三崎隆太
ジンギスカンは大好きだ、札幌ラーメンも、スープカレーも、石狩鍋だって、いくら丼だって、から揚げのザンギだって好物だ。けんど、生キャラメルは好かん。冷やして食べるラーメンサラダは大好きだ、寿司も旨え、鮭のちゃんちゃん焼きも旨え、じゃがバターも旨え、甘納豆が入ってる赤飯も旨え、だけんど、生キャラメルはなんか好かん、いけ好かねえ。北海道の食いもんは全部美味しい、スイーツから野菜から何でも美味しい。したけど、生キャラメルは好かん。そこの社長さ、テレビタレントで、わと同郷の青森出身のくせして道産子だなんてほざいて、ひでえ会社経営して、人格疑うような奴だから嫌いだ。
だけんども、この世で一番好かんのは六藤の野郎だ。あいつは、でえっきれえだ!
わのことを、陰キャ扱いしやがる。
確かに、体重八〇キロだし、それでいて眼鏡もかけて、見た目もパッとしねえかもしんねえ。あァ、地下アイドルは大好物だ。かわいいもん、仕方ないべさ。ヲタっていわれたところで否定はしねえ。だからって、陰キャ認定すんのは違うべ。おめなんかたいした見たことも、聞いたこともねえくせしてよ。ヲタ活って何のことか知らんかったら、わに聞いてこい、教えでやんねえからよ。
自分はたいしたイケメンで、背さ高くてモテんのかしんねえ。社長になって偉いのかしんねえ、カネ持って好きなもんたらふく食ってるのかしんねえけど、人は外見じゃねえ。
そういうのが自惚れっていうんだ。自分のことが好きでたまんねえのかもしんねえけどよ、このバカチンが。
わは心の底から、六藤みてえに年上だからって何してもいい、イジメられる奴に問題があるから虐められる、文句あんならかかってこい、なんて平気で言って、外面よくヘーコラして、皮被ってる真性パワハラ上司が一番嫌いだ。
胸糞だ、でえっきらいだ! こったらとこ閉じ込めやがって。
けども、社会は厳しい。抵抗すれば、よりイジリと称するイジメは過激さを増すだろうし、この有限会社クルーズさ辞めたら、食っていけなくなる。おどとおがに相談ばしたら、「そったらこと、ずっと続くわけでもねえし、頑張って働け」なんて他人事のように言われちまう始末。
社長だった九丈さんもいなくなって、天下獲った気分でいやがる六藤はホント好かん。
なにが正しい行いをする人と書いて、正行だ!
悪いことばっかしくさりやがって。正しくもねえ行いをしちゃうの間違いだっつうの。名は体を表す? すったらこと誰が決めたんだっつうの。そんじゃ、花子ってのは頭さ花でも咲いてんのか? もしカニ子ってやつがいたら、横歩きしかできねえってのか?
ふざけんじゃねっての!
おめの正義は、嘘の正義だ。あァ、偽善だ、偽善。わは警察にいたから、よっく分かる。本当の正義とはなにか、真の善とはなにかってな! 教えてほしけりゃ頭下げて聞きにこい、教えでやんねえからよ。
とは言っても、辞職することなんかできなくて、ズルズルと九丈社長のいなくなった有限会社クルーズに居た。そこで給料貰って、飯を食ってた。ずうっと陰キャ扱いされ、イジリ倒され、へらへらと苦笑いを浮かべていた。
大した変わり映えもしない毎日を、ぼんやり淡々と過ごしていた。
九丈さんなら、今のわを見て、全く違うもんになった会社見て、六藤さ見て、なんていうべな。今どこで何さしてんだべな。今会ったら、犬にした悪さは六藤に言われてやったことです、けんど、あいつに逆らえなかったわが悪いです、許してください、すんません、遅くなったけど、真っ先に謝りてえな。
そう思ってはいたけど、電話すらできなかった。
なんで、こんなことになったんだろ。考えても、わには分からん。なんで、こったらとこに居るんだろ。ちっとも、わには分かんねえ。
有限会社クルーズは、大学在学中の四年間アルバイトさせてもらっていた会社だ。在籍中、北海道警察の採用が決まった時には、親同様に九丈社長は喜んでくれた。
わの田舎は青森県だったから、社長は北海道での親のような、兄貴のような感じだった。なんでも話せたし、冗談が好きで面白い社長に憧れもあった。
真駒内の警察学校に入校すると悩みばっかりで、ホームシックになったりした。友達に電話をかけても、気は晴れなかった。思い切って、世話になった社長に連絡をとった。
