黒いカード。表面には何も刻まれていない。だが、不気味な冷たさだけが指先に残った。メシエは顔を引きつらせ、立ち止まる。ケイが僅かに視線を向けると、彼女は小さく懐から黒い板を取り出した。


「……何、これ……?」


すぐさまケイは群衆を確認しアイへと合図を送る。

三人は路地の影へと身を潜めた。アイがカードを受け取り、指先でなぞる。光学的な反射はなく、ただ冷たい質感だけが返ってくる。BOLRが小さく起動音を立て、微弱な暗号信号を拾った。


「不明コード。ここで解析は危険です。船に戻れば詳細解析が可能」


ケイは短く頷き、懐へ戻させる。

「……試されてるな。これは……奴らも探しているのか? オレたちハンターを……」


アイの瞳が微かに光を帯びた。

「ここに来た時から、すでに始まっていたのかもしれませんね」





数刻後、アマデウス艦内。

外套を脱ぎ捨てたケイとメシエが休息スペースに腰を下ろすと、アイは無言で分析台に黒いカードを置いた。台座の縁が青白く発光し、ナノスキャナーが静かな唸りを上げる。


「……解析開始。材質、超高密度ニューロ複合体。表層に極薄の量子層……ここに情報が封入されています」


ホログラムが立ち上がり、無数の数列とパターンが空間に投影される。数列は光の糸となって編み込まれ、幾何学模様が形成される。その度に耳の奥で微かな振動音が響き、冷気のような感触が頬を撫でた。やがてそれらがほつれるように解け、新しいパターンを織り上げていく。


メシエは思わず身を乗り出した。

「これ……暗号?」


アイは頷き、指先で数列を展開させる。

「通常の暗号化技術とは異なります。……これは招待状? 特定の者だけが解読可能に設計されています」


ケイは黙って映像を見つめる。線と点が組み合わさり、やがて軌道図の断片が浮かび上がった。


「……衛星の航路?」

メシエの声が震える。


アイの目が淡く光を帯びた。

「はい。これは漂流衛星。コードネーム……『モノリス』。位置情報は一部のみ。完全解読にはさらなるキーが必要です」


静寂が艦内を包んだ。


ケイは低く息を吐き、唇を引き結ぶ。

「……面白い」


メシエは拳を握りしめた。胸の奥に生まれた不安と同時に、抗えぬ引力があった。

「……行くんだよね」


アイは淡々と応える。

「彼らもまた、何かを探している。私たちはそのための手段なのかもしれません」


メシエはカードに刻まれたその名を心の中で繰り返した。

『モノリス』──響きは冷たくも神秘的で、恐怖と同時に説明できぬ期待を芽生えさせる。彼女は息を呑み、ケイを見やった。ケイは無言のまま視線を伏せた。その仕草は、深い溜め息に似た諦観を滲ませていた──一筋縄ではいかない、と悟るように。

黒い招待状がメシエの懐に。

漂流衛星の関係者は、何かを探している。

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