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ei8ht Man  作者: 滝沢和也
2/16

一ノ瀬蓮

 あの頃のお前に会いたい。もう一度だけ、あの笑顔に逢いたい。

 もし戻れるのなら、あの日に。触れたい、体温を感じたい、生まれ変わったとしても、もう一度だけでいいから、あの頃のお前に逢いたい。

 俺は、有限会社クルーズの事務所で土下座させられていた。一時間も。やってられねえっての、早く終わらせてくれねえか。とりあえずは泣いたフリ、反省してる素振り。

 万引きなんて、ほんのちょっとした出来心じゃねえか。誰だってガキのころはやってんだろ。見つからなけりゃ何やったっていいだろが。もっと悪いことしてる奴なんていっぱいいんだろ?

 基本、俺なんて欲望や好奇心には勝てねえっての? つか、やりてえことやって、失敗しても若いから、なんとかなんじゃねえのか。少年法ってそういうことじゃねえのか。

 こんなところで土下座をしているのは他でもない。俺はヘマをして、下手こいた。

 いつもの掃除をしている時間帯、早朝五時。

 清掃先の企業『四葉書店』で、オレは万引きという名の窃盗を働いていた。かなり常習的にやっていた。うちの社員連中にも気付かれなかったし、四葉書店の連中からも見つからなかったから。

 エスカレートして麻痺している俺を抑えることなんて出来なかった。もう、この頃に俺はぶっ壊れていた。一週間に一回が毎日に、千円程度のものが一万円ほどの商品になっていった。総額は換金しちまってるから、わかんねえ。

 手口は、至ってシンプルだった。夏でもジャンパーを着て就業し、腹の中に収める万引きの典型。何度かジャンパーを着ていて九丈社長には怒られたが、「腹痛いもんで、揉んで揉んで」と、苦笑いでかろうじてすり抜け、入社当初から半年ほど盗みを働いた。

 そいつを売っては、小遣いにしていた。いいカネになった。あぶく銭、遊ぶカネに全部使ってやった。

 その様を防犯カメラによって撮られていて、今日の朝、御用となっちまった。

 俺は、ひとまず会社で尋問された。

 ぶん殴られるかな、やってきたら俺もぶん殴ってやる、正当防衛だ、それから警察に傷害で突き出してやる、なんて思っていたが、事情等説明して終わった。けッ、拍子抜けさせてんじゃねえ、根性ねえな。EDか童貞じゃねえのか、お前ら。

それから九丈社長に連れられ、四葉書店の事務所へ謝罪に行った。

 さすがにここではぶん殴られるかな、なんて思ってたけど、土下座しろしないとの押し問答の後、九丈社長は副社長だかって老害の白髪爺さんに頭を踏みつけられていた。

だっせええ! そんなヘボい野郎、やり返してやりゃいいだろうが。

 なぜか俺に対して、副社長は、

「彼は加害者で犯人でもあるが、未来ある若者だ。処分は、会社の代表である九丈社長が甘んじて引き受けたまえ」

 大爆笑!

 白髪の眼鏡爺さん、いいこと言うじゃねえか。

 腹を抱えて笑いそうになった、堪えるのが大変だった。

 ガラス張りになった会議室のような部屋を、外にいる数人の事務員は見てみないフリをして通り過ぎる。

 俺はといえば、頭を下げんのも面倒になったから、ただの正座をして傍観していた。

 それからは、くだらねえ尋問が続いた。やれいつからやってたんだ、やれ商品はどうしたんだ、やれどれくらいの商品を盗んだんだ、やれいつからやってたんだ、やれ商品はどうしたんだ、やれやればかりの同じ質問ばっかでうんざりした。

 それ知ったとこでなんだっつうんだよ、今更どうすれってんだ、ボケ!