明るい対応と優しい言葉に包まれ、電話越しに思わず泣いてしまった。
たまたま警察学校のそばの澄川地区に今事務所があるとのことだった。いつでも遊びにこい、そんな言葉に甘え、土曜日の休みに徒歩で探し訪ねた。アルバイト時代からの社員だった二階堂さん、六籐さんが社長を中心に外で焼き肉をしていた。
「久しぶりだな、元気だったか?」
歓迎してもらい、焼き肉と酒をごちそうになった。腹の底から笑ったし、美味いごちそうに満足した。なにより楽しかった。こんなことは久しぶりだった。
外泊はまだ認められてはいなかったから、再会を約束して、警察学校の寮へ戻った。
枕元には、もうすぐ結婚する彼女の写真と一万円札をフォトフレームに飾っていた。
その一万円札は、乾いた土で汚れている。大学卒業と同時に就職祝いということで、社長から写真立てごともらったものだ。富良野を舞台にしたテレビドラマの名シーンにあやかり『泥だらけの1万円札』として、日付が書かれ泥だらけにしたものだった。ものまねをしながら「一生大切にしろ」とプレゼントされたものだ。
布団にもぐりこんだまま、寂しさを包み込む暖かさに涙が止まらなかった。
「ぬあああッ、るおおお!」
叫んだところで誰も来ない、ムダなあがきだ。
これで、虎虎虎虎トーラ火人造繊維海女振動化繊飛び除去! のコールなんて無理に違いねえな、こりゃ。
諦めて、飯でも食おう。今の楽しみは、飯くれえなもんだ。食べるとすぐに睡魔のようなものに襲われる。現実と夢の間を、彷徨っているようになった。
あァ、ぼんやりと見える景色、これは夢だ。証拠に、体は動かない。夢で過去を回想していた。
彼女とは、子供ができて結婚した。俗にいう、デキ婚。大学生の頃に出会い、付き合いだして三年ほどになった頃、北海道警察学校に在学中の頃だった。
警察学校では、異例の出来事だったらしく、若造のくせに、半人前のくせにと先輩上官からは罵られたけれど、そんなことは気にしなかった。生まれてくる子供のことを考えれば、気にもならなかった。
嫁になった彼女は、北海道の先住民アイヌ民族の末裔だった。彼女の両親も、生粋のアイヌの血を引いていて、文化を継承する活動に躍起だった。
歴史もよく分からないわは、嫁の実家で同居しなければいけなかった。それが結婚の条件だった。配属も無理を言って、上官の気遣いもあり、卒業後の就任先は希望どおりの勤務地、苫小牧署白老駐在所になった。
北海道を別つ津軽海峡を越えた本州には、わの両親がいる。この海を越えたら、おどとおがに会える。だけど、会いにいくことは一度もなかった。結婚も電話で済ませたくらいだった。
日々のストレスは尋常ではなく、仕事以外にも溜まっていった。嫁の態度、理解できない義父母との共同生活、慣れない白老という土地、職場にも心許せる友達はいない。
毎日の鬱積は、あまりに脆い心のダムを決壊させる。
嫁の親類一同が集まる宴席があった。しきたりだ、伝統文化だの、よく分からない舞踊してるから、わは黙っていた。 義父が酒を注ぎに来て、「なんか喋ればいいべさ」なんて言うから話し出したら、「何言ってんのか、さっぱり分かんねえな。やっぱ、よそ者だからな」なんて言われたから、また黙ってた。義母は気を遣ってか、「ほれ、味噌汁でも飲め。先祖代々受け継いだ我が家伝統の味なんだから」なんて言うから、一口すすってみたら、化学調味料がどっぷり入ったしょっぱい味噌汁で、思わずむせて吹き出し鼻からワカメがでた。「やっぱし、よそ者には分かんねえんだべな」と、目の前の料理も片付けられた。
腹が減っているのに食べるものがないから、どぶろくみたいに白濁したキツい酒しか飲むしかなかった。グラグラ頭は回り、胸も悪くなってくる。叔父とかいう奴が傍に来て、「こいつはよ、年一回しか飲めねえ貴重な酒だ。旨いべ、よそ者」
わは、そいつの禿げた頭に全部ゲロでぶちまけてやった。 気付けば、その叔父が連れてきていたふさふさの白い毛で覆われた北海道犬を蹴飛ばしていた。覚えてるわけもね。
それからというもの、孤独との戦いだった。
嫁の実家に住ませてもらいながら、皆が就寝している時間にこっそり帰った。朝は誰よりも早く家を出て、コンビニで時間をつぶし出勤した。そんな生活を続けていた。
