暗雲
三月三十日 午後一時
「そうだ、お昼にしましょう。ここは私がごちそうするので」
任意聴取の場合は、捜査員の自腹だ。大抵の重要参考人は、カツ丼を頼むことが多い。刑事ドラマの影響なのか。
「では、お言葉に甘えて、特上の寿司でお願いします」
「……え?」
九丈は私をからかったのか、ころころと笑い声をあげ、「冗談ですよ、カツ丼をお願いできますか? 一度はこんな環境で食べてみたかったので」
パイプ椅子から立ち上がり、九丈をそのまま残して、取調室を出る。
大きく背筋を伸ばしてから、デスクのスマホから二階堂の面会に出向いた十倉に連絡を入れた。呼び出し音は二回ほどで、『十倉です』
スーツの胸ポケットに入れている二つ折りの財布を取り出した。
「あァ、すまんな。どうだった、そっちは」
『どうもこうも、話が訊けるような状態じゃありません。寝たきりの植物状態でして』
「そうか、容体は変わらずということか」
二階堂は、四葉書店爆破事件の際に現場責任者として就業していた唯一の人物だった。
火災発生現場へ駆けつけた消防隊員が、施設トイレ内で倒れている二階堂を発見したが、ショック症状の錯乱状態で手のつけようがない様子だったという。火災による火傷は軽症だったが、緊急搬送され、そのまま何も語れない状況が続いていた。先月、本人の身寄りがある北見市へ転院してきても、病状は変わらず。私が確認している。
「署に戻るついでで申し訳ないんだが」
特上の寿司を一人前ずつ、三つの折りに分けて、あァ、お前の分もだよ、昼食に寿司なんて贅沢だろ? あァ、遠慮するな、お前の分もだ、と思い、財布を覗いてみると千円札一枚しか入っていなく、「……ほら、あのいつもの安い弁当屋で、カツ丼を三つ、いや、ひとつはカツ丼のハーフをカツ抜きで、いや、この際ライスも抜いてくれ、いや消費税があるし、そうだ、去年の日照不足が影響して玉ねぎも高騰しているから、いらないかな?」
我が家の小遣い制度を侮ってしまった。まさかの千円足らずとは。
『それじゃ、ひとつは溶き卵半分だけになっちまいますよ』
「……あァ、なら、この際、生卵ひとつでいいよ。あんまり、お腹も減ってないし、栄養もあるしね」
ひどく苦しい言い訳になってしまった。
『カツ丼三つでいいっすか? 別にそんなとこで見栄張ることないでしょ。うちは共働きなんで、手持ちもありますから。お気持ちだけいただきますよ』
顔に熱を帯びた。気恥ずかしさに、財布をすぐさまポケットに戻す。
「そ、そうか、すまんな。貸しにしといてくれ」
『二十分後には戻ります』
十倉は、通話を切った。
おのれ、全国かかあ天下協会め。この歳になっても、まだ私に恥をかかせるつもりか。こうなったら全日本尻に敷かれる旦那組合の私が先頭になって、労使交渉だ! 小遣いを上げろ、ストライキも辞さないぞ、愛だの恋だのは薄れゆき、夜はめっきりだが、情と絆は増す献身した継続年数を考慮せよ!
断固立ち上がらなければならない、私の決意は揺るがない、以上。
なに? 全国かかあ天下協会の理事長であるうちのかみさんからも反論がある? そんなに言うならもっと稼いでこい? 抜け毛と加齢臭をなんとかしろ? たまにはハチも一緒にどこかへ連れていけだと?
