不思議な料理屋
優雅なクラシックが流れる木造の家。櫻木風翔はまるで神隠しにでもあったような心地がした。
とある夏の日の渋谷。風翔は会社の帰り道で夕立ちに降られてしまった。慌ててスクランブル交差点を渡り、近くの路地裏に入る。スーツも髪も見事にびしょ濡れだ。ここに生意気な後輩がいれば、水も滴るいい男などと言われ、小突いているところだろう。そう考えてため息を吐いた風翔に1つの扉が目に入った。覗き窓もOPENの文字も無い。店とも一般住宅ともつかない無個性な外装は、確かに路地裏だと違和感がない。少し怪しいと思いながら、はほとんど無意識にドアノブに手をかけた。
ハンカチでスーツや髪の水滴を払い、室内を見回す。昭和レトロのようなものに囲まれ、ガラス細工のオブジェがキラキラと輝く。
「ようこそ、ノアのきまぐれ料理屋へ」
いつの間にか目の前に、メイド服姿の女の子がいた。
「どうぞ食べたいものをおっしゃって下さい」
「食べたいもの……特に、ないな」
正直に答えると、少女は首をかしげる。
「そんなはずはないと思います」
「どうして?」
「私のお店には、味を求める人しか来ないんです」
風翔が再び少女に質問しようとしたところで、彼女が風翔の背後をみる。つられて風翔が振り返ると、そこには男子高校生がいた。
「ようこそ、ノアのきまぐれ料理屋へ」
「料理屋……ハンバーグって、ありますか?チーズインハンバーグ」
「はい。チーズインハンバーグですね。空いているお席へどうぞ。もちろん、あなたも」
風翔と男子高校生はそれぞれ好きな席に座る。
「食べたいものは思いつきましたか?」
「いや……」
「そうですか……あ、申し遅れました。私はここの店主、雨宮ノアです」
「ああ、よろしく」
「食べたいものがないのでしたら、特別に温かいグラタンでもどうですか?そのままだと風邪をひいてしまいますから」
「それは助かる。ありがとう、ノアちゃん」
ノアは頷くと、風翔の席から離れた。風翔は近くの本棚から小説を選び、読み始める。
きりのいいところで本を閉じると、ちょうどノアがグラタンを持って戻ってきた。
「その本、気に入りましたか?」
「ああ、うん」
ノアはグラタンを風翔の前に置いた。
「どうぞ、冷めないうちに召しあがって下さい」
「美味しそう…いただきます」
風翔はグラタンを少し冷まして口に入れる。すると、身体の芯から温まるような美味しさが広がった。
「ノアちゃん」
「はい?」
「ありがとう。すっごく美味しい」
「それは、よかったです」
ノアは照れたように笑い、奥に引っ込んでいった。男子高校生はいつの間にか帰ったようだ。
グラタンを食べ終わり、帰り支度を始めると、ノアが食器を下げに来た。
「ごちそうさま。また来るね」
風翔の言葉に、ノアが顔を曇らせる。
「どうしたの?」
「ここに2度も来てくれた方は、いません。このお店は、一期一会が基本なんで、す……?」
「ノアちゃん?」
「なぜでしょう?あなたには、特別ななにかを感じます。私も、またあなたに会えたら嬉しいです。本当に、またこのノアに会いに来てくれますか?」
「もちろん」
ノアが今度は嬉しそうに笑い、風翔を見送る。
「あ、お金は?」
「お代はいただいてません。このお店はノアのきまぐれでやってますので」
「そう、なんだ」
「…私はこのお店で待ってますから、ノアの味が恋しくなったら、いつでもいらして下さいね」
風翔は頷くと、店の扉を開けた。外はすっかり暗くなっていて雨はやんでおり、月明かりが路地裏を照らしている。なんだか不思議な夢を見ていたような気がする。しかしグラタンの味が残っていることから、全て現実であることがわかる。思い出すと温かい気持ちになり、風翔は足取り軽く帰宅した。