目が覚めても、真っ暗な状態だった。
とりあえずは、小便してクソでもすっか。いい加減、腰も痛えな。今日は何月何日だべか? ここはカビ臭いし、廃墟みたいにすえた臭いが鼻につくし。ま、とりあえず飯でも食って、それから考えるか。
いつの間にか、わはテーブルに突っ伏して眠っていた。
小さな頃から、柔道をやっていた。
道警に受かったのも、柔道の実績は考慮されたようだった。有段者だったが、わは俗にいうタコ耳にはならなかった。寝技で耳を畳に擦りつけられてばかりいると、皮膚と軟骨の間に血種ができて餃子のように腫れあがる。耳介血腫にはならない、きれいな耳だった。
それは、わの誇りでもあった。タコ耳にならなくても有段者になれたのだし、あまり負けなかったから。坊主頭にして甲子園に出れるなら誰でもするべっての。
青森弁もそうだが、自分のプライドは誇っていたい。
「お前、ホントに柔道やってたのかよ」
アルバイトでやってた時代、九丈社長のいないところで、六籐はわをイジってるつもりなのか、鼓膜が破れるのではないかというほどのデコピンをげらげら笑いながら耳にしてきた。出勤する度、一緒の仕事ですれ違う度に食らわしてきた。逆らうと後が面倒だ、社長のいるところではしないし、わが我慢してればいいだけだ。
いつも苦笑いでかわしていたけど、大学を卒業する頃には、見事なタコ耳になっていた。
それは道警を辞めて、有限会社クルーズに入ってからも続いた。
九丈社長に言いつけてやろうかな、何度も考えたけれど、その後の仕返しが嫌だったし、奴は筋トレして腕相撲も勝ったことがない、背もわよか20センチも高い六籐には敵わない、ましてや会社の上司、痛いのは一瞬だけだべ、逆らえずにため息をつく毎日だった。
まるで、結婚生活と同じような我慢ばかりの状況だった。
そんな時、九丈社長はめんこい犬を連れてきた。黒いラブラドールレトリバーという大型犬だった。「今日から家族だ、よろしくな」
事務所に居候させてもらっていたわは、出張の多かった社長に犬の世話を任せられた。
ご飯は朝夕の一日二回、散歩はいいから、ペットシーツが汚れたら必ず交換する。何日も留守にすることはない、せいぜい二、三日だから、たくさん撫でてあげてくれ。犬を撫でると、人間にも脳内で癒しホルモンが出るから、幸せを実感できる。離れた隆太の子供だと思って面倒みてあげてくれ。
わは嬉しかった。信頼されている、わのことも想っていてくれる、そう感じた。
けれど、六籐は酷かった。
「おい、隆太。黒いマジックで、その犬に眉毛書け」
耳を疑った。「そったらことやったら、社長に、」
「どうせ、黒いんだから分かんねえって。なにか? 俺の言うことはきけねえのか」
仕方なく、眉毛を書く。黒い毛だったから目立ちはしなかった。犬は遊んでもらえてると思ってるのか、健気に尻尾を振っていた。それを見て六籐はげらげら笑っていた。仲の良い二階堂さんも苦笑いしながら帰っていく。わは、全く笑えなかった。
「俺、犬嫌いなんだよな、邪魔くせえ。おい、隆太」
嫌な予感がした。
「今日から、この犬に餌やるなよ」
「い、いや、それは、」
「考えてみろ、なんでお前が犬の世話しなくちゃなんねえんだよ。手前ェがやれって話だろ?」
わは逆らえなかった。怖かった。犬は尻尾を振って、人懐こくすり寄ってくるのに。悪い奴は大嫌いなのに、抵抗できなかった。犬は人間でもないし、喋ることもできないんだからと、勝手に自分を正当化した。どうすることもできなかった。
それにしても、なんぼ食っても腹は減るし、なんぼ寝ても眠いもんだな。
あちこち身体が痛いのも飯食ったら自然と和らぐし、ぐっすり寝れるし。考えようによっちゃ、こんな生活も悪くないかもな。ヲタのコールできねえのは、しんどいな。タイガーファイアサイバーファイバーダイバーバイバー、ジャージャーッつってな。踊りたくなっちまうな、動けんけど。
悪いことする奴は、やっぱし気に食わん。なんもできんけど。
道警で鍛えられたからか、わの性分かは分からん。悪にどう対応するかはさておき、正義は必ず勝つものだと信じてる。
