記録97 余韻を噛み締めて
メシエは初めての戦を乗り越えた。
彼女の新しい人生は幕を開けた。
──戦の跡、誰も彼らに声を掛けることはなかった。
倒れた男の身体からは血泡が漏れ、潰れた義肢が痙攣していたが、群衆は足を止めない。闇市の住民たちは蟲のように群がり、所持品を剥ぎ取り、アンドロイドの残骸を分解して部品を奪っていく。すべてをなかったことにするような速さで、通路はまた雑踏の一部に飲み込まれていった。
ケイとアイは視線を交わし、何事もなかったかのように歩き出す。
メシエだけが立ち尽くした。
「……酷い……」
自分が倒した相手。殺さなくても、こんな無残に消費されていく。血の匂いと鉄の匂いが混ざり合い、彼女の胸をえぐった。
「現実だ」
ケイが囁く。
「誰かがやる。それだけのことだ」
言葉は冷たいのに、妙に重く響いた。メシエは震える手を胸に押し当て、路地の壁に肩を預けると、そのまま崩れるように膝をついた。息は荒く、鼓動は喉を突き破りそうに激しい。眩暈で壁が波打ち、視界がかすむ。
「大丈夫ですか?」
アイが近寄り、冷静に問いかける。優しさではなく、診断するような響きで。
「は……はっ、うん……大丈夫……少しだけだから……」
言葉は震え、吐息に混じる。
ケイは黙ってナイフを持ち上げた。油に濡れた刃を光にかざすと、刃の縁に波紋のような輝きが走る。それを眺め、布で淡々と拭い取った。
三人は通路を抜け、喧噪が背後に遠ざかっていく。やがてアマデウスに戻ると、船内の明かりを落とし、休息を取ることにした。宇宙に夜も昼もない。ただ、闇に包まれた静けさの中で、体を休めるしかなかった。
「大丈夫ですか?」
「うん……ごめん」
「いえ」
この沈黙がメシエには耐え難かったが、これも休息の形だと、膝を抱えたまま一点を見つめ闘いを思い出していた。血や焦げつく臭い、それ以上に敵意と殺意、目つきや息づかいを思い出す。鼓動が早くなり、また沈む。それを繰り返し、いつの間にか汗は引いていた。
しばらくして、
「……アンドロイド。なるほど、いいですね」
アイがぽつりとそう呟いた。
「?」
メシエが振り返ると、アイはケイに提案する。
「私はしばらく“アンドロイドとして”振る舞いましょう。これから向かうのは漂流衛星、科学者の集団。彼らは未知の科学に敏感なはずですから、興味を引けるはずです」
ケイは「……なるほどな」とだけ返した。
そして、ケイはメシエへ視線を向ける。
「よくやった。初めてにしては上出来……いや、十分だろう」
メシエは顔をあげ、ケイの背中を見つめた。
「あの男、B級ハンターといったとこだな。アンドロイドはC級前後。優れた能力を持っていたわけじゃないが、お前の緊張が、やつらの闘いへの躊躇を無くした。オレたちの存在など忘れてな。判断力はC級以下……アンドロイドをやられたにもかかわらずお前を攻撃したあたり、舐めていたんだろうな」
ケイは短く息を吐く。
「それでも、お前は冷静に対処した。ビギナーズラック……じゃなく、自信を持て。よくやった」
「う……うん」
メシエはその言葉を胸の奥で反芻し、恐怖に震えながらも小さな誇らしさを覚えていた。胸の奥には重い塊と、かすかな火種が同居しているようだった。
アイはさらに言葉を継ぐ。
「そういえばメシエ。先ほど私が使った技術について解説しましょうか」
「ち、ちょっと待ってね」
メシエは深く深呼吸をし、返事をした。
「……はぁ……びっくりした! も~、自分じゃないみたいで、だいぶ戸惑ってて」
そして、座席から身を乗り出してアイの眼を見つめる。
「そうそう、あれって……あの時のだよね?」
