嫌疑
三月三〇日 正午過ぎ
「ご冗談は、ほどほどにしてもらえますか? 九丈さん」
照れ隠しなのか、頭をぽりぽりと搔きながら、「いや、なんかこういうのって緊張しちゃって。悪気はないんです、神に誓って」九丈は、子供のように笑った。
おのれ、九丈め。
さては、全国厨二病こどおじ協会にでも属しているのか? 大人をからかいおって、神に誓うなどと聞いたのは子供の時以来、五〇年前だ、髪も金髪になんかにしおって、全日本毛生え薬渇望組合の私からすれば不謹慎甚だしい、けしからん!
私は気を取り直し、咳払いで喉を整えた。
九丈さん、今あなたには殺人と爆破事件の嫌疑がかかっている。会社を追われるような事象が起き、それを逆恨みした犯行と思われても仕方ない、あなたにとってそれほどのことが起きた、動機には充分だ、一ノ瀬の遺体の一部が出てきた場所は取引先で爆破現場となった四葉書店、一ノ瀬の最終就業歴はあなたが社長を務めていた有限会社クルーズ、爆破事件を起こした犯人も、一ノ瀬を殺害した人物も特定できていない状況。警察としては、ここに関連性があるのではないか。未だ、首から下の胴体は発見されていない。爆破事件の容疑者も行方をくらましている。
一連の事件を一括りにして関連づけるとするなら、よほどの怨恨がある、紐を手繰り寄せるとするなら九丈の動機はしっくりとくる。
「一ノ瀬は、北見出身でしてね、強姦や強制性交の常習者でして、札幌の所轄からも情報共有を依頼されている人物でした」
「ええ、知っています」
顔色も変えず九丈は、ケロッとして応える。「英雄色を好むなんていわれますけど、欲望をコントロールできないような人は、ただの獣です。色欲だなんて、地獄に堕ちますよ」
「……ほう、知っていたんですか?」
眼鏡をあげ、ボールペンを握り直した。
「知り合いの娘さんが被害に遭ってしまい、心を病み亡くなってしまったんです」
「亡くなった? そのお方は、こっちに、北見にお住まいの、なんと」いうお名前ですか、と聞きたいところだったが、
「それは言えません」
語気も強まり、かなり食い気味で拒絶される。それ以上の深堀り、心をえぐる想いはさすがに任意の聴取だ、出来ない。重要な証言になりえるかもしれないが、よほど親密な関係者であることは察する、九丈は俯いたまま首を振った。
「では、前科があることを知っていて、一ノ瀬を会社に入社させたのですか?」
「いいえ」顔をあげ、背筋を伸ばした。「もし当時に知っているなら、会社で雇うことなどしませんし、とっくに殺してます」
ほう。
殺意をほのめかす発言だ、私の猜疑心は増し、ぐっと色が濃くなったよう感じた。けれども、輪郭はぼやけたまま。
「些か物騒な物言いですが、お気持ちはお察しします」一度、咳をして喉を鳴らし、「では、どういった経緯で一ノ瀬は有限会社クルーズに入社されたのですか? 職安か就職情報誌を見た一ノ瀬自ら応募してきたのですか」
「いいえ」
九丈は眉根をよせ、目に鋭さが宿った。「当時、人事を任せていた六籐が連れてきました」
「ふむ。現社長に就任している、六籐正行ですね」
捜査本部からの資料によれば、有限会社クルーズの現代表取締役社長は六藤正行。
九丈とは幼なじみの縁で中途入社、九丈よりは二つほど年下の四十八歳。住所は札幌市になっていたが、四葉書店が出店している各店舗近郊に出張所として事務所を構え、飛び回っているという。クルーズの本社は、九丈が在籍時同様、北見市に置いていたが、当時の本社事務所からは移転して、会長である五十嵐の築五十年以上は経過しているであろう一戸建ての住居を拠点にしていた。
取調室にノックの音がして、十倉が戻ってくる。パイプ椅子に腰かけた。
「罰を与え、裁きを下すのは神様ですから」
唐突に、九丈はそう言った。
「……罰、裁き、神、ですか」
眉に力が入り私は、独り言のよう小さな声で呟いた。
「もう過去のことですから、ずるずる引きずって生きていても仕方ありません。ですが、恨んでいないかと言われれば、それは嘘になります。可愛さ余って憎さ百倍なんて言葉ありますけど、僕が酷い仕打ちを受ける筋合いはありませんから」