 思わず逆ギレしたくなった。けれど、警察の取り調べのほうが執拗で嫌気はさしたし、頭ん中では全然別のこと、奈々のことを考えていた。

 高校の卒業式の日だ。

 同じクラスの男女合わせて十名ほどで、打ち上げなる宅飲みをした。男が七人、女三人。

 父親は夜勤、母親も気を遣って家を空けてくれた奈々(なな)という、クラスでは二番目くらいにかわいい小柄の女の家で、たいした飲んだこともない安い缶酎ハイばかりを買い込んだ。宅配でピザ、ファストフード店でハンバーガーとポテト、お菓子を並べて、ゲラゲラとくだらない話題とぺらぺらに薄い思い出話に笑い合い、どんちゃん騒ぎをした。

退屈な学生生活からの解放と少しの寂しさ、新社会人としての希望と不安、色んな感情が入り交ざっていた。けれど、俺の中には違う感情があった。

「蓮くん、ピザ食べないの? とってあげようか」

「……あ、いや大丈夫」

「顔赤くなってるけど、具合悪い?」

「い、いや、絶好調」

「ホント? さっきからギャグはスベってるけど。うふふ」

 酔いが回ってきたのか、顔に熱を帯びていた。覗き込むようにしてくる奈々にどぎまぎして、高いアニメ声が耳をくすぐり、笑い声が心臓に突き刺さった。

 俺は、奈々が好きだった。

 毎日というほど、奈々のことを考えていた。いいや、分ごと、いいや、秒で奈々を想っていた。脳みそのほとんどは奈々に支配されていた。それは高一で入学した頃からずっと、三年間ずうっと、完全に一方的な一目惚れだった。

 透明感しかない奈々の吸い込まれそうになる、くっきり二重の目が好きだ、にんにく鼻も愛らしい、柔らかそうな唇には吸い付きたくなる。広いおでこ、通り過ぎた時の髪の香り、香水でもつけているのか残り香は尾を引いて形になって見えた。背丈も小さく可愛らしい、触れたこともない細い指、艶々した白い肌、小柄なのに欲情させるふっくらとした胸、尻、ほっそりとした脚。あざとい笑顔が大好きだ。妄想は爆発寸前だった。

 いつも奈々を想って自家発電していた。

 誰にも打ち明けることなく、ひとり悶々としていた。思い切って告白をして付き合おうとは思わなかった。フラれるのは死ぬほど嫌だったし、数回話したことがある程度だったから。それ以上に、奈々には付き合っている男がいた。ここにもいる、俺のダチの太一(たいち)だ。

 太一はクラスでも、学年でも人気者だった。

 部活はサッカー部の主将、ポジションは花形のフォワード。足の速い太一が派手にドリブルをして試合で点を取れば、きゃあきゃあと黄色い声が宙に飛び交った。イケメンで、いつも周りに人は群がり、その中心で笑っていた。誰からも好かれていた。

 どこかで俺は憧れにも似たような、もどかしい嫉妬心が芽生えていた。

 何でも持っている太一に、俺が死ぬほど好きな奈々と付き合っていることに、そんな奈々と高校生のくせしてヤッていることに。それは考えれば考えるほど、メラメラと燃え盛り、心の中の良心や道徳、倫理感を燃やしていき、真っ黒に焼く炎のようになっていく。

 鬱屈した頭の中は、どす黒く焦げついていた。

 深夜十二時を回ると、集まった連中もちらほらと帰っていく。またね、元気でな、俺のこと忘れるなよ、絶対連絡してね、涙を浮かべる奴、酔っぱらってフラフラになっている奴、携帯でポーズを決めては写真を撮った。

 残ったのは、酔い潰れてリビングのソファでいびきをかいている太一と、家主の奈々と俺だけになった。

「みんな帰っちゃったね。なんだか、寂しくなっちゃったね」

 奈々は、太一に薄手の毛布を起こさないよう気遣い、そうっと掛けた。BGM代わりのテレビのスイッチを切った。

「ここじゃあ散らかってるし、太一起こしちゃうのもなんだから、わたしの部屋にでも行く?」

 冷蔵庫から出しっぱなしにしてぬるくなり、残り少なくなった缶酎ハイと、開封されていないポテトチップスを持って、二階まで続く階段を昇る。

 奈々の部屋は整理整頓が行き届いていて、甘ったるい香りが充満していた。花柄のベッドカバーで覆われたふかふかのベッドに腰を降ろす。奈々は自分の簡素なデスク用の椅子に座った。心臓のドクドクする音が早まっていくのが分かる。