「ええ、あれはヒトでいう“気功”や“勁”を模倣したものです。『械道』と呼ばれる体系の一端。競技化され、今では『BFA(Bio-Frame Arts)』という正式競技にもなっています」
メシエは目を瞬かせた。
「……機械が使う格闘技……?」
「はい。その中で私は『勁流投射』を用いました。外殻を壊さず、内部だけを砕く械道の一つです」
アイは船を無重力状態に設定すると、水滴を浮かせ、そのひとつに指先を触れた。表面は揺れもせず、内部だけが乱流を描き、数秒後に弾け散る。発生させた超振動を対象にぶつけることで内部破壊をする技術だ。
「すごい……」
メシエは呟いた。声は震えていたが、瞳には恐怖と同時に好奇心が宿っていた。
「でも、そんな技術と戦わなきゃいけないのが、人類なんだよね……凄い、というか無謀というか……」
アイは表情を変えずに続ける。
「更に、『電脈盗影』という技術があります。対象が機械でも生物でも、動作よりも先に“電気刺激”が起こります。その流れを読むことで、相手の動きが始まる前に察知できる。影を盗む、と呼ばれる所以ですね」
メシエは驚嘆の表情を浮かべたが、すぐに黙り込み、胸の奥に冷たい重みを抱えたままシートに身を沈めた。
「まぁ、そんなに心配するな。どう対処するかも少しずつ学べばいい」
ケイはメシエの表情を覗くことは無かったが、その不安は理解できた。
アイは話を切り替え、淡々と情報を付け加える。
「数時間以内にこの宙域を発艦した船は確認されていません。彼らが漂流衛星の関係者を追っていたのなら、対象はまだどこかに潜んでいると言えます。今の内に身体を休めてください」
「うん」
アマデウスの外、虚空の静寂に漂う光点だけが、三人の胸に残る緊張を映し出していた。
それから数刻、闇市のざわめきはまだ続いていた。照明のちらつく薄暗い路地の奥、ケイたちは身を潜め、科学者たちの動きを待っていた。ヒト波が通り過ぎるたびに、湿った空気が揺れ、酒やタバコ、油と焼けた鉄の匂いが混ざり合う。
ケイは壁際に腰を下ろし、無言でナイフの柄を撫でていた。やがて小さく息を吐き、口を開く。
「……ここからはBOLRを使うか。メシエ、次はいくつか道具の使い方を覚えてもらう」
ケイはバイザー型の装置を取り出し、装着してからメシエにも手渡した。メシエは一瞬ためらいながらも受け取り装着する。アイに必要はない。彼女の視覚そのものがセンサーだからだ。
BOLRの索敵情報、互いの視覚、生体波、温度、様々な情報がバイザーに投影される。各々の視覚が共有され、闇市の裏側の動きが三人に重なって映し出された。科学者集団なら光学迷彩を使用していてもおかしくはないが、これで隙間を限りなく埋めることができる。
メシエの視界に、暗闇の中に浮かぶ微弱な熱の影がいくつも現れる。
「すごい……」
アイが淡々と説明を加える。
「生体波、微細な温度差、空気の流れ……緊張、発汗、息づかい……それらが様々な情報をくれます」
昨日からの経過を考えても、違和感が拭えなかった。騒動が起きたにもかかわらず、この闇市を出た者はいない。
漂流衛星は関係者しか辿り着けない、決して場所を悟らせない。だが、むしろ誘われているような違和感。
ケイはバイザー越しに映る赤いシルエットを見つめ、低く呟く。
「……何かを探している、いや……待っているのか?」
昨日のハンターが2体のアンドロイドを連れていた理由も、おそらくは視覚を共有し、同じように対象を探していた。
だとしても、奴らに見つけられるか?──とすれば、奴らは餌だ。もっと上等な獲物を探すための。
漂流衛星の関係者は用意周到に物事を俯瞰しているようだ。