白老駐在所に勤務していた頃、そん時は毎日むしゃくしゃしていたから、よく札幌まで出向いてパチンコをしに行ってた。気晴らしにもなったし、嫁一家と休日を過ごすなんて地獄だったし。苫小牧のパチンコ店じゃ勝った試しがなかったし。そもそも、パチンコで勝ったこともなかったけど、時間と暇を潰すにはちょうど良かった。
北広島市を抜け、札幌の郊外ではあったが清田区外れのパチンコ駐車場に入れる。混雑していたので、店舗からは遠い場所になってしまった。周りに車はなかったが、黒いメルセデスの左隣に停める。ヤクザかもしんねえな、とは思ったが、わは天下の警察官だ。なんかあったら、私服でもすぐに逮捕してやる。
エンジンを切り、チラッと左ハンドルの運転席を覗くと、中には男が乗っていて目が合った。右側の助手席にも男が乗っていた。二人共、見るからに暴力団風、運転席に座る男はでっぷりとした坊主頭で彫が深い、助手席の男は細身だが筋肉質、薄い色のサングラスに髭を生やしていた。
「おいおい、昼間っからゲイの密会でねえべな」
助手席の男に、見覚えがあった。
「あれ、誰だった、誰だったべ?」呟きながら外へ降りる。
もう一度、メルセデスの中を覗くと、運転席の坊主頭が怪しげな封筒を渡しているのが見えた。そのまま、パチンコ屋の喧騒に入ったところで思い出した。
警察学校の在籍時に、北海道警察本部の庁舎見学があった。小休止に、わはひとりで喫煙所へタバコを吸いに行った。そこには先客がいて、うんこ座りをしながらタバコを吹かしている紫色の度付きサングラスのようなものをかけた柄の悪い奴がいた。
「なんだ、見ない面だな。新卒か?」
「へ、へい、三崎といいます」
タバコを揉み消しながら、「名前は訊いてねえよ。随分と訛ってるけど、出身はどこなんだ?」
「へい、青森の八戸で、柔道やってました。73チロ、キロキロ級、」
鼻を鳴らしながら、「階級も訊いてねえ、その耳みりゃ分かるよ」肺に残った煙を吐きながら、「ピカピカの一年生に言うことじゃねえけど、悪いことはいわねえ。ここは、ひでえブラック企業だぜ。拳銃自殺する前に、さっさと辞職しちまうことだな」
これから市民の安全と正義のために働こうってのに。ヤクザみてえな恰好しやがって。
「……あいつだべ」
わは、次の日、苫小牧署長に密告してやった。
悪の代名詞である暴力団からカネを受け取っていました、はい、偉そうなこと私に言ってきた道警本部の警察官だと思われます、へい、そんな奴が、正義を貫かなきゃならない警察が、暴力団みてえな悪い奴と一緒の車に乗ってるのを見たんです、封筒に入ったカネみたいなものを貰っていたのを、私はこの目でハッキリ見たんです、うりゃおい。
警察官なのに悪い奴を、真の正義を貫いてスッキリした。 正義が勝つのは当たり前だ。
数日後、その警察官は降格の上で停職処分をくらって左遷させられていた。おめが悪いんだべや、身の程を知れっつうの。
ところが、それで終わらなかった。そんなことになるとは、夢にも思わなかった。
左遷させられた警官は、組織犯罪対策課、通称マル暴の刑事で、接触していたのは暴力団幹部だったが、重大な情報を提供していた密告者だったという。幹部であるにも関わらず貴重な情報を横流ししたのは、組を抜けようとしていた、大きな闇取り引きの情報と引き換えに身を保証してほしい、助けてほしいと、そのマル暴の刑事に相談していたとのことだった。
上層部は警官の処分をし、暴力団幹部など保護することなく見捨て、その情報だけを鵜吞みにして鼻息荒く闇取り引きの現場を包囲したが、何も起こらなかった。不審な動きに気付いたのは、暴力団組織のほうで、警察は赤っ恥の大失態をおかした。翌日、
宅配便を装ってきたヤクザの下っ端が、冷凍された荷物を持って自首してきた。
中には、その幹部が切り取られた自分の陰茎を咥えさせられた生首が入っていた。裏切者の粛清、警察への警告、わの言動の結末だった。
「わは、その人に謝りたいです」
事態を知って、直属の上司に話をしてみた。
ため息をつき、制帽をデスクに置いた上司は、「やめておけ。お前が謝ったところで、処分は覆らない。そいつが一番傷ついてるかもしれない、何の役にも立てなかったとな。傷に塩を塗ることになるかもしれん。仏になったヤクザ幹部だって生き返る訳でもない」