さて、食事が届くまで、九丈から雑談でもして情報を引き出すとしますか。
取調室に入ると、九丈は耳にかけている補聴器の位置を気にしていた。
昔は、突発性難聴なんていう病気は聞いたことがなかったような気がする。私自身、無頓着で既にあったかもしれないが、医学の進歩で判明する病名の多様化と、寿命が年々延びたことにも起因しているよう思える。
パンデミックを起こしたコロナウィルスが、いい例だ。
新種の感染症は、未だ特効薬や治療薬ができない。ウィルスは増殖し、コピーを続ける際にエラーを起こす。それが変異株となって、人々に感染していく。その繰り返しで、ウィルス自身が進化し、人間に襲い掛かってくるのだ。
こんな状況下におかれると、誰が想像しただろう。
マスクは必需品になり、表情さえ見えず、人との接触は極端に減る希薄な関係になった。
政府や自治体は密になるという曖昧な理由だけで飲食店のみの援助しかせず、本当に収入が落ち込む業者、労働者は廃業や失業に追い込まれ、生活が困窮した人々は自殺を選択する。目には見えない負のスパイラルが、世の中に渦巻いている。
こんな世界に誰がしたんだ、どこかに怒りをぶつけようにも意味のない空虚な状況が二年以上も続く。
「先日、一緒に暮らしていた家族が虹の橋を渡ったんです」
パイプ椅子に腰かけるとすぐ、九丈は話しかけてきた。顔を覗けば、曇った表情に目元が赤くなっている。どこか儚げに思えたが、
「ほう、どこにあるんですか、その虹の橋とやらは。なんだか楽しそうなアトラクションですね」
「天国の手前にあります」
思わず、目を見開いた。「……亡くなったということですか?」
「ええ、めんこい黒のラブラドールレトリバーなんですが」
「あ、あァ、犬ですか」
少しだけ胸を撫でおろした。
眉をしかめた九丈は、「ちょっと待ってください、どういうことですか? 犬なら安心したってことですか?」敵意を含む憤った口調で訝しむ。
「いえいえ、そういう意味では、悪い意味で捉えないでください。私はてっきり、」両手を顔の前で振り、強く否定する。
「十三歳になったばかりでした。盲導犬や介助犬としても活躍する大型犬ですから、寿命だったのかもしれませんが。最後は必ず別れが来ます。分かってはいたつもりでしたが、いざそうなってしまうと耐え難く、涙しかでてきません」
ペットロスは、人として自然の正常な感情反応だ。
長年共に暮らした家族を失う悲しみにうちひしがれ、後悔で落ち込み、精神的にも身体的にも影響がでるほどだという。気持ちの整理がつくまでには月日が流れていくのを待たなければならないというのも、酷なことだが。
「……そうですか。それは大変でしたね」一呼吸、間をあけて、「実は、私も犬を飼っていましてね、うちのかみさんが好きなもので」
「待ってください、刑事さんは嫌いなんですか?」
「いえ、そんなことありませんが、外犬の番犬みたいなもので、柴犬なんですが。私はどちらかといえば、猫派でして、どちらかといえば聖子ちゃん派というより明菜派で―――」
懸命に取り繕うが、うまく言えない。自分でも言い訳がましいと思う。
「は、外で?」九丈は、さらに追い打ちをかけてくる。「この氷点下になる北海道で鎖につないで、外で飼ってらっしゃるんですか?」
「え、ええ。それが、なにか?」
それは有り得ない、と云わんばかりに九丈はため息をつきながら、首を振る。
「それでは、まるで虐待です。奥さんに首輪をつけられて、外で暮らせって言われたら、刑事さんはどうしますか?」
それは、全日本尻に敷かれる旦那組合員としては、致し方ないことだと心得ておりますが。さすがに、全国かかあ天下協会もそこまではしないでしょう。全日本ドM組合員の私にとっては、願ったり叶ったりだったりもしますが。
「言葉は人間と話せなくたって家族です、命ですよ。心はある、コミュニケーションで分かり合えます。人間同士だって、口は災いの元なんていって揉め事は絶えない、『口八丁手八丁』なんてことわざもあるくらいで。言葉なんて実のところ、必要ないかもしれません」
「い、いや、その言葉尻をとらえて、揚げ足をとられても」
どうにも、見透かされているようで、恥ずかしい気持ちになる。
「刑事さんがいなければ、死ぬんです。生きてるんですよ、かけがえのない命なんです。犬だろうと、猫だろうと、百恵ちゃんだろうと関係ありません」
「そ、そうですよね。ですが、無駄吠えも多くて」
