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記録96 洗礼は日常の中に

戦いの火ぶたは突然に。

市場の奥へ進むほど、灯りは途切れ途切れになり、影が濃く伸びていった。腐食した壁面、煤に覆われた整備番号、金属の冷たい匂い。通路は細く、湿った空気が肌に貼り付く。群衆はざわめきを潜め、三人の周囲から自然と退いていく。舞台の幕が落ちる直前のような沈黙が満ちていた。

息遣いすら遠くから響くようで、目に見えぬ圧力が押し寄せていた。誰かの舌打ち、衣擦れの音、かすかな笑い声。すべてが背中に突き刺さり、見られている恐怖をいや増しにしていた。皮膚に刺さるような視線は、火花の前触れのようにひりつき、呼吸のたびに胸が締め付けられる。群衆全体が息を潜め、沈黙の塊になったかのようだった。肌の上を視線が這い回り、焼け付く感覚だけが残る。


「……消えた?」

メシエは震える声を押し殺した。


ケイは腕を下ろしたまま闇を見据える。

「違ぇ。待ってる」


通路の奥に三つの影。中央は人間、両脇は外套を纏った異様な二つ。歩幅も肩の揺れも揃っている。異常に規律だっているその足取りは、群衆の無関心さと対比して異様な寒気を帯びていた。周囲の視線が皮膚に刺さるようで、空気はさらに張り詰める。静寂は一瞬にして爆ぜる寸前の硝煙のようだった。息を呑む群衆の静けさに、メシエは自分の鼓動が耳に響くのを感じた。


アイが低く告げる。

「監視衛星の死角。……意図的です」


メシエは短棒を握る手に汗を感じ、喉の奥で呼吸が詰まる──訓練と違う、これは実戦。命の取り合いなんだ。


ケイが一歩前に出た。

「……来るぞ」


三人衆が散開する。左が布を翻し、右が低く構え、中央はゆっくりと歩みを詰めてきた。背後の群衆は遠巻きに見守り、誰も止めようとはしない。市場全体が、ただ無言で彼らを囲んでいた。息を殺した群衆の中から、かすかな囁きが聞こえる気がしてメシエは背筋を震わせた。誰かが小さく「上等な獲物か」と呟いた気がした。観衆は値踏みしている。そこにある全てを。


そして、左の外套が最初に動いた。腕が異様に伸び、フードの奥で青白い光が一閃する。人間離れした俊敏さ、静かすぎる踏み込み。


「……ソルジャー型か」

ケイが低く吐いた。


手の甲が割れ金属の爪が展開される。刃が振り下ろされる寸前、ケイは一瞬で懐へ潜り込んだ。震脚が床を震わせ、逆手のナイフが継ぎ目を裂く。火花が散り、顎への肘打ちで巨体が浮き、肩の関節が逆に折れる。鉄と潤滑油の混じった悲鳴が闇に響いた。動きは止まらない。膝蹴り、後頭部への掌打。機械仕掛けの肉体を叩き折るたび、金属音と油の臭気が交錯する。


対の外套がアイに迫る。赤いセンサーが瞬き、振動爪が突き出される。アイは退かずその手首を掴んだ。外から見ればただ掴んだだけ。だが次の瞬間、低い唸りのような震動が空気を走り抜けた。外装は無傷。だが内部で何かが連鎖的に砕けていく音が響く。装甲の隙間から灰のような粉塵が吐き出され、赤いセンサーが痙攣するように明滅した。


メシエの目には、外からは何もしていないのに“中身だけが喰い荒らされる”不条理が映った。ヴァイゼルが倒れた光景が脳裏によみがえり、全身の毛穴が逆立つ。


アンドロイドは膝から崩れ落ち、沈黙した。アイは表情ひとつ変えず中央の人間を見据えた。


賞金稼ぎ──無精髭の人間種。顔に刻まれた古傷、濁りのない眼。生きるために殺してきた者の視線だ。口角が歪み、一人の少女を見下ろした。


義手の肘から赤熱する刃、ヒートブレードを展開する。空気が焼ける匂いが鼻を刺し、髪の端が焦げ落ち、長い束が床に散った。かつての自分を象徴するかのような髪が焼け落ち、過去との決別を突き付けられるようだった。


「ひッ……!」

メシエは短棒を握る手を強く締めた。


逃げろと全身が叫ぶ。だが頭に過去が雪崩のように押し寄せる。メリナで崩れ落ちた家、血に濡れた両親、拉致された夜の震え。ヴァイゼルの冷笑。ケイの背中。アイの冷徹な手。