聞き捨てならない発言が飛び出した。
「やはり今でも、一〇年経った今でも、辞任されたことを後悔されている、と?」
「もし甘い蜜が欲しいなら正々堂々と別会社を一から起業すればいいだけ、正々堂々と勝負すればいい。もちろん、どんなに頑張り努力したって四回転アクセルを飛ぶことは誰にだってできることじゃない、実らぬ成果、報われないことのほうが多い。人生が自分の思うようになる人なんて、きっとごくわずかです」
九丈の言い分は、もっともだ。飼い犬に手を嚙まれる痛み、熱のようなものを感じた。
「聖書には、こんなことが書いてあります。『自分で復讐してはいけません。神が、あなたになりかわり報いをするからです』僕は、神が必ず罰を与えると信じています。それに究極の復讐は、僕がそんなところに関わらず、幸せになることですから」
ええ、そうですね。
私は、頷くことしかできなかった。
「辞任なされた後、会社に残った社員などから連絡は?」
「ある訳ありませんよ」呆れたように、肩を揺らした。「よっぽど後ろめたいのか、罪悪感なのか知りませんけど。もとより四葉書店で本は買わなくなりましたし、誰にも、僕から連絡などとることはなくなりました」
有限会社クルーズの関係者名簿に、六籐と幼なじみで入社は五年も早い、「二階堂貴志とは、その後、何も?」二階堂は、四葉書店爆破事件の際においては現場責任者で、唯一証言を聞き出せる人物、なのだが。
「ありません」
きっぱりと九丈は否定する。
「そうだ、唐突ですが、イソップ寓話に『アリとキリギリス』というのがあります。結末では、アリがキリギリスを巣に招き入れて、食糧を分け与えるというのはご存じですよね?」
九丈は、急に話題をすり替えてきた。
「ええ、確か、そんなだったか、と」
思わず、ボールペンをデスクに置いた。
食糧を貯えるために一生懸命働くアリたち、キリギリスは自由に歌を唄って過ごすが、やがて冬が来ると、キリギリスは飢えに困り果て、アリに助けてもらう。そんな話だったような気がする。
「本来のアリの生態は、全く違うんです。瀕死状態で見つけたバッタ目の昆虫を巣穴に引きずり込んで、水を与えながら延命させて、少しずつそいつの体液を吸い取るらしいですよ」
「へえ」
後ろにいる十倉は感心したのか、意味もない蘊蓄に嫌気がさしたのか、抑揚のない相槌を打った。
「それでカラカラに干からび、絶命した後で使い物にならなくなった体を後からゆっくり食べるらしいんです。物事の本質は違うってことですよ。見かけや表向きのことばかりに目を向けていちゃ、駄目だってことです」
九丈は至って冷静に話をしていた。私は頷きながら、黙って聞いていたが、アリの巣穴、という言葉から捜査の話に戻そうと、ボールペンを持ち直した。
「そうだ、九丈さん。以前、会社経営されていた頃には、札幌で一戸建てを事務所にして居住も兼ねていたとおっしゃっていました。それは澄川地区の?」
一ノ瀬の首から下、胴体部分の遺体は未だ発見されていない。
両親からの捜索願いが出て、行方が掴めない状況から一〇年が経過している。腐敗は進んでいなく、遺体を損壊した後に頭部だけを冷凍保存していた可能性があった。正直、一〇年も前の防犯カメラ映像から虱潰しに痕跡を探し出すのは、よほどの根気が必要で不可能に近い。
だが、そこは大きな疑問でもあった。
今になって、何故出てきたのか。いいや、あえて出してきた、わざわざ明るみにしたということだ。そのままにしておけば一〇年もの間、どこにいるのか、生死すら分からなかったもの。何故、四葉書店の爆破事件の際に出てきたのか。
どこに隠していたのか。胴体部分はどこにあるのか。
「いいえ。中の島地区にある古い戸建ての住宅でしたが、当初はそこを札幌の拠点にして、そこで暮らしていました。ですが、築年数の経過した古い建物だったので、澄川地区へ引っ越した経緯があります」
どんよりとした雲のようなものに、また覆われた気がした。辺りが薄暗くなる。
「その中の島地区にある住居は、今?」