「ほら、今日で終わりなんだから、飲もう飲もう!」

 そうだ、今日でもう奈々とも会えないんだ。心の中のトリガーに指がかかった。

「これから、そのう、太一とは、どうするつもりなんだ?」

「どうするって?」

 奈々は、事もなげに愛らしい笑みを向けた。

「いや、太一は札幌の大学だし、奈々は北見の看護学校に進学するんだろ? そのまま遠距離恋愛するってことなのか?」

 俺は、札幌の輸入車販売ディーラーの就職が決まっていた。太一と同じ都会へ出ていく。北見とは直線距離300キロ、車で移動するならノンストップで五時間ほどはかかる。

「別に、離れたからといって嫌いになるってことじゃないでしょ。逢えないのは寂しいけど、ずっと会えない訳じゃないし。けど、太一が大学でかわいい女の子と合コンばっかりして浮気でもしたら、すぐ別れるけどね。うふふ」

「奈々にも、別に好きな人ができたら、もし、こっちに太一より好きな人ができたら?」

 ぎりぎりとトリガーを絞る指に力が入っていった。

「ない、ない!」

 大げさに顔の前で手を振った奈々は、「わたし、こう見えても一途なんだよ? そんなにかわいくもないから、モテたりしないし。本当に心の底から好きだなァって思えるのは、太一が初めてでね。毎日楽しくって嬉しいな、恋してるなって実感してるんだ」

 なんで、俺じゃねえんだよ!

「……え?」

 心の中で、頭の中で叫んだつもりが、そのまま口走っていた。思い切り、引き金を絞る。アルコールの混ざった血液が沸騰するようだった。そのまま脳天を突き抜けていった。

 奈々の髪の毛を鷲掴みにして、顔を引き寄せ、右手で思い切り頬を張る。「きゃああ」と大げさに叫んだ奈々の顔を覗き込み、

「俺のこと、好きって言えよ」

「……な、なにすんのよ!」

 押さえた頬の上からお構いなしに、今度は手の平と甲で往復ビンタを張る。「好きだって言えよ」何度も、何度も。ばちん、と肌を叩く音が心地よかった。

「や、やめてよ! お願いだから、言うから、離して」

 抗おうと必死にもがくだけだった。俺は、一瞬だけビンタを辞めて、奈々の鼻先数センチのところから目の奥を覗き込んだ。「言えよ、俺のことが好きだって」

 諦めたのか、目に涙を浮かべながら、奈々はぼそりと言った。

「……す、好きだよ、蓮くん、だから、」

「俺なんて、ドのつくキュンだもんねえええ!」

 奈々の柔らかい頬を、思い切り振り上げた拳で殴った、ベッドの上へ強引に引き寄せ、馬乗りになって何度も殴りつけた。上着のトレーナーを瞬時に脱がせ、ブラジャーは引きちぎってやった。露わになった母親以外に見る脂肪につつまれた小ぶりの乳房が揺れたのを見て、もう止められなかった。

 奈々は大声で『やめて、お願い、助けて!』と叫んだ。枕元にあったぬいぐるみで顔を塞ぐ。「しーッ、太一を起こしちまうだろ?」誰がやめるか、奈々のお願いじゃなく、俺の望みを聞け! 誰も助けになんか来ねえんだよ!

 そこから先は、あまり覚えちゃいない。

 引き金を引いてしまえば何てことない、罪悪感もなかった。泣きじゃくってる奈々に対しても、ダチの太一に対しても、自分自身の良心にも、世間の倫理や秩序に対しても。どちらかといえば、充実した満足感、成就させた想いが勝っていた。

 刺激を越える興奮、心臓はいつまでもバクバクいって、雷にでも打たれたかのような衝撃が背筋に走り、脳内麻薬がドクドクと垂れ流れていた。

 これでいい。やっちまったもんは、取り返しなんてつかねえんだし。気持ちよかったし、満たされたし。何度も中出しして果てても、何度も入れては抜いてを繰り返した。奈々はそのうち抵抗をやめて、ぐったりとしてただの肉人形みたいになっていた。

 今日で会うこともない、今日で終わりなんだから。


 札幌に出てきてから、輸入車販売ディーラーの研修期間を経て、営業として外回りをしながらあくせく働いていた、三か月後。出勤しようと準備をしようとしていた時、

「おう、太一。どうした、こんな朝早く、」

『な、奈々が、死んだ』

 太一は震える声で言った。

「……は?」

『昨日の深夜、国道の陸橋から飛び降りて。その下走ってる車に轢かれて』

死んだ?