──置いていかれるなんて、絶対いやっ……


刃が振るわれる。反射のように短棒を構え、火花を散らして受け流す。熱が皮膚を刺し、恐怖が喉を締め上げる。腕が痺れ手が離れそうになる。

二撃目は低い足払い。とっさに跳ね退くが脛に熱線が掠め、焼ける痛みに息が詰まる。さらに斜め上からの斬撃が振り下ろされ、顔の横すれすれを光刃が通過した。焦げた匂いに吐き気が込み上げ視界が滲む。

三撃目は肩口を狙う鋭い一閃。寸前で身体を捻り、短棒の柄で受けると、火花と共に痺れが全身を駆け抜けた。息が止まり、視界が暗転しかける。

四撃目は横薙ぎ。腹を裂かれる寸前、刻んだ型がとっさに体を捻らせ刃を逸らした。焼け焦げた鉄の匂いが鼻を刺し、メシエは悲鳴を飲み込んだ。息を呑んだ群衆の気配が、さらに恐怖を増幅させる。だが背後からは、誰かが小さく笑った。残酷な観客は、彼女がどこまで生き延びるかを楽しんでいる。


私は……生きて……

震える声を押し出す。

スイッチを押し込む。「カシン」と鳴り、短棒の端に青白い火花が走り、スタンロッドが展開された。


「もっと先へ行きたいッ!!」


渾身の突きが脇腹を抉る。電撃が迸り、賞金稼ぎの体が痙攣し呻き声をあげる。反撃の拳が肩を掠め、衝撃が全身を揺さぶる。視界が白くはじけ、息が止まりそうになる。それでも踏み込む。訓練で叩き込まれた動作が体を動かす。刻んだ型が、相手の攻撃を逸らし流す。型にはまった攻防が紡ぐのは、理想とする破壊力。


頭は真っ白、ただ体が生存のために突き動かされていた。さらに低い姿勢からの一閃。スタンロッドが太腿を裂き、火花と血が同時に散った。男の呻きが鋭く跳ね、群衆が息を呑む。

二撃目、鳩尾に突き刺さる電撃の一閃。男の顔が歪み、血を吐きながら膝が崩れた。メシエは肩で息をしながら、震える腕でエッジをたたんだ──綺麗じゃない。けど、生き残った。私は……壊したんだ。


敵が倒れると同時に、群衆の張り詰めた空気が一瞬解けた。だが次の瞬間、ざわめきが押し寄せ、再び市場の日常が流れ込む。静寂と喧噪が入れ替わり、通路の空気は冷たく沈んだ。


メシエは膝を折りかけながらも立ち続ける。胸は焼けるように痛み、肩は痺れていた。目の前では賞金稼ぎが脇腹と太腿を押さえてのたうち、血泡を吐きながら倒れ込んだ。息は荒く、やがて静止した、殺してはいない、でもきっと、もう立つことは出来ないだろう。


周囲の群衆は冷たい眼差しのまま見下ろし、誰も助けようとはしない。生死はこの場の遊戯に過ぎなかった。


焦げた匂いと血の臭気が市場の空気に混じり、群衆はざわめきを取り戻す。破壊された人形、意識の無い人間。それは風景として踏み越えられていく。ここではそれが日常だった。足音や笑い声が再び流れ出し、直前までの緊張が幻だったかのように塗り潰されていく。笑い声の端々には冷酷な嘲りが滲み、血を踏み越える足音が妙に生々しく響いた。


ケイはナイフに付着した潤滑油を布で拭い、アイを見た。

「……お前のその技……あとでメシエにも説明してやれよ」


低い一言。アイは一瞬だけ瞬きをし、答えなかった。


メシエは短棒を腰に差し、震える手を握りしめる。だがその震えは恐怖だけではなかった。


敵を焼き、血を吐かせた感触が、腕に、鼻に、耳に残っている。吐き気と恐怖が押し寄せる。けれど、それを押し潰すように興奮が胸を満たす。心臓が痛いほど脈打ち、笑い出しそうになる。


──私は死ななかった。戦って、倒し、生き残った。


その昂揚が恐怖を凌駕した。


メシエは自分の震える両手を見つめ、呟いた。

「は、ははっ……凄い……」


そこに残されたのは一人少女の荒い息と、冷たい市場の空気だけ。

メシエのデビュー戦は賞金稼ぎの男だった。

決して優勢ではなかった、ただ相手はメシエを侮ったのだ。

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