さァと、肩をすくめた。「会社の持ち物になっているんじゃないですか? 澄川地区に移転した際、不動産所有の手続きを税理士さんと相談した記憶があります」
みるみると気味の悪い雲は大きくなる。積乱雲のよう、迫りくる。
「その残債などは?」
「手続きの際、一括で支払っています。澄川地区の新事務所も一戸建てを事務所兼で使用していましたが、そこはあえて賃貸物件にしました」
小雨がぽつりと肩を濡らす。風も強まり、遠くで雷の音が聞こえる。
「すると有限会社クルーズの現所在地から数えて、ふたつ前になる中の島地区の戸建ては、現在どうなっているかは分からない、ということで?」
「僕には、さっぱり」
ひどい豪雨になりそうな予感がした。
「詳しい住所は覚えていますか?」
「ええっと、確か、札幌市、ええっと、豊平区中の島の、何丁目だったかなァ」と首を捻った。「いや、それなら僕にではなくて、有限会社クルーズに訊いたほう早いですよ」
何かある、私は直感のようなものを感じていた。
「係長、ちょっといいですか」
十倉が外へ出ようと、合図する。
「九丈さん、少々お待ちいただけますか、すぐ戻りますんで」
「構いません」
ドアを出ると険しい顔をした十倉は、「係長。先ほどの仕事先に電話で聞いてみたのですが、どちらも九丈は仕事に来ていたと話していました。ですが事情を知ってて、口裏を合わせているかもしれません。ここは九丈を逮捕して身柄を拘束しましょう」
「いいや、さすがに、それは時期尚早だ。まだ何も判明していないだろ」
「はっきりした状況証拠もありませんが、動機は充分にあります。この九丈という男がなんらかに関わっているとしか考えられませんよ」
「駄目だ、決めつけはよくない。明日も任意の聴取に応じてもらえばいいだけだ」
十倉は険しい表情で、「そんなんじゃ逃げられますよ。ひょっとしたら、あの世に逃げるかもしれない。それで叩かれるのは、俺ら警察ですよ? 嫌疑不十分で釈放すればいいだけです」
確かに、悪質な事案や卑劣な事件になればなるほど、犯人はより遠くに逃げようとする。密かにじいっと物陰に隠れ、海外逃亡をも目論み、挙句、死んで償うという大義名分でこの世から逃げるというのはざらにある。過去にも、任意の聴取に応じていた被疑者を嫌疑不十分で釈放したその日に、自殺され逃げられたケースは山ほどある。
「……うむ、それは確かにな。だが、違法逮捕と訴えられてもかなわん。ここは慎重に、そうだな、あァ、捜査本部に相談してみよう」
「そうですか」納得したのか、十倉はこくりと頷いた。「じゃあ俺は、爆破事件の時に就業していた二階堂に、もう一度話訊いてきます。回復していれば、何らかの情報が訊き出せるかもしれません、入院している所在は分かってますので」
二階堂が北見に転院してきた際、私も出向いたが聞き取りも出来ない状態だった。
「そうか、それじゃ頼む」
「それと捜査本部に連絡をとって、念のため中の島の事務所だった住宅を捜索してもらいましょう。現存しているなら、なにか手がかりが見つかるかもしれない」
「私も、そう思ってたところだ」
十倉は目礼をし、厚手のジャンバーを羽織って刑事第一課を後にした。そのまま、捜査本部が置かれている道警本部に電話を入れた。
「北見署の零瀬です。佐間瀬警部に繋いでほしい」
すぐに懐かしい声がした。『佐間瀬だ。零瀬か?』
「はい。現在、北見署で、」
『かけ直す、ちょっと待ってくれ』
よほど忙しいところにかけてしまったか、捜査本部のメンバーになっていた佐間瀬はこちらの返答を待たずに電話を切った。ほどなく、デスクに置いていた私のスマートフォンが鳴り出す。
『すまんな、零瀬。周りに上の連中がいたもんでな』
「いえ、この電話でよろしいですか、課長」
『やめろ。何のためにスマホでお前にかけてると思ってるんだ、零瀬』
ふと、笑みがこぼれた。
札幌豊平署刑事一課所属で、この爆破事件及び一ノ瀬殺害事件の捜査本部の一員になっている佐間瀬警部は警察学校の同期で、同部屋、同じ釜の飯を食べた無二の友人だ。