「な、なんでだよ」

『だから知るかって。おい、蓮。お前なんか知らねえか?』

「お、俺が? い、いや、まったく」

 どろりと粘ついた嫌な汗が、こめかみをゆっくり伝った。

『卒業式の後で飲み会しただろ。実はあの日から、奈々はLINEもブロックしてきて、電話にも出てくれないんだ』

「そ、それは、蓮、お前がフラれたってことじゃねえのか?」

『奈々にフラれたってんなら、それでもいい。連絡もとれないし、俺だってそう思って今まで過ごしてたよ。だけど、だけど、あの日からなんだよ。あの日になんかあったんじゃないかって』

 あの日。

 俺は一度、ねっとりとした生唾を飲み込んだ。

「あァ、あん時は、俺も早く帰ったし、奈々も部屋で寝てた、」

『嘘つくなよ』

 ドキッと心臓が跳ねた。

「う、嘘ってなんだよ。俺のこと信用してねえのかよ、ダチじゃねえのかよ! お前の彼女のことなんか俺が知る訳ねえだろうが」

『奈々のお父さんが俺に言ったんだ。「嘘は、罪のひとつだ。真相や真実を隠そうとする罪だ」ってな』

「……な、なんだそれ。小さい嘘くらい、誰だってつくだろ。子供なんて、」

『泣いてたんだ、その日、奈々は。しゃくりあげるようにして、声をあげてわんわん泣いてたんだ。俺が起きて何を訊いても、布団から出てこないでずうっと泣いていたんだ』

 太一の声には、どこに向けていいのか分からない怒りと涙が滲んでいた。『お前が見た奈々は、本当に寝てたってのか』

「あ、あァ。寝てたような、気がする……」

『気がするってなんだよ、嘘はつくんじゃねえぞ』

 嘘、という言葉にカチンときて逆上したくなった。

「と、飛び降り自殺したんじゃねえのかよ、お、俺が悪いとか、直接殺したって訳じゃねえだろ。いくらダチでも、言っていいことと悪いことくらいあるだろ」

『俺は、ただ理由が知りたいんだ』

 太一は、電話口で声を荒げた。『遺書もない、誰にも何も言ってない、俺にもだ。理由のひとつくらい、心当たりないのかって訊いてるんだよ。あの日、俺は酔い潰れたけど、お前が最後のほうまで残っていたのは覚えてるんだ。だから訊いてるんだよ』

「……あ、あァ、そうだったか、な」

 理由のひとつどころか、心当たりしかない。原因、起因したことはあからさまに分かっていた。そんなことが嫌でイヤで仕方ない、あんなこと誰にも言えない、ましてや恋人の太一や両親、友人にさえ口が裂けても話すことはできない、誰にも相談なんてできっこない、何度もぶたれる痛みを味わった挙句、肉体を弄ばれ、心はぐちゃぐちゃに砕かれ、魂さえ握り潰され、一生消えることのない脳みそへのタトゥー、傷を記憶に否が応でも植えつけられる下卑た卑劣な行為。

俺に犯されたから、死んだんだ。

 奈々が死んで悲しいのに、もう会えないってのに、俺の股間ははち切れんばかりに膨張していた。三カ月前のことを鮮明に思い出していた。

「お、俺はなにも、知らない」

『……そっか』

 太一は、電話を切った。その瞬間、なんの刺激もないのにパンツの中で射精してしまう。俺は力も入らない震える足で洗面所に向かい、鏡を見た。

その中の俺は、なぜか笑っていた。

 それから太一とは疎遠になった。友情なんかよりも、気まずさが勝っていたからだ。

 けれど、欲望のどす黒い炎は鎮火することなく、メラメラと燃え盛る一方で、次第にエスカレートしていく自分を止められやしなかった。考えれば考えるほど、だらだらと涎が口から脳みそから溢れ垂れてくる。どこかで奈々の面影を追っていた、亡霊を追っかけていた。俺は、完全にぶっ壊れた。