「けども、そんなんなると思ってもみなかったし、そんな事情だって知ってたら、」
「いいか、三崎。お前の気概、正義感は立派なものだ、警察官としては見逃せないものだったんだろう。だがな、」上司は目も合わせず、俯きながら、「その正義だけでは、世の中の犯罪はなくならないんだ。もし世の中をそうしたければ政治家にでもなれ。そうなったところで、戦争はなくならない。なぜか分かるか?」
首を傾げた。
「互いの正義という価値観や概念、定義が違うんだ。つまり、誰もが自分を正義と思っている。戦争とは、正義と正義がぶつかり合って人を殺しているんだ」
「だども、わは、」
「我々の仕事は、人々の心を救うことじゃないんだ、三崎。それぞれに課せられた地域の治安維持と秩序に反する犯罪に向き合い、立ち向かうことだ。警察官である以上、そこに私情を持ち込んではいけないんだよ」
マル暴の刑事は、悪と思っていたヤクザ幹部の男を助けようとしていた。なんとか救ってやろうとしていた。それを、わの正義が邪魔をした。やるせない矛盾だった。
「上層部は昔の事件がトラウマになっているからな、ヤクザとの密な接触や癒着は、もう見逃せない事情もある。お前の見たことが全てで、その正義は間違っていない。私はそう思う」
わが入る十数年前、北海道警察は裏金問題やマル暴刑事の汚職が横行し、世間から大バッシングを受けた。刷新すべく躍起になる新体制は、内にも外にも厳しい組織になった。
「だがな、三崎」
上司は改まって、わの目を見た。「例えばの話をする。お前が外で飼っている犬を見て、それは虐待だとは言えないんだ。なぜなら、それは飼っている人の自由であり、警察官であるお前にとっては民事不介入になる。お前の正義は、何の役にも立たない」
「……私情を、挟むなってことっすか」
「腹いせで酒に酔ったお前が暴れて、その犬を蹴ったとすれば罪に問われる。暴行罪、器物損壊、傷害とな」
「え?」
深いため息をつくと、「お前の義父は、この白老じゃ知らない人はいない名士でな。アイヌ民族を伝承する由緒ある血筋で、私も古くからお世話になり良くしてもらってる」
血液が冷たくなって、顔が青ざめていくのが分かった。
「被害届を出すと鼻息荒かったが、私からしっかり言い聞かすとなんとか収めてもらった。お前が家に帰っていないのも知っている。どうしようもない正義を振りかざす暇があるなら、まずは自分の家族のことをしっかり考えろ、三崎」
返事はしなかった。
被害届だ? ふざけんな、あったら不味い酒ばっか飲まして、人のことよそ者扱いしくさって、喋れだの黙れだの、よそ者だ、よそ者だって言いやがって。
わは三日後、離婚届を書いた。一週間後には、退職届を書いて仕事を辞めてやった。
その一週間後には転出届を出して札幌に移り住み、転入届を南区役所に出して、有限会社クルーズの事務所に居候させてもらった。改めて履歴書はいりますか?「アホか、そんなもんいらねえよ」九丈社長は、笑い飛ばしてくれた。
しっかし、背中が痒い。頭も、ほっぺたも、あちこち痒い。鼻くそもほじれね、口もうまくねえ。なんか、垢がたまってんのか臭いし。あァ、風呂に入りてえな。熱々のシャワーを浴びたい。あァ、顔を洗いたい、歯を磨きたい。
「けども、わはなんだか納得いかんですよ。そういうことじゃねえって思うんです」
九丈社長とふたりになった夜、晩酌のツマミにそんな話をした。
「そうだな。隆太は間違っていないかもしれないけど、世の中ってのはそんな綺麗事ばかりじゃない、理不尽なことや不条理で埋め尽くされてるんだよ。けど、左遷させちまった警官のことをきちんと確認しなかった、お前も悪いよ。ヤクザだって人間だ、そいつをなんとか助けてあげようとしていた警官のほうが、よっぽど人間らしいし、一番気の毒な結果になったけどな」
社長は、犬の頭をずうっと愛おしそうに撫でていた。
「ガキがやるイジメなんてのは、社会に出ても蔓延してる。虐めてた奴らは罪に問われることも、罰を受けることもなく大人になっちまうんだからな。被害者だけが辛く苦しい想いを抱えて生きていかなきゃならない」
九丈社長に撫でられてる犬は、気持ちいいのか腹をみせて寝転がった。
「病気なんだよ、虐める側の奴らがね」
