裸の王様
三月三十一日 午前九時
「九丈さん、昨日は眠れましたか?」
留置場から出てきて、マスクの下で大きなあくびをした九丈は、「眠れるわけありませんよ、あんなところで。相部屋にされなかったのは良かったですけど、向こうのほうで夜通しずうっと叫んでる人はいる、鉄格子もなんか怖いし。布団はペラペラで床は冷たいしで、散々ですよ」
ふたりで一課の刑事部屋を抜け、狭い取調室に向かう。
「北見署は古い施設ですからね、申し訳ありません。一応は九丈さんも被疑者なものですから。お詫びといってはなんですが、タバコはお吸いになりますか?」
「え、いいんですか? あ、でも昨日、タバコも預けちゃいました」
「手錠はそのままになりますが、私ので良ければ、」胸ポケットからタバコの箱を取り出すと、中身は一本しか入っていなかった。
なんと! こんなところにも小遣いの影響があるだなんて。「……あ、あァ、十倉、タバコを一本貰えないか」
自分のデスクに座っていた十倉は、「あれ、係長、聞いてませんでしたか? 明日から全館禁煙になるらしいですよ、うちも。それで喫煙室も今日から撤廃されて」
なんだと?
おのれ、全国他人の健康促進協会、略して全健協め。
法律で二十歳からと認めていながら、まるで喫煙者は犯罪者扱いされたかのよう煙たがられる、恐ろしいほどの値上がりは全日本尻に敷かれる旦那組合としてはひどく高い趣向品になり、吸える場所すら制限され、そのうえであなたの健康のためです、だと?
大きなお世話だ、人権侵害だ! 違法な訳でもなく、ほとんどがタバコ税ではないか、こっちは高額納税者だ、他人に私の健康など分かるものか、タバコが吸えないストレスで死ぬようじゃ本末転倒だろ! なに、副流煙は他人に迷惑をかける? 一本吸うごとに五分寿命が縮まる? 依存性が高い趣向品は、早めに辞めておいたほうがいいだって? そうすれば小遣いも減らないだろうって?
さてっと、明日からは爪楊枝でもくわえてましょうかね。 火事の心配もないしね。明日からね、明日から。
どうぞ、十倉はタバコとジッポーライター、丸い携帯灰皿を差し出し、「雪は残ってますけど、運動場の出入り口の外ならどこからも見えませんよ」腕時計を見て、「ちょうど今の時間なら、誰も来ませんし」
「あ、あァ、そうか。何から何まですまんな、主任」
「いえいえ、俺もさっき行ってきたばっかですから」
おのれ、十倉、通称、主任め。
私を差し置いて、先に一服してきただと? うん、それはしょうがないよね。タバコも貰ったことだし、ありがとね!
北海道の春は、まだ遠い。桜が咲くのも、せいぜい四月末。積雪も未だ残り、風は肌を刺すように冷たかった。
身体の前で手錠をかけた九丈に、捕縄の端を握りながらタバコを渡す。
「気を付けてくださいね。いきなりタバコを吸うと血圧が一気に下がって倒れてしまいます。一日吸ってないだけで、相当ですから」
ええ、不織布マスクを顎にずらして、にこやかに微笑んだ。
マスクを外した顔は、免許証の写真と変わらず。
唇は薄く、ほうれい線は目立たなかったから、年齢より若々しく思えた。ジッポーで火を灯して、先を焼いてやる。目をつぶり、ゆっくりと煙を肺に入れ、ふうっと長く吐き、「うめええッ」と感慨深げに呟いた。
「刑務所に入ってしまえば、こんな美味しい贅沢できませんからね、ははは」
私も、一本咥えて火をつける。外の冷たく新鮮な空気も心地よかった。
「こんな事、ここだけの話ですが。実は私、今月の三十一日、つまり今日で定年退職するんです」
九丈は、目を丸くして驚いていた。
「へえ、そうなんですね。お若く見えるのに、へえ、そうでしたか」と、しきりに感嘆の声をあげ、美味しそうに煙草を吹かした。
「ええ。実際は、六十五歳まで定年が延長されたんですが、さすがに最前線で緊張の連続は身体に堪えます。早期依願退職を申し出たんです。年金受給には、まだ少しありますが、しばらくの間は退職金でかみさんと細々暮らしていければと思っています」
「再就職されないんですか?」
「少しゆっくりしたいというのが本音ですね。かみさんには迷惑かけっぱなしでしたから、家族サービスも兼ねて」
「そうでしたか。お疲れ様でした」