 会社の飲み会で行ったガールズバーのスタイルがモデルのような背の高い女は、奈々と目が似ていた。アフターで誘い、好きだと無理やり言わせて強姦してやった。高級外車を買ったセレブな色っぽい人妻は、奈々とそっくりな声をしていた。用もないのに訪問して、欲求不満だと強引に言わせて、パンツだけずらしてぶち込んでやった。同じ会社のアイドル的存在で髪の長い受付嬢は、奈々と背格好が似かよっていた。「前から好きだった」と言って、前戯もなしに犯してやる。その隣にいた中途採用で入ってきた髪をショートカットにした若い受付嬢は、奈々と同じ匂いがした。「本当はお前のことが好きだ」とたぶらかし弄ぶ。事務所の地味で真面目そうな眼鏡の女は、指先が、自宅に夜遅く荷物を届ける茶髪の声が甲高い女性宅配員は、愛嬌が。かわいいコンビニの店員は、奈々の生き写しかのようだった。

 どいつも、こいつも、泣いていた。奈々も泣いていた。その泣き叫ぶ声は、俺にとって喘ぎ声に聞こえた。奈々の声に聞こえた。脳みそにいる奈々は、どろどろに膿み溶けていて面影も分からなくなっていたけど。

 女なんて脆く、弱い。ビンタ一発で泣く、恫喝する言葉に恐怖でひれ伏す、暴力に服従する、ぶち込んだら泣き寝入りで黙る。誰にも言えない恥辱や羞恥心で何もさせない。ギブアンドテイクで気持ちよくなんかならなくたっていい、俺が気持ちよければ、それでいい。俺の欲望が満たされれば、俺が満足するなら、それだけでいい。愛とか恋とか、好きとか愛してるとか、ホントだりぃ。ただ、面倒臭え。むしろ、うぜえ。俺は、奈々とやりたいだけなんだ。

 女の反感を買ったのか、やりすぎたのか、警察が家に訊ねてきて、俺は逮捕された。

 最初はどいつなのか分からなかったが、どうやら奈々と背格好が似たアイドルぶった髪の長い受付嬢が被害届をだしたらしい。そいつはすでに会社を突然、自己都合により退職していた。

 警察の聴取で俺は、同意はあった、乱暴なことはしていない、相手とは付き合っていた、そう終始主張した。相手からは、「好意を強要された。頬を二度ぶたれ、避妊などせず行為に及んだ。被害者には、結婚を約束して別に交際している男性がいる」とかなんとかで、強制性交罪やらで起訴されそうになった。ブタ箱行きは確定だ。

 俺は、頑として譲らなかった。すると、会社がつけてくれた弁護士から「示談金を懲役分支払うから、被害届を取り下げてくれ。反省しているし、私が刑務所に入ってもあなたには得がない。だったら、お金を受け取り、あなたも罪人を許す慈悲を与えるべきではないか。というのは?」

 何言ってんのかちんぷんかんぷんだったが、俺が助かるなら「その方向で」と告げると、一週間で留置場から解放された。

 会社には、当の本人が退職して居ないことをいいことに、ありったけの言い訳を並べた。死人に口なしなんて言うし、会社が弁護士をつけてくれたくらいだしな。

「向こうから誘ってきたんすよ、ゴムはつけないでって言うし、付き合ってる奴とは別れるって言ってたし。俺、心入れ替えて仕事します、社長のとこ辞めたくないっす!」

 嘘も方便。

 ウソ泣きして土下座したら、「弁護士費用は会社で持つけど、示談金はきちんと支払え。クビにするのは簡単だが、お前はまだ若い。カネを稼がないと示談金も払えないだろ、うちのエースになれるよう頑張って働け」