「……びょうき、ですか」
「そんな病気のことなんて考えてもいない、医者でもない、ただ教員免許を持ってるだけ、ただの地方公務員の学校の先生が、どう対処できるっていうんだよ。このクラスでイジメをしている奴は手を挙げろ、なァんて言われて素直に僕がやってますなんていうガキがいるのか? それはそれで病気だろうけど」
「けど、社長みたいな、それこそ先生がイジメっ子にバシッて言ってくれれば、」
「それ、最悪な。先生にチクったら、イジメはエスカレートする」社長は、鋭い目つきでわのことを見た。「イジメが人間の本質だとも、俺は思わない。なぜなら、そんなくだらないことをしていない人のほうが多いからな。欧米あたりじゃ最近、ガキだろうと処罰の対象になるみたいでな。人を傷つける犯罪行為だ、刑務所にぶち込めなくても、病気の認定をして隔離施設かなんかに閉じ込めておいたらいい」
被害者が不登校になったり、追い詰められて自殺してしまうのはあまりにも理不尽だ。なぜ虐められてる側が逃げなければいけないのか、今まであまり考えてはいなかった。
「そんな病気の奴が大人になって、急に見違えるよう変わると思うか? 今度は本当に人を殺して心神耗弱状態だったと病気を盾に言い張れば、無罪になるんだ。そんな奴を野放しにするなら、病院に縛りつけておくほうが、よっぽど治安は良くなるんじゃないかな。あくまで俺の意見だけどな」
「確かに、そうかもしんねえです」
「隆太、お前ならできるはずだよ」
「……はい」
何のことを言ってるのか、すぐには理解できず、曖昧に頷いてみせた。
「出来ない、勇気もないなら、お前も病気だよ。お前の正義は見せかけ、正行と同じ、ただの偽善だ」
犬を撫でていた九丈社長の手の平が黒くなっていた。眉毛を書いた油性マジックが落ちたものだと、すぐに分かった。 それでもわは何も言えなかった。気付かないふりをして、その場は黙っていた。
次の日、社長は出張に犬を連れて北見へ向かった。犬の餌やケージ、おもちゃが全てなくなっていた。その一か月後、社長も会社からいなくなった。
あのワンコは、まだ元気なんかな。九丈社長も、どっかで元気にやってんのかな。
やっぱし、あの時、九丈社長についてけば、こんなことにならなかったのかもしんねえな。なんも見えねえ、なんも聴こえねえ、なんも楽しいことはねえ。ただ飯食って、ただクソして小便して、ただ寝ての繰り返しだもんな。地下アイドルのライヴもコロナでほとんど中止って、つまんねえよな。
六籐が社長になった途端、会社はめちゃくちゃになった。
それまで頑張ってくれたアルバイト従業員を全て解雇し、ベトナムからの出稼ぎ研修実習生に入れ替えた。言葉は通じない、文化は違う、コミュニケーションはとれない、戸惑ってる暇はなく、半年で違う研修生と入れ替わる。真面目な人ばかりだったが、現場は大変だった。月に一度は必ずやっていた親睦会もやらず、社員同士の飲み会もなくなった。
わの給料は一向に上がらなかった。九丈社長と暮らしていた事務所兼住宅では、家賃も免除してくれていたのに、いきなり事務所を移転された。追い出されるような形で、アパートを借りて一人暮らしを余儀なくされる。家賃分が急な負担になった。九丈社長は食費代として一万円だけ徴収して、毎日飯を作ってくれた。完全自炊することになり、やったこともない料理をしなければらならなくなった。
反比例して、四葉書店の店舗は増え、有限会社クルーズはその都度清掃業務を任され会社は潤っているはずなのに、わの給与は一円も上がらなかった。
「お前の仕事量なんて変わってねえだろ。歳重ねたら給料あがるなんて考えてたら大間違いだ。誰が一番大変だと思ってんだ、俺だぞ、社長の、お、れ」
もっともだとは思いながらも、もうすぐ三〇歳になるのに手取りで十三万、光熱費や諸経費、娘への養育費を引いたら、手元には三万ほどしか残らなかった。必然、楽しみだった晩酌もタバコも辞めた。給料日前には、白米をお湯でふやかし塩をかけて食べていた。
なんの為に働いてるのか分からなかった。何のために、この会社にいるのかも。突き詰めれば、なんの為に生きているのかも分からなくなった。
