記録95 闇市の追跡
チップは三人をどこへ導く?
アマデウスの船内。パネルの上に置かれた薄いチップをアイが淡い光で投影した。光の網目は星図のように広がり、無数の点と線が繋がっていく。
「……解析完了。断片的ですが、これは衛星航行パターンです」
アイの声は変わらない冷静さを保っていた。
「ただし、完全な経路ではなく、一部が意図的に欠落しています。情報を知る者だけが補完できる符号。……誘導のための餌という線も」
ケイは振り返ることなく、腕を組んだまま低く言った。
「で、どこだ」
「惑星ミュウの旧軌道エレベーター基部。地上から切り離され、今も衛星軌道上を漂流しています」
メシエは言葉を失った。
「……軌道エレベーター……?」
それは文明の象徴であり、同時に崩壊の証でもあった。惑星外縁に繋がるエレベーターは居住空間を保ちながら、宇宙との交通を容易にする、謂わば天上への階段。メリナにはなかった大規模な装置、彼女はしばらくその光の網目から目を離せなかった。
ケイは短く吐き捨てる。
「次はそこか……行くぞ」
そして、三人は最初の闇市を静かに離れた。ドックの灯りが遠ざかる。背後の蜂の巣のような小惑星群は、まだざわめきに満ちている。彼らが去る瞬間まで、群衆の視線は冷たかった。賞金稼ぎ、商人、どこの組織とも知れぬ者たち。誰も声はかけない。ただ無言のまま互いを見ていた。
その視線をメシエは背中に焼き付けた。自分たちは追い、追われ、何者かに試されている。そう思わずにはいられなかった。
ケイは操縦席に座り、静かにスロットルを押し出す。
「焦るな、まだ始まったばかりだ」
そして数時間後──漆黒の宇宙に、惑星ミュウが姿を現す。青銅色の光を帯びたその星は、緑よりも褐色が強く、荒涼とした大地の痕跡を見せていた。直径は地球の約0.8倍、やや小ぶりな惑星だが、鉱物資源に恵まれている。爬虫種が築いた文明の中心地。その豊富な鉱物資源はかつて銀河規模の輸送網を支え、誇りの象徴として軌道エレベーターを建設させた。
だが今、アマデウスの窓に映るのは切断された残骸だった。全長数百キロに及ぶ巨大な柱が、軌道上で横倒しに漂い、千切れたケーブルは無数の糸のように虚空をさまよっている。星光を浴びるたび銀色に光り、その姿は宇宙を裂いた鞭のようだった。まるで都市群を縦に繋いだ塔が、そのまま空中で倒れたかのような圧倒的な光景。
メシエは息を呑んだ。
「……こんなに……」
あまりの巨大さに、言葉はそこで途切れた。
アイが静かに説明を重ねる。
「戦乱と経済崩壊で運用は停止し、地上との接続は切断されました。ですが、基部は今も軌道上を漂い、闇市として転用されています」
ケイは操縦桿から手を離し、星空を眺めながら冷ややかに呟いた。
「旧世代の墓標……だが、今も生きてる」
ただ、そんな墓標にすら群がる無数の船影。今を生きる者たちの夢の欠片。
近づくにつれ、基部の表面に灯る点々の光が見え始める。監視衛星の光、そして市場の明かり。裂け目から覗く通路は、もはや闇市へと作り替えられていた。信号灯が明滅し、各船を誘導する、規律はそれなりに守られており、危険を冒すものはいないようだ。
接舷を終え、三人は基部内部へと足を踏み入れた。小惑星郡の闇市とは違い、空気には重さがある。金属の匂いと油の焦げた臭気、そこにかすかに混じる香辛料と甘ったるい合成酒の匂い。押し殺されたざわめきが、旧エレベーターの空洞を満たしていた。
「……思ったより静か……だね」
メシエは思わず呟いた。
騒めき、と言う程の声が飛び交っているわけではなかった。通路の両脇には屋台が並ぶ。切断されたケーブルの外皮をそのまま壁にし、古い広告板を張り直しただけの簡易な構造。並ぶ商品は、機械部品、解体されたドローンの骨、変異した小動物のゲージ、そして薬物や遺伝子改造器具。だが、売り手も買い手も声を潜めて取引している。少ない日常会話の中に含まれる取引の合図。