 だって。

 若いって、いいねえ。

 示談金は一〇〇万円、一括請求されたがなんとか月二万の振り込みにしてもらった。約四年間。ふざけやがって、その前に俺に前歴がついちまったじゃねえか。

 会社でそいつの住所を調べ、こちらから出向いてやった。奈々に背格好が似ていたから、会いたくなったのが本音だ。もちろん、夜なら交際している男がいるかもしれない、まだ再就職なんてしていないだろう、鉄は熱いうちに打て、二日後の真っ昼間。八軒ほどが入る木造アパートの二階角の部屋だった。

 チャイムを鳴らし、玄関越しに頭を下げながら、「色々と申し訳ありませんでした。示談金お持ちしましたので、開けてもらえませんでしょうか?」

 さすがに警戒しているのか、返答はない。が、ドア越しに気配を感じる。

「本当に反省しています! すいませんでした!」

 わざと近所にまで届くような大声で叫ぶ。

「本当に、本当に、申し訳ありませんっしたァ!」

 開錠する音が聞こえた。

 地べたに両膝をつき、背中を丸め、鼻をすすりながら、「ほ、本当に、すいませんでした。勘弁してく、ださい、うう」

「……ちょっと、近所迷惑になるでしょ」

 少しだけドアが開いた。

「マジですいません! と、とりあえず、カネ持ってきたんで開けてください、うう」

 一度ドアが閉まった、チェーンロックが外れる音、再度ゆっくりドアが開く、その隙間に手を突っ込み、立ち上がると同時に玄関ドアを開け放つ。

「なァんちゃって、な」

「……え」

 ノーメイクで五歳ほど老けたような女の長い髪を鷲掴みにして、奥へ押し込む。後ろ手にドアを閉め、素早く鍵を閉めた。女が叫び声をあげる。口を塞いで、「しーッ」と自分の顔の前で人差し指を立てた。

「近所迷惑になんだろ」

 恨みを込め、思い切り肘でぶん殴ってやった。

 めちゃくちゃにしてやる、ぐっちゃぐちゃにしてやった。 リベンジだ、一〇日間溜まった鬱憤を撒き散らした、俺の経歴に傷をつけやがった女を、奈々とそっくりな女を、二度と歯向かってこられないようボッコボコにして、修理もできないボロボロの廃車にしてやる思いで犯してやった。

 その日の夜、俺はまた警察に捕まり、留置場に逆戻りした。

 強姦と傷害、婦女暴行の罪で起訴された。思わず笑ってしまったのは、その被害届を出した奴は、奈々に似た声のセレブ妻だったことだ。旦那が知り、烈火のごとく会社に乗り込んできたということだった。さすがに会社もクビ、示談交渉してくれた弁護士もつけてくれず、前科者になった。懲役六ヶ月執行猶予三年。

 留置場の同部屋になった反社の奴に誘われ、直接の関りはなかった上の組織である広域指定暴力団、北導會(ほくどうかい)の連中に、清掃会社の専務とかいう人を紹介された。()(とう)という三十代の若い専務は、人事を一任されているとかだったけれど「俺が北導會と付き合ってるのは、会社には内緒な」と釘を刺され、面接もそこそこに入社が決まった。

 仕事とは、札幌市内の書籍店施設を、早朝の定期的な時間に清掃するアルバイトの延長みたいな業務だった。朝早いのと、中々の肉体労働だったことを除けば、適当に掃いて、簡単に拭いて、はい、掃除しましたって顔してりゃいいだけのこと。なんせ拘束時間も短えし、ラクなもんだった。

 四葉書店は、俺にとって宝の山だった。

 売ってるものは本だけじゃなく、音楽CDやミュージックDVDの販売、映画などのDVDレンタル、文房具。四ジャンルの嗜好品目を柱として取り扱い、幸せの象徴である四葉のクローバーがシンボル、皆さまの幸せを願うということらしい。

 ごっそり平積みしてある漫画の新刊、高額DVDセット、高級文具が狙い目。転売ヤーは高額商品や手に入りずらいモノ、誰もが欲しがるものを高く売って儲ける。仕入れもゼロ円で盗んだものだけどよ。こんな俺の幸せまで願ってくれるなんてな、笑いがとまらねえ。