カネのためではないけれど、カネがなければ暮らしていけない。どんなにイジられても、カネを稼がなきゃならないから、ここにいた。わは特別な資格を持ってる訳でもねえ、道産子でもねえ、やりたいことがある訳でもねえけど、お金がなければ生活できない。
けども、さすがにもう限界だった。
限界なんてとっくの昔に越えていたけど、社畜になって、どこか麻痺していた。ガスみたいなものは、わの中でどんどん溜まっていく一方で、どこにも吐き出せず胸糞はパンパンになって爆発した。
頭の中も目の前も真っ白になって、無防備に突っ立っていた六籐を背負い投げしてやった。そのまま抑え込んで、絞め落としてやろうかとも思ったけど、それは辞めた。わを睨みつけながら六籐は、どこかに電話していた。
「今までありがとうございました、なんて言わねっかんな。このバカチンが」
少しだけ、胸につかえていたものが落ちた気がして、スカッとした。一瞬だったけど、スッキリした。
その日の晩、部屋に突然ズカズカと土足でボディビルみたいに屈強な男たち五人組が侵入してきた。全員、焦げ茶色になるほど日焼けしていた。
「写真より、かわいいじゃねえか。たっぷり可愛がってやるからよ」
ボコボコに殴られ蹴られた、手足を押さえつけられ、口の中に履き古した臭い靴下を突っ込まれ、衣服を無理やり剥がされ、肛門を強引に犯された。何度も、何度も、何人も入れ替わり立ち替わり、切れて血が出ても、意識が飛んでも、糞尿まみれになっても。
気づいたら、朝になっていた。
部屋はひどく荒らされていて、空になった財布が転がり、テレビと古いラジオ付きのCDプレイヤーがなくなっていた。 九丈社長から卒業祝いで貰った泥のついた一万円札もなくなっている。かろうじて、スマホは残っていた。LINEに未読のマークが一件、赤くついていた。わの血だらけになったケツに、イチモツが突っ込まれてる画像、六籐からだった。
そうだ、もう辞めたから、仕事も行かなくていいんだ。あったら奴の顔も見ることねえんだった。そのまま意識を失った。
あァ、思い出したくもねえ!
あれから、切れ痔になってしまって治らない。こんなことだったら、六籐の野郎ば締め落としてやっとけばよかったな。あの野郎、今に見てろ。おめよりも金持ちのなんとか姉妹だかってのと結婚するか、ヲタ芸の生配信ユーチューバーかチックラトッカーにでもなって見返してやっかんな。
それにしても、病院にかかるカネもねえ、はァ、テレビもねえ、ラジオもねえ、クルマも売っちまってねえ。わは、こんな生活イヤだァ、しばらくの間はと思い、安いボロアパートに引っ越しをして生活保護を受けることにした。
それが五年続いた。一度自堕落な生活になると、ぬるま湯から抜け出せなくなった。
またあくせく働いて稼ぐのはバカバカしい、就職口を探しに行くより更新手続きに行くほうがいい、贅沢なんかしてねえし、みんなやってることだ、自分を正当化していた。元嫁からも毎月LINEで『養育費はどうしたんだ、クソやろう!』と届くが、既読無視している、みんなやってることだ、知らね。
日も暮れ、辺りは暗く、街灯やコンビニの照明が眩しくなる。いつものパチンコ屋の帰り道、ボロボロの自転車で九パーセントの酎ハイを飲みながら、鼻唄交じりでペダルを漕いでいた。ボロアパートの駐輪場にチャリンコを停めると、
「お前は、神を信じるか」
薄暗い駐車場に停まっていた真っ黒の新型スカイラインから、白いヘルメットを被り、防弾ベストを着用した警察官が降りてきた。不思議に思ったのは、防塵のガスマスクをつけていた。
「三崎だな、逮捕する」
心臓が跳ねあがった。
警官は、なにやら逮捕令状を目の前に差し出す。「生活保護の不正受給と、動物愛護法違反、それとマスク着用義務違反。車に乗れ」
確かに、生活保護を受給しながらパチンコはしてる。働こうとは思ってるけど、思っただけ。確かに昔、親戚の白い北海道犬を蹴っ飛ばしたし、九丈社長の黒い犬に眉毛を書いて、餌をやらんかった。悪いとは思ったけど、一瞬思っただけ。確かに、コロナ禍でマスクは必需品みたいになったから、アベノマスクを何度も水洗いして使ってる。いつの間にか、キイロノマスクになっちまったけど。感染対策になってるのかしらんけど。
けども、そんなんで逮捕されるのか?