「無駄吠えをするなら、尚更ご近所に迷惑じゃないですか。それは寂しくて泣いてるんですよ」
もう、たじたじだ。耳まで熱い。
「ごもっともです。き、今日から、また家の中で飼おうっかなァ」
九丈は鼻をすすりながら、鋭い目を向けてくる。
「飼う、なんていうのも上から目線の発言で、人間様の自分勝手なマウントをとった言い分です。で、その子はなんていう名前なんですか?」
「あ、ええ、ハチといいます」
「かわいい名前じゃないですか。毎日撫でてあげて、目一杯可愛がってくださいよ。必ず別れが来る、看取ってあげるその日まで」
「……ええ、そうですね」
顔が引きつり、苦笑いしか浮かべることが出来なかった。地肌ばかりになった薄い頭を掻いた。
価値観は違ったが、納得することばかりだった。年下に説教されたとは感じない、自分の凝り固まった偏見はよくないな、そう素直に思った。ハチの愛らしく尻尾を振る姿が、目に浮かんだ。
「今でも会いたくて、触れたくて、心が押しつぶされそうになります。ですが、もうそれは叶いません。たとえ僕が死んだとしても、天国で会うこともできません」
九丈は、悪い奴じゃない。むしろ、犬の死を心の底から悲しめる優しさや、同郷で食うのにも困っていた後輩を救ってあげた面倒見の良さ、ひたむきに仕事と向き合う真摯さ。
短時間ではあるが、私にはそう思えた。
「きっと、会えますよ」
慰めに心を撫でるようフォローしたつもりだったが、九丈の様子は違った。
「いいえ、会えません。なぜなら、僕も含めて、人間は全て地獄に堕ちてしまうからです」
「じごく、ですか……」
急に空気が変わった。冷たくひんやりとした風が、密室の取調室なのに吹いてきたよう、首筋をさっと撫でていくような、そんな気がした。
ええ、と九丈は真剣な目つきで私を見据えた。「虫を殺生しただけで地獄へ堕ちるんです。嘘をつくだけでも、飲酒だってそうです。罪を犯せば、必ず罰が当たる、当たり前のことです」
「古くからの言い伝えですね」私も他人事とはとらえず、真剣に返す。「まァ、そういう戒めや自制が人間には必要だということじゃないですかね」
「実際、そんなことを常日頃から考えてる人がいるんですかね? いないから犯罪がはびこる、地獄なんてある訳ない、そう思ってる。聖人君子、品行方正で清廉潔白であろうとするのは、それはとても難しいことです、虫も殺せないんですから。人間が考えた法律は、抜け穴だらけで甘すぎるんですよ」
「法の処罰を、厳罰化すべきだ、と?」
こくりと頷いた九丈は、「それは必要だと思います。人間が作った法律です、いいえ、政治家があくびをしながら何も考えず決まるような、生ぬるい法案です。人権を盾に加害者はぬくぬくと税金で温かな刑務所で刑期を満了しようと、被害者は苦しみと悲しみに暮れ、一生忘れられない生傷を負う、その救済措置すらない」
現状の法律は、些か時代にそぐわないものが多い。
危険運転による法にしても、ストーカー事件による死傷事件にしても、最近ではSNS等による誹謗中傷を浴びせる指殺人、学校でのイジメによる自殺は少年法や陰湿化することによって警察は介入できない。事件が起きてから、凶悪化してからの議論になる。時代に追いついていないというのが本当なのだろうが。
いいや、見てみないふり。自分は被害者ではない、自分はそうならない、なる訳がないという正常性バイアス。所詮、対岸の火事であって、他人事なのか。
静かに、私は首を横に振った。
「罪相応の罰が受けられないなら、その罪と向き合い禊や懺悔すらできない人は、地獄へ堕ちます。神はサイコロなど振りません、必ず、神の裁きに遭います」
話が飛躍して、どこか宗教じみた概念的な問題になってきた。
「そうだ、昔、カトリック教徒の説教に使われていたものに、七元徳というものがあったそうです。七つの徳目とも呼ばれています」
「……説教」
九丈は信仰心が強いのか、それとも。
私たち警察にとって科学的根拠のないものは、立証に値しない。なぜなら、事件を起こすのは人、人を殺すのは人間、死体損壊に於いては紛れもなく物理的な痕跡はあるからだ。
呪いや霊障など証拠とするには、あまりにも困難。そのようなものは存在すら危うい、ならば指紋のひとつでも探せ、そう教育されている。個人的な信仰はそれぞれで構わない、だが仕事に関してはいかなる私情も挟んではならない。