 人生なんて行き当たりばったりでも楽勝、どうとでもなるもんだな。


 窃盗に関して、なんだかんだ長くてつまんねえ話の結果、有限会社クルーズが四葉書店側に損害賠償金を五百万支払い、今後の対策を提示するようにとお灸をすえられた。

 クルーズの事務所に戻った時には、深夜十一時を過ぎていたからか、疲れた様子の九丈社長は「明日、また顔だせ」とのことで家に帰された。

 だっせえええええッ! 誰が来るか、ボケ。

 俺は次の日の早朝すぐに、前の会社で示談交渉してくれた弁護士に連絡をした。助けてほしい、会社にガン詰めされそうだ、代理人としての成功報酬は必ず払います。電話で面倒そうに対応した弁護士は、「はァ、では、私が代理人になりますので、会社からの連絡には応じなくていいです。手付金として、一〇〇万をこれから申します口座へ―――」

 だっせえええええッ! 誰が払うか、ボケ。

 全部、バックレちまえばこっちのもんだ。逃げてしまえば、全部チャラじゃねえか。うぜえ、だせえ、バカばっかじゃねえか。

 すぐに荷物をまとめる。この部屋だって家賃も払わず、夜逃げすりゃいい。ひょっとすると、九丈社長のことだ、ここに来るかもしれない。善は急げ、ここから離れりゃ誰も追ってはこれない。ガラケーの電源も切った。早く奈々に会いたい。

 玄関のチャイムが鳴った。モニターを覗くと、白いつば付きのヘルメットを被り、ガスマスクのようなフルフェイスの防塵マスクをして顔が見えない制服警官が、俯いて立っていた。思わず舌打ちした。何度もインターフォンを鳴らしてくる。

 警察には被害届が出ていないはずなのに。変装してる九丈なのか?

 執行猶予中だ、下手なことはできないな。鼻を鳴らし、様子を見るため、俺は静かに鍵を開け、玄関を薄く開けた。途端、

「あなたは神を信じますか?」

 ドアを強引に大きく開けられ、つんのめる恰好になったおでこの中心に拳銃を突きつけられた。

「……え?」

「後ろ向け」

 低くて小さな声だったけれど、ずしりと重みを感じた。

 額につけられていた冷たい鉄の感触が少しだけ離れたが、暗い銃口は俺の頭に照準があったまま。モデルガンではないことが、すぐに分かった。

「え?」

「え、じゃねえ。ゆっくり後ろ向け」

 恐るおそる手を上げれば、「誰が手上げろっつったんだ」と拳銃でおでこを小突かれ、凍りつきながら後ろを向こうとすれば、「手を下ろせ」グリップで頭を小突かれ、警官を背にしてゆっくり手を下ろせば、「後ろに手回せ」今度は後頭部に銃口を突きつけられた。

 なすがまま、背中側に手を回すと、今度は手首に冷たい感触が伝ってきた。

ガチリ、と手首に冷たい感触がする。そのまま頭にすっぽりと黒い布袋を被せられ、首元の紐を絞められた。

「……う、うわあああああああ」思わず声を張り上げた。

「黙れ」

 またしても後頭部に拳銃を突きつけられた。呼吸が過度に増していく。

「回れ右だ。下手な抵抗してみろ、簡単に頭がぶっ飛ぶぞ」

「た、たたた、助けてください」

「自分でやらかしたこと、忘れてんじゃねえよ。さっさと歩け」

 真っ暗な布越しの耳元で、悪魔のような低音の小さな囁きがした。生唾を飲み込んだ。

 確かではない、確証はないが、これは九丈だ、九丈の声に違いない。こんなことするのは、昨日の今日で。奈々、助けてくれ!

 足が震えて、視界を塞がれ何も見えないまま歩くのは大変だった。何度もコケそうになるのを、警官に引き起こされる。

「知ってるか? この日本で年間どれくらいの失踪届が出されるかって」

 ゆっくり歩を進めていた時、警官が耳元で呟く。ぶるぶると首を横に振った。

「約一万件、そんなにたくさんの奴が行方不明になってんだとよ。こんな狭い島国なのに、どこいっちまったんだろうな」

 俺が知る訳もない。

「警察ってのはよ、死体があがれば捜査する。他殺の疑いはあるか、事故か、自殺かってな。他殺の疑いがあるなら犯人はどいつだってな。ただ、行方不明の捜査なんてしねえんだよ。なんでか分かるか?」