労いの言葉を聞くと、心を撫でられるようで心地いい。「人生を八〇年として計算すると、睡眠に二十七年、食事に十年、トイレに五年を費やすことになるそうです。これらを差し引くと、残りはたったの三十八年ほどらしいです」
そのような計算はしたことがなかったが、単純に私は平均寿命から考えて、残りの人生は丸二十年ほどだ。そう考えると、四分の三は過ぎていった。残る四分の一、かみさんと過ごす二十年。
「仕事に明け暮れたでしょうから、残りの人生は奥さんとゆっくりお過ごし下さい。まだ楽しみなことは沢山ありますから」
タバコの煙が流れてきたのだろう、目に沁みて涙腺が緩みそうになる。
「そうすると、明日の聴取はどうなるんですか? 担当は、零瀬警部補ではなくなるんですかね?」
「いえ、大きな声では申し上げにくいのですが、警察などブラック企業みたいなものです。日付は今日ですが、乗り掛かった舟とでも言いますか、私が担当させていただきますよ」
「ありがとうございます」九丈は、ほっとしたようほころんで見せ、「では、僕も出来る限り協力しますんで。あの十倉さんとかいう人、なんだか粗暴でちょっと苦手なもんで」と、肩をすくめた。
「ははは、それは申し訳ない。口は悪いが、あァみえて十倉も見どころがある男でしてね、一緒に組んで仕事していると頼もしいですよ。正義感が強く、人情味に厚い。年上の私にも辛口の冗談を言うくらいでしてね」
「……そうでしたか、なんだかすいません。人は見かけによらないってことですね」
「昨日いただいたカツ丼が退職祝いらしいですよ、ははは」
「それじゃあ、内祝いのお返しにはカツカレーなんかいいんじゃないですか?」
「奇遇ですな。私も、そう思っていたところなんです」
くすりとお互いを見て笑い、携帯灰皿でタバコを揉み消した。
空は青く晴れ渡り、雲ひとつなかった。心のどこかで、九丈が一連の真犯人であってほしくない、そう願っている自分がいた。
取調室に戻り、私は手元の資料に目を落としたが、
「そうだ、九丈さん。ここで簡単なテストをさせてもらってもいいでしょうか」
九丈は黙って、目礼する。
十倉が遅れて取調室に入ってきて後ろのパイプ椅子に腰を降ろした。
「あなたの家に強盗が侵入してきたとします。九丈さん自身、武器は持っておらず、隠れることしかできない状況。あなたが身を隠すとしたら、家のどこに隠れますか?」
これは、合衆国のFBIでも使われていたという心理テスト、サイコパス診断だ。
この質問に対しての一般的な答えは、身を守るための場所を考える。例えば押し入れや、トイレなど。
「当然、キッチンへ向かって包丁を持ち、ドアの裏で息をひそめます」
サイコパスは、自分が有利になれる場所を考えるそうだ。「あァ、もしキッチンまで行けないようなら、ボールペンでもいいかもしれません。目か耳に突き刺せば、相手に致命的なダメージを負わせることができるでしょうから」
そのうえで、どう倒すかをシミュレーションしているとは。
思わず、背筋が冷たくなった。
「な、なるほど、そうですか。では、次の質問です」動揺を、咳払いでほぐす。「夫の葬儀が執り行われる中で、そこに参列した夫の同僚に一目惚れをした未亡人がいました。その夜に、一人息子を殺害してしまう。その理由とは、何だと考えますか?」
一般的な回答は、新たな恋に息子が邪魔になったから。その解答自体も、ゾッとしてしまうが。
「うーん」九丈は眉をしかめ、首を捻った。「息子の葬儀で、またその男性に会えるからじゃないですかね」
経営者や社長になる人物は、時に非情にならざるえない場合があるという。情などで会社が傾くことなどしてはならない、義理や愛で営利目的の会社が潰れるようじゃ失格だ。
上に立つ人間に、潜在的なサイコパスは多いという。
思わず、鳥肌が立つ。そんな男が目の前にいる。
「で、では、次です。マンションのバルコニーから、下で男が女性を刺して、」
「目が合ってしまうと、こちらに向けて指をさしている」
「……え?」
「階数を数えていた。どちらかといえば、次はお前を殺すという一般的な答えの方が怖い気もします。だって階数を数えていたなら、すぐにやってくるということでしょ? それなら待ち構えて応戦することもできますけど、次、というのはいつになるのかと怯えながら暮らすのは嫌ですよ」