殺人事件全般には理由があり、なんらかの動機が存在するものだ。理性では抑えきれない、人を殺してしまうほどの強い感情。
「知恵、勇気、節制、正義、信仰、希望、愛の七つです。これを積めば、人生はより豊かになる、そんな説教、説法だろうと思います。欲の長けた、業が深い人間には中々難しいことです」
「ふむ、奥が深いですな」感心をよそに、
「どうも引っかかるんです」
九丈は俯きながら、一度だけ顎を振った。「なにかをしようとしている、いえ、なにかを企んでる、何かに似ている? どうにも繋がりがあるような気がしてならないんですよ」
「……つながり、ですか?」
「僕が小説を書いているからかもしれません。すぐに辻褄を合わせてストーリーを作りたがる癖みたいのがあるんです。けれど、なんだろう? 何かを模倣して、どこかメッセージ性があるような気がするなァ」
眉をしかめ、何かを探しているかのよう視線をあちこちに飛ばしていた。
九丈は、「差支えない限りで構いません。爆破事件というのは、その、どういう状況だったんですか? ダイナマイトでも仕掛けられていたんですかね」
「ご存じではない、と?」カマをかけてみる。
「当たり前じゃないですか、だから訊いてるんです」
そうですか、ほんの少しだけ躊躇ったが、「三年前、五年ほど前と二度に渡って四葉書店には爆破予告の電話がかかってきたことがあるそうです」
威力業務妨害で逮捕されたのは、四葉書店に勤務していた元パート従業員の主婦だった。
へえ、と声をあげ、「従業員にまで恨まれるような会社だったとは驚きです」
「花火をバラして作った、爆弾には到底及ばない簡素なものでしたが、実際に建物の一部を焼いたそうで。被疑者は精神鑑定の結果を経て、実刑は免れましたが、執行猶予五年の保護観察がついたようで」
「本当にやるなら爆破予告なんてしませんよ。威嚇や脅しは相手に恐怖を与えるには効果的ですが、真の恐怖には到底及びません」
「と、いうのは?」
「死です。誰もに訪れる死は、恐怖の対象でしかありません。本当に恐怖を与えるためには、死をちらつかせること。裏を返せば、殺さないことです」
死んでしまえば、恐怖を感じることもないだろう。生きている者が経験していない、誰しもに最後は必ず訪れる、死。それが恐怖の対象ということは理解できる。死を経験して、それを伝える術は今のところないのだから。
「すると、今回はでっかい打ち上げ花火でも仕掛けられていたんですか?」
「いえ、ここだけの話にしてもらえれば」九丈にあまり情報を流してしまうのは、一瞬だけ躊躇う。「……地下駐車場で、自動車を爆破させたんです」
反応を見るだけでも価値はあるだろう、私はそう思った。
「車に爆弾が仕掛けられていたんですか?」
九丈は眉をひそめ、訝しんだ。
「いいえ。に、ではなく、を、です」
更に眉根をしかめ、首を傾げた。視線をあちこちに動かし、何かを考え込んでいる様子に思えた。本当に知らないのではないか、私にはそう映った。
「車そのもの、二階堂の自家用車自体を爆弾にみたて使ったんです」
「クルマ? どういうことですか、それ」
「トーチバーナーというのをご存じですか? カセットボンベに着用する簡易式のバーナーです。勢いのある炎を噴出できますから、キャンプや焼き肉などの焚き付けで炭をおこすにも、調理で食材を一気に炙るにも適した道具です」
それでも九丈は首を傾げ、眉を下げたままだった。
「焼け焦げた車両の傍に、粘土が付着したトーチバーナーが見つかりました。おそらく犯人は、二階堂の車両下にあるガソリンタンクに向けて、炎の噴射するトーチバーナーを設置したという見解です。転がらないよう、粘土で固定させる細工があったようです」
急に九丈は前のめりになり、キラキラとした目を向けた。「凄い! 小説に使えそうじゃないですか」
人の不幸をネタにするかのような不謹慎さに一度、咳払いをして、「熱せられた鉄は、何十リットルもの揮発性の高いガソリンに引火して、車両もろごと爆発、炎上したものだと。地下駐車場だったもので、消化にはかなりの時間がかかり、今でも現場となった四葉書店の手稲支店は営業できていない状況が続くほど、被害は大きい」
でも、と九丈はなにかを思いついたのか、「それなら、二階堂が自分の車を爆破した犯人という自作自演は考えられないんですか?」
「事情を聴くにも、今はちょっと無理なんです」