 何度も首を横に振った。

「生きてるか死んでるか分からねえもん、捜さねえんだよ。そんなに暇じゃねえってことだ」

 嫌な臭いがする。どこかで嗅いだような、濁ったドブのような臭いだった。「でな、捜してもいねえ、その失踪届は七年で失効されるんだ。たったの七年だ」

「……え?」

「死亡したってことになんだよ。つまりはだ、」制服警官は、冷たく凍りつくほどの声で俺の耳元に囁く。「七年見つからずに隠しておいたら死んだことになる。そいつがどっかで生きてようが、死んでようがな」

 背中に強い衝撃をうけ、前につんのめる。何かに腹がつかえた。腰の衣服をもたれ、持ち上げられる。膝を折り曲げられ、寝転んだ状態になった。感覚で、自動車後部のトランクルームに乗せられたようだった。リアゲートが閉まると、車は勢いよく走りだした。

 完全に拉致られた。殺されるのか? まさか。

 何も考えられなかった、何も思いつかない。叫んでみたが、ただ車は走っていた。息苦しい、嫌な汗しかでてこない、心臓がバクバクいってる。何度も足で蹴ってみた、車の低いマフラーの音しか聴こえてこない。奈々、助けてくれ。

 どれくらい走行したのか分からない。車はゆっくり停車し、しばらくするとリアゲートが上に開いた。

「助けてくれええ!」

 渾身の力を込めて、叫んでやった。

「お前の被害に遭った人たちは、みんなそう言ってただろ。だけど、お前は聞かなかった。だから、俺もお前のいうことなんか聞かない」

「な、奈々がッ!」

 相手の動きが一瞬止まった、気配で分かった。「奈々が、毎晩出てくるんです! 毎晩出てきて、お、俺の、首を絞めに来るんです! ずっと」

 太一から亡くなったと聞いた、あの日から。

 死んだはずの奈々は毎晩、俺の首を絞めにきていた。昨日も、一昨日も、あの日から毎日。真っ白な顔で、悍ましい顔で、憎くて仕方ない、恨めしい、そんな顔で。何も言わない、ひどく冷たい手で、上に跨って、ただ俺の首を絞めてニヤついていた。

 あの頃の奈々とは、別人だった。化けて首を絞めにくる気色悪い奈々は、ただの怨霊だった。

「良かったな」

「お、俺は、ただ、あの頃の奈々に、」

 ひんやりとしたロープのようなものを首にかけられた。「え?」ネクタイのようにキュッときつく締められる。毎晩、奈々に首を絞められるのと同じ感触だった。

「これは、裁きだ。神様のな」

 急に震えが増してきた、声が出ない、息が小刻みになる。

「お前は投獄されるんだ、そこへ堕ちるまでに二〇〇〇年もかかる無間(むげん)地獄にな。安心しろ、無間とはいっても、その地獄からは解放されるらしいぜ。いつだと思う?」

 首を何度も振る。

背筋に恐怖が貼りついて、凍りつくような寒気が襲ってくる。

「三百四十九京年なんだとよ」

「……け、けい」

「いってこい、クソ野郎」

 リアゲートを開けたまま、警官の声はしなくなった。寒さはそのままだった。

 タイヤが鳴る。

 俺を乗せたまま、首にロープがかけられたまま、黒い布袋を被せられたまま、手錠をかけられたまま、車が勢いよく走りだした。え? 思わず、転がってしまう。速度がみるみる上がっていく。え? エンジン音が響き渡り、野太いマフラーが吠えている。開けっ放しのハッチから風が舞い込んでくる。

 え? スピードは落ちない。瞬間、

 頸椎がバラバラに砕け散る音が、鼓膜の内側から聞こえた。鮮やかな色に溢れていたはずの世界が、真っ黒に塗り潰された。それからも、叫びたくなるほどの激痛は続き、それからも速度は一向に落ちない。真っ暗闇の中を落ちていく。苦しいほどの痛みの中、どこかへ落ち続けている。いつまでも、ずうっと。

もう、二度と奈々には会えなくなった。

読んでいただき、ありがとうございます!

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