ここは、惑星から切り離されたとはいえ軌道上。監視衛星の目があるから、暴力はご法度。その抑圧が逆に不気味な緊張を生んでいたのだ。笑い声の裏に刃物が覗くような空気。誰もがそれを理解していた。近くの露店では、無言でナイフに触れる客の仕草が一瞬だけ見えた。その些細な動きすら周囲を硬直させる。
ケイは露店の影を選んで歩いた。メシエもその背中を追う。
「壁際を歩けばすぐ物陰に入れる。だが同時に、狙われやすい」
低く呟かれた言葉に、メシエは反射的に呼吸を整えた。観察、観察……訓練で叩き込まれた通りに。
周囲の住人は無表情だった。瞳孔の大きさが合わない、鱗に覆われた頬を無造作に掻く者。背に複数の腕を持つ種族が、黙々と貨物を運んでいく。小さく笑う者、その笑みが意味するものは、温もりある獲物を得た歓びか、または偽物を掴ませた愉悦か。しかし、ここではそれらの感情を表に出すことは死を招く。それを全員が知っている。
……その時。視界の端で異質な三人が歩いてくるのをメシエは捉えた。
一歩、一歩。呼吸の間隔、歩幅、肩の揺れ。すべてが揃いすぎている。まるで機械仕掛けの影だ。
「……あれは……もしかして」
無意識に声が漏れる。
ケイが横目で彼女を見た。
「気付いたか?」
喉が渇く。けれど視線は逸らせない。
「うん……あの人たち、ううん。あれはこないだの……あれは探してるんじゃなくて……何かを、誰かを追ってる?」
ケイの目が細まる。
「……悪くねぇ。もうちょい注視してみろ。あれは中央がヒト、左右はアンドロイドだ」
アイも頷いた。
「観測一致。そして、動線は探索ではなく追跡。彼らの対象がすでに市場内に存在する可能性が高いです」
三人衆は群衆の中に溶け込み、すっと姿を消した。
「──追うぞ」
ケイの声が低く響く。
──そこからは人混みの中の追跡だった。屋台の列の間を縫う。行商人の担ぐ荷が急にせり出し、進路を塞ぐ。メシエは短棒を握り直し、わずかに肩をぶつけながら進んだ。汗が掌を濡らす。
視界の奥、三人衆の背がちらつく。振り返った一人の目が一瞬こちらを射抜く。メシエの心臓が跳ねた。
「逃げる気配……」
呟くより早く、三人衆の速度が上がる。
「読まれたか……」
市場がざわめく。荷車を押す異種族がわざと足を止め、通路は狭まり、追跡の難度は跳ね上がった。頭上をケーブルが垂れ、照明の光が瞬くたびに影が乱れる。短いリズム。視界が一瞬ごとに断ち切られる。呼吸が荒い。鼓動が速い。
メシエはぶつかりそうな身体をかわし、壁際を滑るように走った。ケイは迷いなく群衆をかき分ける。アイは無音で背後を追い、視界の死角を補った。
群衆のざわめきは一瞬で敵意を孕む。
「……監視の目がある。無茶はするな」
ケイの言葉に、メシエは呼吸を殺し、ただ視線で三人衆を追う。
やがて追跡は市場の奥、暗がりの階層へと向かう。照明は減り、監視の光も届きにくい。腐食した壁に影が伸び、そこに潜む者たちの視線が突き刺さる。賑やかさの中に漂う静かな脅威。群衆はただ、いつもの光景を見つめていた。
だが、メシエも足を止めなかった。胸は痛いほど高鳴り、喉が焼けるように乾いている。それでも、心の奥に確かな感覚が芽生えていた。
──あれは、ただ逃げる背中じゃない。彼らは何かを追っているんだ。
たぶん……ううん、きっと私たちと同じものを探してる。
「……やっぱり、いるんだ。ここに漂流衛星の関係者が……」
呟いた声は、アイとケイに届いた。
ケイは一度だけ頷き、言った。
「あぁ。追うぞ、答えはその先にある」
そして三人は、闇に溶ける影を追ってさらに奥へと進んでいった。
少しずつ、でも確実に成長を見せるメシエ。
焦らなくていい。