「し、知ってらっしゃったんですか?」
ええ、と目元を緩めた。「からかったつもりはないんですけど、あまりにも有名な心理テストだったんで、あえて面白いほうにしてしまいました、ははは」
「こりゃ、参ったなァ」薄くなってしまった頭を掻く。
後ろで十倉も、ほくそ笑んでいた。束の間、空気が和らぐ。
昨日、札幌で行われた四葉書店元副社長、四方山茂の家宅捜索で、爆弾は見つからなかったものの、有限会社クルーズからお歳暮として送り付けられた茶葉セットの中身が、乾燥大麻と覚醒剤だったことが判明する。薬物法違反、大麻不法所持で四方山茂を緊急逮捕した。容疑を認めず、徹底抗戦の構えらしい。数十件にも及ぶ民事訴訟を抱える四方山だ、刑事訴訟になっても勝てると見込んでいるのだろう。
そのことについて、私は九丈に何も伝えなかった。九丈も訊いてはこなかった。特に興味もない、私にはそう映った。
「分かる限りで構いません、四葉書店に出入りしていたということで、九丈さんからの視点でいいです。株式会社フォーリーフとは実際、どういった会社だったのですか?」
「ええ」
九丈は改まって、背筋を伸ばした。
「確かに、いち企業としての急成長、企業戦略や努力など秀でるものがあったからこそ、大きくなっていったと感じます。僕も大変お世話になりましたから、おこがましくも恐れ多いんですけど。けれど、いつからか違和感と不安を覚えるようになったんですよ」
「はい」
「急に文化を創造したとか、我が社の思想というのを押しつけるようになったんです。権力をはき違えているのか、神にでもなったつもりなのか、幹部連中が愚かなのか、銀行にカネで踊らされているのか、恐怖政治を地で行くつもりなのか、真意はわかりません。ただ僕には、七海社長が裸の王様にしか見えなくなってしまったんです」
確か、アンデルセン童話の一つ。たとえ話としては有名だ。
洋服を自慢するのが大好きな王様の元に、仕立て屋がやってきて「愚か者には見えない布で、この世で一番珍しい服を作れる」正直者の大臣と真面目な家来に、仕立て屋の様子を窺わせるが、二人とも嘘をついてしまう。完成した洋服を、見えないと言えなくなった王様。城内の人々も褒め称え、有頂天になった王様はパレードをするが、ひとりの子供が「あははは、王様が裸で歩いてる!」
顔を真っ赤にした王様だったが、家来に途中では辞められないと渋々パレードを続けた。
「ブラック企業は、外見や外面なんかじゃ分かりません。中にいる人たちが口に出すこともできないんですから。理不尽ぶりは社員の方々のみならず、関連する出入り業者にも及びました。僕には、気でも触れ狂ったよう思えましたよ」
「そこまでなら、たとえば、社員の方々の告発や労働基準監督署の指導なりはなかったのでしょうか?」
九丈は鼻を鳴らし、「それが出来れば、この世の中からブラック企業なんてなくなりますよ。社員の方々は辞めてしまえば関係はなくなりますし、労基に至ってはお役所仕事で動いてくれません。王様だって渋々とはいいながらもパレードは続け、王位はそのままだったはずですから。泣き寝入りするのは、常に正直者で弱者の民衆、労働者です」
民間企業の切実な問題だ。
「この北見への出店に於いて、地元で古くからやっていた書店を潰すため、卸問屋に圧力をかけたのは有名な話です」
「……そこには商品、書籍を卸すな、と?」
こくりと首を縦に振った。「ですが、僕にとってはビジネスです。商売とは難しいもので好き嫌いではやっていけません。契約を継続しなければ、我が社も倒れてしまいます。心とは裏腹のビジネス顔をもって対処していました。今まで頑張ってきた過去の自分に報いる為にも、頑張っている社員の為にも、我慢は必要でしょう。そうするしかないと思い、やり過ごしていましたね。けれど、裸の王様だと気付いた時に、はっとしました」
「ええ」
「自分が滑稽であるのにも気付かないんです。移り行く時代を読みきれていない、未来を見ていないな、と」
「……先見の明がない」