階級は、私のひとつ上にあたるため、普段職場で会話する際は敬語を使う。もっとも今は北見と札幌、めったなことじゃなければ会話もない。こうして合同捜査としての場ではない限り、プライベートでも疎遠になっていたほどだった。
「気を遣わせたな、佐間瀬」
『水臭い挨拶は抜きだ。どうした、子供でもできたのか?』
思わず、スマートフォンを落としそうになる。「お、おい、冗談にもほどがあるぞ」
『ははは、いいじゃないか。確か、女性の出産したギネス記録は五十七歳だったと思うが、それを更新できるだろ』
「あのなァ……」
佐間瀬は、ちょうど五年ほど前に結婚した。五十五歳という初老に足がかかった時期に、お互い初婚同士で、二回り以上歳の離れた伴侶と一緒になった。両親への挨拶に出向いた時、義父母が年齢ではひとつ年下ということが分かり、驚かれたという。
『子供は冗談としても、女房は大事にしないとダメだぞ。女はいつまでたっても、女なんだ。男の俺たちは、そろそろ小便するだけのモノになっちまうがな、がははは。奥さんは元気なんだろ?』
「あァ、相変わらずだよ」
警察学校を卒業して配属されたのは、全国でも有数の忙しさを誇る札幌中央署すすきの交番だった。そこには、交代勤務の裏番で、将来は刑事になりたいと目を輝かせていた佐間瀬もいた。
欲望が音をたて渦巻く、北の歓楽街ど真ん中にあるすすきの交番では、人間の愚かさや醜さ、汚さを肌で知ることが出来た。酔っぱらいやぼったくりは日常茶飯事、喧嘩や刃傷沙汰など毎日で、こんなにもトラブルがあるものかと思う暇さえないほどの激務だった。飯の時間さえとれないのは当たり前だった。
交代勤務だった佐間瀬とは、月に一度だけ有給で休みを合わせ飲みにいった。
苦楽を共にし、愚痴を言い合える仲間は大切だった。三カ月も過ぎると、同じ日に有給をとっていることを不審に思った二歳年上の女性上司が加わるようになった。私と同じA班の巡査長だった。
「あんたらち、あれだよ、あれ、ホモなんでしょ?」
酔っぱらい顔を真っ赤にした女性上司は、今ではパワハラだのモラハラだの騒がれるようなことを平気で言ってきた。 ここは宴席だ、無礼講はお互い様。「やい、こぼせ! おかわり」向かい側に座っていた私はテーブルでジョッキに少しだけ残ったビールを、上司に向かってわざと倒す。悲鳴があげる。「ちょ、ちょっと! さませ、なんとかしろ」隣に座っていた佐間瀬は、びちゃびちゃに濡れた上司のTシャツを「ふう、ふう、ふー」と頬を膨らませ、口を尖らせ息を吹きかけた。これは毎回のお約束になった。
その二歳ほど年上の女性上司は、私の妻になった。
二〇年ほど前になるか、互いに四〇を越えた独身で同じ課に所属していた私たちは、愛とはなんだ! などいう青臭いことは気にせず、なんとなくそういった関係になり、なんとなく一緒になった。十八年前に私が北見署への転勤が決まったと同時に、かみさんは警察を辞め、私たちは晩年ながら夫婦になった。金の草鞋を履くことも探すこともなく、いつも傍にいてくれたかみさんが姉さん女房だっただけだ。
佐間瀬の奥さんが二回り年下で、うちのかみさんが二歳上と、大きな違いはあったが、それで佐間瀬を羨ましいとか妬ましいとかいう気持ちは湧かなかった。むしろ、お互い晩婚ではあったが嫁をもらえて良かった、とても嬉しかった。きっと佐間瀬も、私とかみさんが結婚した時には、そう思ってくれたに違いない、人の幸せを素直に心の底から祝福できる男だということは、昔から知っている。
『どうだ、何か訊き出せたか』
九丈の聴取は、佐間瀬からの依頼だった。
「あァ、とりあえずはボチボチやってるんだが、ひとつ、有限会社クルーズが所有している札幌の不動産物件のことは知ってるか?」
『札幌の不動産? 財務表には、そんな記述なかったように思うが。固定資産税の支払いはしていたが、それは北見の会長で五十嵐の住居を会社の本拠地にして借り上げてるものだ。それ以外にもあるというのか』
「中の島地区に、九丈が社長をしていた当初、購入して事務所兼住居にしていた戸建て住宅だ。たぶん登記簿か何かを調べれば、すぐに場所は特定できるはずだ」