「後ろ向け、手錠をかける」
腕をとられ、捻じられる。「ちょッ、ちょっと待ってください!」
「抵抗するな」
後ろ手になったまま、前へ倒される。夜のひんやりした地べたに膝をついたが、更に身体をねじ伏せられた。そのまま素早く両腕をとられ、手錠をかけられた。「午後八時三十三分、三崎隆太、確保」背中に乗られた状態で、警官は呟く。「自分がやらかしたことは、忘れんじゃねえよ。神様にでも祈りな」
「ちょ、逮捕状を、もっかい見してくれや!」
「ほら」
首を捻じると、左目に何かをかけられた。
思わず、目を閉じて叫ぼうとすると、髪を掴まれ顎があがり、上体がのけ反る。瞑った右目にも液体のようなものを流し込まれる。
「な、なんだ? 痛えッ」
「どうせ、その目は節穴だ、必要ねえだろ」
それから瞼が開かない。
「黙ってろ」
耳元で呟いた警官は、首筋に冷たい金属を押しつけてきた。直後、頭をバットで殴られたような衝撃に動けなくなる。バリッという電気がショートするような音だった。きっと、スタンガンを食らった。これで失神することはないんだな、映画は嘘ばっかだ、身体がひどく痺れて動かなくなるんだ、声も出ねえ、悠長なことを思った途端、もう一発食らった。息も止まるほどだった。
こいつは、警察官なんかじゃねえ。
六籐だ、あいつの仕業に違いねえ。またしても、やってきたに違いねえべ! 気付いたところで、もう遅い。五年も経ってるべ、どんだけしつこいんだ! 待てよ、なんで動物愛護法違反なんだ? さては、やっぱす元嫁の親族か! いやいや、生活保護の不正受給で逮捕なんかされるのか? マスクすんのって義務だったか? いや、おめのマスクは大げさ過ぎるべ。いいや、こったらことすんのは、六籐しかいねえべ!
服の襟首部分と背中側のベルトを持たれ、引きずりながら、車の中に放り込まれた。
耳の穴に何かを捻じ込まれ、しゃっこい液体を流し込まれる。それから、自分の声ぐらいしか聴こえない。ただ、何をされたかは分かった。瞬間接着剤だ。暗闇、無音、叫びたくても身体が痺れて動かない。どうすることもできなかった。
それから、どこかへ連れていかれた。車の中では三分おきくらい、身体の痺れが和らいだ時にスタンガンを食らう。まったく抵抗できなかった。小便も漏らしてしまった。
口を強引に開けられ、舌を冷たい器具で引っ張られて、顎を蹴られた。ドンッと脳天に爆弾が落ちてきたような衝撃に、わは完全に失神した。
気がつくと、下半身の衣服は剥ぎとられ、便器に座らされているようだった。激痛の舌は短くなったが、雑に縫合されて血も止まっていた。両足の甲が、焼けるように痛い。後ろ手にされていて、立ち上がろうにも太ももが便座にくっついて離れない。
身体の前にテーブルがあり、そこへ身体を突っ伏して預けることはできる。顔の前に嗅いだことのある匂いがした。決して湯気の立つ温かで美味しい匂いではない、ドッグフード独特の油の匂いだった。これ、食えってのか! 六籐の野郎、許せない。
腹が減って限界だったからドッグフードでも食った。
すると、切られた舌と両足の痛みがすうっと消えていき、ある意味で気持ちよくなった。トイレに座ってるんだから、用を足すのも不便はなかった。何日かして気がついたのは、背中の手が届くタンクのところに、ウォシュレットのボタンがついていたから、意外に清潔でいられた。お尻だけ。
それから、わは、ずうっとここに居る。
なんもすることは、ね。飯食って、小便して、寝て、起きて、ドッグフード食って、クソして、寝る。その繰り返し。
青森のおどとおがは、元気だべかなァ。
おどとは、よく朝早く山行ってクワガタば捕りに行ったな。今じゃ、ホームセンターでトンカチの横で売ってるんだとよ。なんでもカネだと、やんなるな。
おがの作った温っけえ飯が食いてえな。熱々の白米に、味のしみた煮物、なによりおがの作った味噌汁が飲みてえな。けんちん汁でもいいな。
なんだか、寂しいな。なんだか、すんげえ会いたいな。
読んでいただき、ありがとうございます!