九丈は、瞬きもしない鋭敏な目で私を射抜いた。「きっと紙の本はなくなりはしません。僕も、小説家を目指していたくらいですから、そうなってしまうと困ってしまいます」 マスク越しに微笑んだ。「CDもなくなりはしないでしょう。DVDなどのレンタル映画も貴重なものが残っていたり、サブスクでは観られないものが店頭だけにあります。けれど、人々の娯楽は多様化します。それを先導しているのか、媒体だって変化していきます。この先もっと進化していきます。時代や進化とはそういうものです」
店頭で販売する限界、売り上げと接客など諸経費の費用対効果、進化したITやインターネットの充実、スマホやSNSの普及、コロナ禍によって激変した環境。四葉書店がやっていることは、素人の私の目から見ても、時流に逆らい、逆風で棒立ちにされている気はする。
「銀行だって潰れます。昭和の日本を支えた電気機器メーカーだって外資に呑み込まれるんです。飲食店に限っていえば始めるのは簡単ですが、三年以内に廃業するのは七〇パーセントらしいです。継続させるということが大切、難しいんですよね」
「継続は力なり、確かにそうですね。ですが、未来は誰にも分かりませんよ」
「いいえ、想像するんです」
ふむ、私は腕を組み、パイプ椅子の背もたれにのしかかる。ギリッと音がした。
「先にどう繋げるか、未来へどう託すのか。政治家が一向に少子化問題を解決できないのは、想像力に欠けているからですよ。自分の保身とカネのことばっかり、あんな老害が未来の子供たちのことなんて考えてる訳ないじゃないですか」
その政治家を選挙で送り出しているのも、年老いた人々。 負のスパイラルは、こんなところにも渦巻いている。老人栄えて国滅ぶ、そんなことも耳にしたことがある。
「何百億もの借金をして、自社物件を建設して、また借金を重ねて。それを次期社長である息子に託す。あまりに身勝手すぎませんかね? 人の命は永遠じゃありませんから」
「その社長のガキが納得してりゃいいんじゃねえのか? カネを持て余してる奴の考えなんて知ったこっちゃねえ」十倉が口を挟んできた。「そんな葛藤に悩んでいた矢先、一ノ瀬が窃盗事件を起こしたってことか」
ええ、静かに顎を引く。「培ってきた過去の道か、見えない未来への道か。存続か破壊か。我慢か自由か。死んでるように生きるのか、自分らしく死んでいくのか。答えなんて、初めから決まっていましたけどね。僕の人生ですから」
なるほど。
「四葉書店に勤めて、会長として出向してきた五十嵐とは、元々どういうご関係だったのですか? 前職でご一緒だったとか。年齢は九丈さんより、二回りほども離れていますが」
「あァ」一度、上を向いた九丈は、「五十嵐さんは、前職で働いてたところの支店長をしていた上司でした。お家騒動のゴタゴタに巻き込まれて、濡れ衣を着せられ会社を追われてしまいましたね」
「濡れ衣? 言葉は悪いがそれは、九丈さんと同じ状況ではないですか」
「まァ、そうかもしれないですね」目元に苦笑いを浮かべる。「一族経営の邪魔になったのか、難癖をつけられて。会社の従業員は、同調圧力か上が怖いのか保身か知る余地もありませんが、おかしいと言ったのは僕だけでして、ははは」
日本人の同調圧力の気質は、様々な場所で見受けられる。 少数意見を蔑ろにする場の空気、忖度をしない者への多数派意見の押しつけ、集団行動を伴わない人物への圧力、イジメなど最たるものだ。昨今のマスク着用も、それに近いのかもしれないが。
「なんせ五十嵐さんは独り身でして、色々とそれからは援助しました。僕が掃除の仕事を始めた頃には、今の株式会社フォーリーフに再就職することができて、僕に恩を返してくれたのか、そこの定期清掃の仕事を任せてくれました」
「そうなんですね」私は少し腑に落ちなかった。「そんな良好な関係だから、九丈さんの会社に出向してきた。そこまでは理解できます。ですが何故、九丈さんを追い出すようなことをするのでしょう? 本来なら、かばってあげる立場、もっとも九丈さんは、前職の会社で五十嵐が追い出されるのを唯一抵抗した人だったのに」
「病気なんですよ、五十嵐さんは」
「びょうき?」
「ええ、無知な怠け者病です、きっと」
無知な怠け者病。そんな病名は聞いたことがない。
怠け者。それが、昨日から九丈の言う七つの大罪の中で、怠惰に相当するのは分かった。けれども、口には出さなかった。
少しだけ胸がざわついた。