『なるほど、どんぶり勘定しかできない会社が見落としていたか、あえてその場所を隠し通そうとしていたのか。そこに手がかりがあるかもしれない、と?』
「売買した形跡がなければ、ただ税金を納めるだけの空き家を一〇年も保有している点は、どうにも引っかかるんだ。調べて損はないと、私は思うぞ」
『ひょっとすると、そこに一ノ瀬の遺体を隠しているかもしれない。有力な情報だ、そうだな、すぐ手配して向かわせる』
一ノ瀬を殺害したのは、数件にも及ぶ婦女暴行の被害者たちによる怨恨の犯行とも考えていた。しかし、被害に遭われた女性たちに事実を伏せて事情は聴いたが、もう関わりたくない、忘れたいことだ、話したくないという人がほとんどだった。死後一〇年は経過していたため、その期間のアリバイを暴くのは我々にとっても不可能に近い。
一番の鍵になっていた、何故、わざわざ首を切断して表沙汰にしたのかという点。
遺体を隠すには、バラバラに損壊して運べば利便性がいい。山奥の土中に拡散させて、深い穴に埋めれば発見するのも困難になる。沖合に出て、魚の餌にすれば骨になって分からなくなる。そうすれば半永久的に遺体は出てこない、事件にもならないのだ。
何故、今になって首だけを出してきたのかという点。
佐間瀬の読みとしては、爆破事件となんらかの関連があるのではないかと踏んでいた。
一ノ瀬が四葉書店で起こした窃盗被害による損害賠償金を立て替えた有限会社クルーズは、本人から賠償金相当の示談金を約束していたが、行方をくらませた一ノ瀬からの入金は滞ったままだったという。さらに、一ノ瀬の首には有限会社クルーズの従業員であった青森出身の三崎隆太の指紋が多数検出されたが、当の本人は爆破事件の数年前に仕事を辞めており、現在は行方が分からないということだった。
嫌疑がかかる三崎も、一ノ瀬の残りの遺体も見つからない。爆破事件があった四葉書店の防犯カメラ映像にも、それらしき人物は映っていない。捜査を一から立て直す必要があり、範囲も大幅に広めた経緯があった。
「もう少し九丈に、前社長に色々聞いてみようと思うのだが」
『……どうした』
「任意では限界がある。明日もとなれば、さすがに九丈も仕事を抱えているから支障をきたすだろう。応じてくれない可能性も高い、四葉書店や六籐のようにな」
実際に、爆破現場となった四葉書店側も最初は快く協力してくれていたが、一週間もすると拒否の姿勢になって、解決もできない警察のせいにする始末だった。有限会社クルーズのほうも同様に、忙しい、業務に支障をきたすの一点張りだった。
『確かに、そうなるな。コロナ禍の影響で、民間企業は死活問題だ。我々の犯人捜しには付き合ってくれない現状があるな』
佐間瀬は、それが三カ月もかかってしまった理由とは言わなかった。誰かのせいにしても犯人は見つけられないし、自分の不甲斐なさも感じているだろうから。
「一〇年前に退任したとはいえ、それまでは四葉書店側からも信頼を得ていた人物だ。もっとも、有限会社クルーズの前社長で従業員のことは熟知しているから、ここはどうだろう、四十八時間の身柄拘束をかけてみたいのだが。もう少し時間がほしい」
『うーん、逮捕、拘束するというのか』
十倉の言い分も使ってみた。「疑わしきは罰せず、確たるものが得られなければ嫌疑不十分で釈放すれば、問題はないはずだ。一ノ瀬に対しての動機もあり、嫌疑も充分考えられる、中の島地区の不動産物件のことを話したのは、九丈だけだ。そこで何かが見つかってみろ、秘密の暴露になりえる。多少強引で乱暴な気はするがな」
数秒、考えこんだ佐間瀬は、
『よし、分かった。まずは中の島地区の不動産物件を大至急手配して当たってみよう。そこの状況次第でも遅くはないだろ。また連絡を入れる』
「あァ、そうだな。それまでは、九丈の聴取を引き延ばすよう尽力する。貴重な情報が、まだ出てくるかもしれない。あァ、それと。いや、やっぱり、いい」
『どうした?』
「いや、プライベートなことだ。こんな時にする話じゃない、また連絡する」
『あァ、頼んだぞ』
雨雲は一向に晴れず、これから本降りになるような気がした。
読んでいただき、ありがとうございます!