病院で寝たきりの状態とは言わなかった。九丈も二階堂に対して関心はないのか、
「それこそ、防犯カメラの映像とかは? 警察二十四時なんてテレビじゃ、必ず犯人を追い詰めます。今は監視カメラだらけで、悪いことなんて早々できない時代ですよ。それに車のドラレコだって普及しています」
「店舗の防犯カメラの映像はタイマー式になっていまして、朝五時からの開始、営業時間を経て深夜十二時に切れるようになっていました。ちょうど一ノ瀬の窃盗は、その時間内ということが分かっています。ですが、爆破事件に関しては、カメラの稼働前ということで映像は残っておりませんでした。二階堂の車両に搭載されていたドライヴレコーダーは丸焦げになった状態でしたが、」
「丸焦げで、SDカードも焼け落ちていた?」
いえ、「なんとか修復はできたのですが、後付けのタイプでして。エンジンを起動しなければ稼働せず、車両が完全に停止した状態の時を狙われたと思われます」
「それでも、その爆破事件の犯人に目星はついているとおっしゃってましたが」
私はそこで一呼吸入れ、スーツの裾を引っ張った。
「器物損壊と威力業務妨害、一ノ瀬の殺害にも関与しているであろう人物。あなたが去った数年後に、有限会社クルーズを辞めて、生活保護を受給していた三崎です」
「りゅうた、が?」
九丈は、驚きを隠さなかった。ピクッと瞼が一度だけ痙攣したよう見えた。
「爆破事件の際、トイレで倒れている二階堂の足元には一ノ瀬の頭部が入ったボストンバッグがありました。そこに付着する指紋は、三崎のものだったんですよ。三崎は未だ行方が分かっていません。それに、」
あえて間を置いた。「三崎は、あなたの会社に入社する前は、道警の警察官でした」
「ええ。だって、大学生の頃からアルバイトしてもらってましたから、知ってます」
素っ気なく、九丈は応えた。「そこまで分かってるなら、僕は関係ないじゃないですか」九丈は鼻を膨らませ、憤慨している様子だった。「早く三崎隆太を確保して、本人に話を訊いてくださいよ」
それが出来るなら、とうの昔にやっている。
ノックの音がすると同時に、十倉が取調室に戻ってきた。
「係長、道警本部の佐間瀬課長から、8番に電話です」
「ちょっと、失礼」
九丈に声を掛け、刑事部屋の電話を受ける。
佐間瀬は、同期で同じ年の六十歳。熱血漢で無二の友人だが、どこか破天荒なのかやり過ぎるところ、いき過ぎたところがある。空気を読まないといえば、それまでだが。
警察官になろうとしたきっかけも、テレビドラマの影響だと言っていた。
その志だけで刑事になったというのも驚きだが、殺人や放火などの凶悪犯罪を扱う刑事部一課に刑事として初めて配属された日。伸びかけていた髪にパーマをかけるも、「ここはマル暴じゃねえんだ、パンチなんかかけてくんじゃねえ!」上司に怒鳴られ、私服勤務をいいことに白のGジャンに白ジーンズを合わせて穿いていくと、「パンタロンって何すか、目立ちすぎっすよ。ナンバーワンホストじゃないんすから」キャリア組の年下に笑われたが、「自分、これで殉職するなら本望です」そう言い放ち、強盗の容疑がかかった被疑者宅を下見に行く途中で、下着泥棒を現行犯逮捕したのは道警で伝説になりつつある。
「零瀬です」
『九丈を緊急逮捕しろ』
電話の向こう側が騒々しく感じた。周りの人々がせわしなく動き回り、どこか色めきだっている。『中の島地区の住居から、とんでもないものがでてきた!』佐間瀬は、興奮気味に声を上ずらせた。
「まさか、一ノ瀬の遺体か?」
『いいや、三崎隆太だ。一ノ瀬の頭部やボストンバッグから多数の指紋が検出された、三崎本人がいた』
な、なんだって?
「まさか、遺体となって?」
『いいや、生きていた。監禁されていたんだ』
生存していたということよりも、何故、生かしておいたのかという点がすぐ気になった。
真の犯人は、別にいる。
思わず、取調室に向き直った。
『内部事情にも詳しい元社長の九丈だ。責任は、私がとる。逮捕令状を請求して、そのまま話を訊いてくれ。それと、零瀬』
「……なんだ?」
『悩みがあるなら、俺にだけは話せ。役に立てるかどうかも分からんが、聞くことだけはできる』
「……あァ、ありがとう。また連絡する」
最重要人物を生きて確保し、捜査に進展が見込めるということよりも、真っ黒な雨雲に空を覆いつくされたような不安と疑心を感じた。
読んでいただき、ありがとうございます!