「だって、おかしいと思いませんか? 自分がされて嫌だったことを、手の平を返したように、色々してあげたこの僕にやり返してくるなんて。あれは完全に病気ですよ、無知な怠け者病」目をつぶって、うんうんと頷いてみせる。
「その、病いであろう、病んでいるであろう根拠のようなものはありますか?」
「このご時世、家に鍵をかけないんですよ。昭和初期じゃないんですから。そうしたら案の定、泥棒に入られてしまって。金目の物は全てなくなっていたらしいんです」
「それは無防備ですね、いくら一〇年前だとしても」
それでどうしたと思います? 九丈は嬉々として話をしだす。「透明な金魚鉢を買ってきて、そこに小銭を沢山いれて張り紙をしておいたんです。『泥棒さんへ。うちにはこれしかありませんので、これを持っていってください』なんて」
「……なんですか、それ?」
顎が落ちそうになるとは、このことだ。
「近所の子供たちの間で噂になっちゃって。毎日ごっそりなくなるのに、また補充して。子供たちも悪知恵なのか、全部は持って行かないらしいんです。それが何年も続いて。さすがに危ないから鍵はつけたほうがいいって言ったんですけど、内鍵しかつけない始末で」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。「だ、大丈夫ですか、その方は」
「今からだと三〇年前に、ベトナムのある一家と親交があって、レストランでも開きなさいと三百万を貸したらしくて。利益がでるようになったら、少しずつでも返してって口約束したらしいんです。どうなってるのか、僕も同行してベトナムに行ったことがあります」
嫌な予感がする。けれど、聞いてみたい私もいる。顎を抑え、口を真一文字に閉じておくとしよう。
「レストランなんかじゃなく、屋台でした。まァ、それなら分かります。ベトナムの地域性を考えるならと。その後、一家に招かれて家へいくと、見たこともない豪邸でした。そこまでも、まァ、許せます。ひょっとしたら、屋台で一生懸命稼いだお金で建てたのかなって。そうしたら、国から五十嵐さんが表彰されたって金のメダルをかけてもらったんです。泣いてましたよ、五十嵐さん」
「え、ええ。それで?」
「金メダルを見せてもらったら、裏にfootball child meetって書いてあって。子供のサッカー大会のメダルでした。何も言えませんでしたよ、だって泣いて喜んでるんですもの」
十倉は吹きだして笑っていたが、私は苦笑いしかできなかった。それは間違いなく、なにかしらの病気かもしれないですね。私に言える訳もない。
内線の電話が鳴り、十倉が対応する。「札幌の佐間瀬課長からです」
取調室を出て、自分のデスクの電話で応答する。と、署員連中ほとんどが慌てて刑事第一課を出ていく。なにやら騒がしい、十倉も取調室を出て駆けていく。
『どうも匂うな』
佐間瀬はあの時も、そう感じたらしい。
確かに捕えた下着泥棒は、路上生活をしていたため、異臭を漂わせていた。鼻を摘みながらも佐間瀬は、その顔に違和のようなものと記憶のしこりをぐりぐりと触られるようなものを感じたそうだ。問い詰めると観念したのか自白を始めた。その下着泥棒は、全国に指名手配されていた殺人犯だったのだ。顔が違うのは当然、整形を繰り返し、路上生活で全国を転々としながら逃亡していた凶悪犯。手配書の顔とは別人のようだったが、佐間瀬は面影から見破ったのだ。時効二日前だった。
その功績は認められ、佐間瀬は北海道警察本部長賞を受賞することとなった。
表彰の式典に佐間瀬は、アフロのかつらを被り、真っ黒のティアドロップサングラスをかけ、ダークスーツに黒のワイシャツ、真っ白のネクタイを締めて登壇し、参列する道警上層部の度肝を抜いた。表彰状を受け取る際には、「なんじゃゴラァ」と叫び、テレビクルーの取材には、「自分、これで殉職するなら本望です」とカメラ目線でぬけぬけと言い放ち、記念写真の撮影では、凍りつき顔がひきつった本部長の肩をなれなれしく抱きながらピースサインをした。あまりの傍若無人ぶりに、後日、栄誉ある本部長賞は取り消され、一週間の停職処分を受けたことがある。
噂を聞きつけ心配になり、処分を受けた佐間瀬の社員寮に、日本酒を持っていった。
「俺は、表彰されるために刑事をやってる訳じゃない、出世だって興味はないよ。もっとも、殉職してんのに二階級特進したところで意味なんてねえからな」
「あァ、そうだな」
熱血漢な佐間瀬は、そう強がりながら、フライングで翌日新聞記事になってしまった写真を眺めながら、隣に写る本部長の鼻の穴に画鋲を刺していた。表彰されたからといって凶悪犯罪がなくなる訳もないし、上層部がすやすや寝てる間にもどこかで被害者が生まれている、その無念を晴らすため、被疑者を捕まえるため捜査する、街の治安維持のため、平和な世の中にするため、身を粉にして命を削って働いているんだ。
そう言ってる気がした。私には分かった、私だけは分かっている。
黙って酒を注いだ。
二時間ほど吞んでいると、「刑事なんてよ~、仕事じゃないの、コボちゃんよぉ」と、しゃっくりをしながら、講釈をたれはじめる。「男ってのはさァ~、女を喜ばせて笑わせること、家族ができたら、ヒックっ、全力で守ってやるんだよ。俺にはまだまだ先だけどよ、それで一人前ってやつよ、分かる? カリアゲくん」
「……あァ、そうだな」
「しょれと!」私を指すが、手が宙でぶらぶらしている。「親友のことは、ぜったいに、裏切らない! これだよ、分かる? カリアゲくんッ」
「当たり前のことだろ」日本酒がいつもより美味しく感じた。「それより、コボちゃんとカリアゲくんを間違えるな」
「お前が、先に、俺より先に、結婚したら、撃ち殺してやるからら」
「そりゃないだろ。本部長賞だって、」
酔い潰れた佐間瀬は、日本酒が入った湯呑みをひっくり返して、急に寝だした。「おいおい、こぼせ、は俺の役目なんだよ、ったく。ははは」
お前には何でも話せる、かけがえのない俺の親友だよ、決まってるだろ。そう、最初から決まってたんだよ。もう、二〇年も前のことだ。
「……におう? 一体どういうことだ」
『クルーズの現社長である六籐と九丈は、幼なじみの上、兄弟のような間柄だったはずだ。それが急に仲違いした兄弟喧嘩かのよう、禍根を残す跡目争いに発展するとは、通常考えにくい。共犯という線はないのか?』
「私もそれは考えたが、九丈のほうは完全に否定している。この一〇年、接点すらない状態で飼い犬が嚙みついてきたと思ってる。以前、六籐を聴取した際にはどうだったんだ?」
あァ、ひとつため息をついた。『同じ対応だったな。ひどく毛嫌いしているような素振りも見せていたしな。擦りつけ合い、ということか』
「その六籐の身柄は、まだ抑えられないのか?」
『あァ、電話も出ない。札幌の従業員も居場所は分からないということだ。今をときめく六籐社長だ、色々と大変なんだろうけどな』
実のところ、六籐は時の人になり世間を賑わせていた。三週連続で、週刊文秋という発行部数の多い週刊誌で自身のスキャンダルが暴露報道されていた。
「クルーズの本社は北見にある。こちらも動いてみるか」
『あァ、頼む』
「それと合わせて、四葉書店から出向してきている会長の五十嵐もなにかしら関与しているかもしれない。本社にいるはずだから、そこは、私が受け持とう」
『心強いな、さすが零瀬だ。進展があったら連絡くれ、私も随時、連絡をいれる』
肝心なことを告げられないまま、受話器を置くと、十倉が息を上げて戻ってきたところだった。
「よし、有限会社クルーズ会長五十嵐の逮捕状を請求して、引っ張ってこい」
「そ、それが」
「どうした? まさか、五十嵐が出頭してきた訳じゃないだろ」
「そうなんです」
「……ん、どういうことだ?」
「出頭してきたというより、今、北見署の玄関先で包丁を振り回して暴れて、やっと確保したところなんです。『お巡りさんはどこだ!』なんて叫びながら、そのう、九丈が話していた、その、ぷっ、奴がホントの裸の王様かも」
どこか笑わないよう、口を手で押さえ、なんとか堪えている。
「どうしたというんだ? まさか、本当に裸だったわけじゃないだろ」
「なんで分かるんですか、ぷっ、そうなんです。白いよれよれのブリーフ一枚で、長靴を履いただけ……、あはははは、だめだ、すいません」
「…………」
顎が落ち、口は開いたままになった。
「は、はだか、だと? まだこんなに寒いのにか?」
「係長、そういう問題じゃないっす」
十倉は、冷静にツッコんでくれた。
読んでいただき、ありがとうございます!